五 - c.
2017 / 05 / 09 ( Tue )
「カーネリアンとガーネットも似合ってはいるが」
 青灰色の瞳が見つめる先は、セリカの首の下から胸元を飾る豪華な装飾品だった。
「これは大公陛下からいただいたものよ?」
 ゴブレットを卓に下ろし、首下に連なる宝石を無意識に撫でる。ケチをつけられようにもセリカの好みとは無関係なのだ、との無音の抗弁のつもりだった。
 青年の表情が瞬時にむすっとなる。

「その父上の見立てが、いまいちだと言っている」
「そんなこと知らないわ。何であんたが眉間に皺を寄せるわけ」
 文句があるなら本人に申し立てればいいでしょ――とは言わない。父と子を隔てる身分という壁が、分厚いのはわかっていた。
 青年が顎先のちょっとした髭を撫でて返事を組み立てる間、セリカは一度手放した果実酒の容器を再び持ち上げた。

 液体の表面から立ち上るクローブの香りが、鼻孔をくすぐる。それから果実の甘さ、酸っぱさ、包み込むように濃厚な味わいが、かわるがわる舌を撫でていった。
 想像以上に強い酒だ。ツンとした刺激が脳髄に走り、意識を揺さぶった。

「父上はお前の肌と瞳の色と合わせたつもりだろうが、私に言わせてみれば、安易な選択だな。赤い髪に大量の赤を添えれば、さすがにくどい」
「陛下はあたしの髪色を知らないんでしょ」
 なんとなく大公を庇うような反論をする。

「知ろうとしない、の間違いだろう。下女に訊けば済む話だ」
「だから何であんたが不服そうなのよ」
 要領を得ない応酬にセリカはしびれを切らした。責め立てるようにしてゴブレットを向ける。
 その仕草をどう受け取ったのか、青年は己のゴブレットからぐいっと豪快に酒を一飲みした。更に短く息を吐いて、答えた。

「――もったいないからだ。カヤナイト……ラピスでもいいな。青と緑を使ったほっそりとした型のペンダントの方が、きっとお前の美しさを際立たせる」
 静かな声が、頭の中で反響する。
 さぞや呆気に取られた顔をしていることだろう。不意を突かれて、次の言葉がなかなか出て来なかった。

(あたしの何をなんだって……?)
 礼儀も忘れて公子の横顔をまじまじと見つめるが、先の発言を掘り下げて欲しいと願い出るべきか決めかねている間に、彼はひとりでに話を続けた。
「モスアゲートは調和と自己表現を象徴する。ものによっては白地の内に描かれる深緑の模様が……影だったり森だったり、海に見えたりする」

「へ、え」
 少しだけ興味が沸いてきた。自分を着飾ることにそれほど執着しないセリカだが、美しいものは見てみたい。
「宝石としての価値がガーネットやラピスに劣っても、見栄えはするぞ。今度、取り寄せておく」
 そこでエランはこちらを突然に振り向く。目先で大きな涙型の宝石が揺れるのを、つい視線で追った。

「青にラピスラズリって、あんたの耳飾と一緒になるわね」
 言い終わってからセリカは唇を「あ」の形に固定した。
 ――間違えた。無難なお礼の言葉を返すつもりだったのに。
 語調がきつくなかっただろうか。お揃いが嫌だと主張しているように聞こえただろうか。どうやって取り消せばいいのかわからなくて、微かに身震いした。

 が、杞憂に終わる。

「これはラピスマトリクスというバリエーションだ。一緒といえば、一緒になるか」
 エランは左手の指の間に耳飾の宝石を挟んだ。それを瞥見した瞬間の微妙な表情筋の動きに、セリカの直感が働いた。
 大事なものなの、と問いかける。母の形見らしい、と彼は答えた。

「らしい、って」
「直接手渡されたわけじゃないからな。私が生まれた記念に母が用意したそうだ――いつか成人したら付けるようにと。母は私が成人する前に逝ったから、乳母が内密に預かっていた」
「乳母を信頼してたのね」
「母はヤシュレから嫁いできた時に、最も信頼のおける使用人一家を連れてきた。いや、祖国では奴隷の身分だったか」

