4. a.
2026 / 01 / 13 ( Tue )
 嗅がれている。
 なぜ。――酔っている?
 奇妙な展開に、身動きが取れなかった。
「今日一日、面白い匂いさせてんな」
「えっ、臭う……? シャワー浴びたのに」

「だからだよ。おまえ、オレの石鹸とかシャンプー使ったろ」
「う、うん。不快だったらごめんなさい」
 そうじゃねえよ、と言って男は少し顔を離した。リクターの言葉には僅かに酒の匂いが残っていた。
「嗅ぎ慣れた石鹸でも、違う奴が使うとそういう感じになるんだなって話。体臭? と混ざるからか」
 どういう感じだろうとシェリーは自分の腕を嗅いでみたが、借りたシャツを着ているので知らない洗剤も混ざっている。

 上を振り仰ぐ。
 クセのついた濃い茶髪のひと房を指で挟み、毛先を鼻に近付けた。想像してたよりしなやかな髪質だ。
「ほんとだ。同じなのにちょっと違う」
「……」
 数秒経っても返事がなく、シェリーは己の失態に気付いた。手を放してまた謝る。

「ごめんなさい。あの、なんか私……あなたとの距離感がうまく計れない、のかも」
 昔の感覚のままで接しているつもりはないのだが、つい甘えてしまう。懐いていた、という表現が合っているか。何もかも昔とはもう違うのに。
「別にいいけど。謝り癖すげえな」
 放したばかりの手を逆に掴まれた。昨日に比べて、力を加減されている。
 その手の温かさに、ドキッとした。

「謝り癖って……うぅ、直すように、善処する」
「おう」
 くるんと手の平を上にされた。男は、シェリーの手首辺りをじっと見下ろしてる。治りかけの細い切り傷を、親指でそっとなぞった。くすぐったさに、シェリーは息をひそめる。

「包帯くらいあるぞ」
「……大丈夫」
「そうかよ。浅いみたいだからこれ以上はなんも言わねえよ」
 ありがとう――同じく手首を見下ろして、呟いた。
「優しいね。あなたは、昔から」

 ためらい傷にあまり突っ込まないでくれて、心底助かった。思い詰めたある夜にハサミの先を当てただけで、本気でどうにかなりたかったわけではなかった。あの時の感情は、鋭い痛みが走ったのと同時に、醒めたのだった。そんな中途半端な気持ちを憐れまれても心配されても、正直困る。
 リクターは何故かなかなか手を放してくれなかった。どころか、親指の付け根辺りに指を当てて、ぎゅっと力を込めた。

「あ、あの。あんまりぷにぷにしないで」
「んー」
「お父さん側の遺伝で、贅肉が付きやすいの気にしてるんだから」
「なんで。いいじゃん贅肉」
「よくないよ、女性は細い方が綺麗だもん」
 容姿は長年のコンプレックスだった。背はもっと高くありたかったし、制御しづらいぐるぐるの巻き毛も好きじゃない。

「手触りがいいけどな」
「肉球みたいに言わないで!?」
 手を奪い返して、ソファの端まで後退った。ひょっとしてこの人も、距離感がおかしいのかもしれない。よもや犬や猫のように思われているのではないか。
「肉が付きやすいって、たとえばどこが?」
「え? どこって、脇下と……お尻が特に太りやすいよ。そんなに量食べないのになあ」
 唇に指を当てて考え込んだシェリーを、リクターは呆れた顔で諫めた。

「いや怒れよ。普通にセクハラ発言だろうが。何答えてんだ、危機感ねえな」
「あれ、そうだね……たぶん訊いたのがあなただから、なんか答えちゃうんだよ」
 他の人に言われたらさすがに警戒していた。そもそもな話、肉が付きやすいのを気にしているなどと、コンプレックスを語ったりもしなかっただろう。

 男はため息とも苦笑とも取れない息を吐いた。眼鏡を外し、サイドテーブルの引き出しから布を取り出して、レンズを拭き始める。

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