1-2. h
2018 / 04 / 10 ( Tue )
 ――そいつは、ダメだ。
 扉を閉めた後の束の間の静寂。扉に向かってうなだれた頭の中には、昨夜の警告がよみがえっていた。
(どうしよう)
 タクシーを呼んでも、到着するまでにどれくらいの時間がかかるのかは予測不能だ。逃げ場がない。

「イヤならイヤって、ガッツリいわなきゃダメだぜー」
 ついさっき脳内に浮かんだのと同じ声が耳朶を打った。びくりと、大げさなほどに両肩が跳ねた。
 なぜ。どうやって。神出鬼没そのものではないか。

「ミズチくん、ここトイレだよ! 鍵かけたけど!?」
 涙目で振り返る。洋式便器の蓋を下ろして、その上に子供が頬杖をついて腰かけている。
 今日は金魚柄の赤いTシャツにカーキ色の短パンという洋服姿だが、上下どちらもぶかぶかでまったく丈が合っていない。裾をひたすらにまくって無理やり着ているようだった。

「けっこーまえからいたし」
「……疑問が多すぎて逆に言葉が出てこない」
 深いため息をついて、ゆみこはその場にしゃがみこんだ。
 目線が低くなった途端、少年の脛辺りに五センチほどの切り傷をみつけた。その傷どうしたのと訊くと、忍び込んだときにやったんだろ、と彼はなんでもなさそうに答える。
 かなり深く切れているのに血が出ていない。そう指摘してやると、ミズチは楽しげに傷口を広げてみせた。

「この姿のときはえぐってもめくってもなにも出ねーぜ」
「きゃあ!」
 咄嗟に目をそらした。たとえ血が出ていなくとも、皮膚下の様子は生々しくていけない。くらっとした。抉っても捲っても、と彼は言ったのだろうか。

「そんなことよりさー。たすけてやろうか。おまえが望むなら、だけど」
「……やっぱりあの人、なにかが変なんだね」
「さっすが、ゆみにはわかったか」
「だって目が光ったし、死人みたいに冷たいし。怖いのに、怖がってたことがすぐどうでもよくなっちゃうの。さっきも栗皮ちゃんが来なかったら、ぼーっとしたままだった……」

「じょうできじょうでき。むかしよりも危険察知能力が発達してて、なによりだ。これにこりたらもうへんなやつについてくなよ」
 まるで子供にするように、子供に頭を撫でられた。不思議と、嫌な感じはしない。
 思い切って訊いてみた。
「きみにあの人をどうにかできるの」

「できる」不敵な笑みと、妙に説得力を感じるひと言だ。「おまえは四分ちょい、じかんをかせげ」
 唯美子はしゃがんだままでうなずいた。何ゆえ四分なのかとか具体的に何をするつもりなのかとか、疑問がなくなったわけではないが、彼の言葉を信じてみようと思った。

「ねえ、どうして助けてくれるの」
「ゆみが望んだから」
「なんでわたしが望めば、助けてくれるの……?」
「ないしょ。ゆみがじぶんでおもいだすまでは、おしえねーよ」
 そう言って、ミズチはデコピンしてきた。予想外に痛い。

「……きみの瞳も光るのに、なんでかな。こわくないよ」
「んー? そうかあ? こわがってくれてもいいぜ」
 少年は屈託なく笑った。欠けた歯が惜しげなくあらわれる。
「そんなにかわいく言われたら、ますますむりかな」
「じゃあ役得ってやつだ」
「なにそれ」
 ミズチが「えへへ」と笑うのでつられて笑い返す。
 唯美子は膝に両手を当てて、立ち上がった。

「あの、めんどうかけて、ごめんなさい」
「いーってことよ。おいらが、ゆみをまもるから」
 小さな体のどこにこれほどの力があるのか、力いっぱい背中を叩かれて、唯美子はたたらを踏んだ。


お待たせいたしました。誕生日に親が遊びに来たのであちこち行って遊んでました(
そんな属性をつけたつもりはなかったんですが、どうやらミズチは変な柄のシャツが好きなようです。

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