「......そっか」
 続ける言葉が思い付かなくて、相槌だけを打った。話は一旦そこで途切れた。
 どうやらエランの母の身の上は今のセリカと似ていたようだ。子への贈り物を異国の地の人間ではなく祖国から連れてきた供に預けた心境も、わかる気がする。

 それからもう一つ、得心した。
 兄弟と言っても母親が四人もいれば子が互いに似ていなくても仕方がないと思っていたが、エランの頬骨や顎は、他のヌンディーク公子に比べて明らかに丸みが無い。彼らよりも鼻の形が細くて、肌の色素もやや薄い。

 加えてエランは、父親にもあまり似ていなかった。すらりと角ばった輪郭はどちらかというとタバンヌスのそれに寄っている。
 目や眉骨や鼻の形など、大公の顔の部分的特徴は、第一公子ベネフォーリと第七公子アダレムが一番引き継いでいるように思えた。

「大公陛下はどこか悪いの」
 物思いの果てで、その質問に至った。「容態が悪化したって話だけど、見舞いに行かなくていいの?」



まだ明日までは絶賛家族孝行タイムですが、昨日ふいに時間が取れたので更新しちゃいます

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22:29:58 | 小説 | コメント(0) | page top↑
五 - b.
2017 / 05 / 03 ( Wed )
「食後酒、飲むか」
 いつしかエランはゴブレット二個と酒瓶らしきものを手にしていた。そういえば自分のことに気を取られて相手の様子を確かめていなかったが、同時に食べ終わったのだろうか。それとも向こうが調整して合わせてくれたのだろうか。
 どのような気遣いがあったのかはわからない。ただ、この場から逃げるべきではないとセリカは判断した。

「いただくわ」
 答えるやいなや、彼は食卓を引き寄せて時計回り九十度に回す。そして手際よく酒瓶とゴブレットを卓に並べた。
「自分で何でもするのって新鮮な感じがする」
 ふとセリカはそんなことを思い、口に出した。
 この場からは決定的な何かが不足している。そう、食器まで自分で片付けねばならなかったのは、使用人の影が全く無いからである。

 二人で食事をすると言っても、こうまで徹底して人払いをするものとは思わなかった。セリカまで、倣ってバルバを階下に待機させたほどだ。
 それに対するエランの答えは、どこか翳っていた。

「人の気配に囲まれるのは好きじゃない」
 しばし、酒がゴブレットに流れる音だけが響いた。
 セリカは躊躇いがちに訊ねる。
「あんたの側に仕えてるのって、あの強そうな人だけなの」
「タバンヌスのことか?」
 訊き返され、頷いた。

「あれは私の乳母の長男、つまり乳兄弟だ。今でこそ従者と主人みたいな形に収まっているが、元々は血の繋がった家族以上に近しい存在……あいつの妹も交えて、本物の兄弟のように育った」
「そう、なんだ」
「まああいつだけで大抵のことは間に合っている」
 ――乳兄弟。
 溢れんばかりの忠誠心だと思っていたものは、案外もっと身近な感情と混ざっていたのかもしれない。

「じゃあこの場所を指定したのは人の気配を感じなくて済むからなのね」
「それもあるが、本命の理由はあれだ」
 酒を注ぎ終わったエランが卓の前にどかっと胡坐をかいた。指差す方向は、セリカのにとっての背後となる。
 試しに振り返ってみた。

「えっ、きれい……!」
 思わず感嘆の声が漏れた。
 西の空が赤い。
 山の向こうに沈まんとする輝かしい円が、まだその圧倒的な存在感を放っている。それを覆う薄い膜のような雲には太陽の橙色が伝い、多様に渡る濃淡を描いている。

 言葉では讃え尽くせないほどに美しい一面だった。

「ここから望める落日は格別だ」
「うん、こんなの初めて見るわ」
 同意しつつセリカは逡巡した。せっかくだから、座ってゆっくりとこの見事な風景を堪能したいし、食後酒も味わいたい。
 それら両方の願望を叶える為には――。
 食卓の長辺はかろうじて二人が並んで座れるほどの幅がある。

 類稀なる景色を観賞する為だ。この男の隣に座ることくらい、受け入れるべきだろう。
 そう自分に言い聞かせて、なるべく自然に腰を下ろした。意図的に「自然」を装うことなどできないとわかっていながら。
 いざ座り込んで、足の向きなどを調整している間に、実感する。

(近い! 塔の上でも隣に座ったけど、今が断然近いわ!)
 黙って静止していると、隣の青年が発する熱すら感じ取れそうだった。気温がやや冷えているだけに。
(べ、別に深い意味はないのよ)
 熱は熱でも、それは人間が生きている限りずっと持っている微熱のことだ。セリカとて常に発している。特段、互いに気が動転して体温が上がっているのではない――はず。

 ぐるぐると制御の利かない思考を持て余した。
 このままでは景色を眺めるどころではないと思い、鉄のゴブレットを持ち上げる。ひんやりとした感触、装飾の手触りなどに意識を向けて、心を落ち着かせようとした。
 そうして果実酒が唇を僅かに浸した瞬間、すっかり聴き慣れてしまったあの声が耳朶を打った。

「モスアゲート」
「え?」
 エランの突拍子のない発言に、ゴブレットを傾ける手が止まる。


女子は14、男子は15からお酒が飲める世界観だよ!

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06:22:54 | 小説 | コメント(0) | page top↑
五 - a.
2017 / 05 / 01 ( Mon )
 ――緊張する。
 平常心とはどのようにして保つものだったか、或いは取り戻すものだったか。落ち着け、焦るな、とセリカラーサ・エイラクスは軌道を見失いつつある思考回路をたしなめる。

(しっかりしなきゃ)
 異性と二人だけで向き合って食事をするなど――かつて百を超える群衆の前で楽器の演奏をさせられた際や、初めて馬の背に乗った際に比べたら、全然大した状況ではないはずだ。しかも昨日は二人だけで塔を上ったというのに。
 こんな風にいくら記憶を辿って比較したところで、今この瞬間の緊張は解消されなかった。

(夕食になったのがいけないんだわ。あたしは陽の高い内に、気楽に済ませられそうな朝食に誘ったのであって。妖しい空気が漂う夜を狙ったんじゃないのよ)
 不公平なことに、向かいの席に座すエランディーク・ユオンは顔の右半分を布で隠している。無意識の習慣に組み込まれるほど長い間そうしてきたのだろう、彼は実にさりげなく表情に影をかけたりしていた。これを想定して蝋燭の位置まで計算したのなら、大したものである。

(あたしだって、できることなら布のかかってる死角側に座りたかったわよ。その方が目を合わせなくて済む……って、あれ。もしもだけど、わざわざ顔を隠しやすいように工夫したなら……)
 エラン公子もセリカと同じ心境であることを示唆する。
(う、わあ。違う違う、そんなわけない)
 妙だった。相手が同じ気持ちであると想像すれば普通は安心できるものなのだが、この場で二人して気もそぞろなのだと考えると、益々身体が強張った。

 それにしてもおかしい。
 広大なムゥダ=ヴァハナの公宮内でこれまでに利用してきた食卓のどれもがやたらと大きかったのに、この夕餉に限って、卓は小さかった。まさしく、最大で二人分の食事しか並べられないようなささやかな長方形である。
 いっそ、この場所の何もかもがおかしい。

 セリカにとっては勝手のわからない宮殿だ、食事をしたくてもどこがいいのかなんてわからない。相手に任せっきりにしたら、なんと提案されたのは屋根の上だった。
 ――エランが寝泊まりしているという例の屋根の上である。
 寝床は清潔で片付けられているものの、間仕切りが立てられていない。空間自体は丸見えだった。

(見られて困るようなものは無いんだろうけど。むしろ殺風景だけど)
 先日感じた通り、どうやら彼はこの辺り大雑把なようだ。寝床を人に見られて恥ずかしいという発想すら持っていなそうだった。
(昨日はあたしも、こいつに部屋を通らせたわ……ううん、ベッドに天蓋がかかってたし、暗かったからいいの!)
 脳内で無理矢理自分を納得させる。

 ぼとり。何かが落下した音でセリカは物思いから抜け出した。パンに挟んでいた細切れの肉が、いつの間にかすり抜けて落ちたらしい。
 視線を感じた。
 落ちた肉を指先でかき集めながら、早口でまくし立てる。言わなくてもいいことまでをペラペラと。

「じ、実は手で食べるの、得意じゃなくて。あんまりキレイにできないの。昨日は頑張ったんだけど、気を張りすぎて味がわからなくなるのよね」
「なるほど。気が回らなくて悪かった」
 エランは立ち上がって近くの小型の食器棚を漁り、スプーンを持って戻って来た。ほら、と言って柄から差し出してくる。

「落ちた分は後で宮殿の飼い猫にやる。食べなくていい」
「ありがと」
 最初から皿の外に落ちた食べ物を食べるつもりなんて無かったが、それは言わないでおく。
 エランに相談すればきっと過ごしやすいようにしてくれる――ベネフォーリ公子が自信ありげにそう告げたのを思い出した。あれからずっと、セリカはもやもやとした感情を拭い去れないでいる。

 雑念を抱えたまま手を伸ばした。
 勢い余って――否、距離を目で測り損ねて――指と指が触れた。

「ごめんっ」
 考えるより先に手を引いた。一拍後、謝る必要なんてなかったのではないかと気付いて、改めてゆっくりとスプーンを受け取る。
「……いや」
 向かいの席の青年は僅かに顔を逸らして唇の端を噛んでいた。その仕草がどういう感情を表しているのか、考えてもわからなかった。

 なんとも微妙な空気の中、皿の上に残る食べ物を平らげた。おそらく、通常よりもずっと早く食べ終わったことだろう。ものの見事に味はあまりしなかった。
 ごちそうさまでした、とセリカは手を合わせた、が。

(しまった! 食べ終わったからってそのまま逃げちゃだめよね)
 むしろ緩慢と食べていれば、口が一杯だから雑談はできませんみたいな暗黙の了解を押し通せただろうに。

 視界からパッと皿が消えた。消えた軌道を目で追うと、エラン公子が使い終わった食器を自ら重ねて片付けていた。かちゃん、かちゃり、との音に呆然となった。
 すぐにセリカも席から立ち上がって、食器を盆の上に積むのを手伝った。



結局更新しちゃったよー☆
今週は帰省する予定ですが、それまでにあと1、2回は更新できると思います。たぶん。

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05:34:35 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - h.
2017 / 04 / 25 ( Tue )
「どうした、タバンヌス」
 リューキネの髪を結い終えたらしいエランが、振り返った。
「ベネフォーリ公子殿下がお呼びです。エラン公子、セリカラーサ公女ご両名にお伝えしたいことがあるそうで」
「わかった。すぐに向かう」
 目配せされた。その意図を汲み取り、セリカはカップに残る茶をひと思いに飲み切る。食器をなるべく静かにまとめて、使用人に手渡した。

「ごちそうさまでした。リューキネ公女殿下、席を立ってもよろしいでしょうか」
「ええ。いってらっしゃいませ、セリカ姉さま。エラン兄さまも。髪、ありがとうございました」
「リュー、あまり風に当たりすぎるなよ。無理は禁物だ」
「わかってますわ。でも今日は本当に気分がいいんですのよ」

「そうだな。いつもより食欲もあったようだな」
 エランは妹姫の被り物を丁寧に直した。それから別れの挨拶を済ませてその場から立ち去る。
 セリカも後に続こうとして、しかし服を引っ張られてたたらを踏んだ。振り返ると、神妙な顔でリューキネが見上げてくる。

「ひとつ忠告させてくださいませ」
「忠告?」
「――殿方の事情に、姫君が興味を持つべきではありません」
 眼光を鋭くして、リューキネは声を潜めた。

「わたくしたちは非力です。想いのままに口を挟んで大事(おおごと)に巻き込まれても、誰も助けてはくれませんのよ。女が出しゃばったのがいけないのだと、笑われるだけですわ」
「なんであたしにそんな話を……」
 問い質してもリューキネは「さあなんででしょう」と曖昧に笑うだけである。そのまま彼女は手を放して、こちらに背を向けた。
 追及するべきではないと悟り、セリカは会釈をして踵を返す。

_______

 鞍上のベネフォーリ公子は深刻そうな表情を浮かべていた。
 彼はこれからムゥダ=ヴァハナを発たねばならないと言う。簡易的な旅装に身を包み、最低限の荷物を馬の背に積んで、護衛も僅か数人を従えている。

「困ったことになった。私が統治する州にて暴動が起こったらしい。発端はまだ突き止められていないが、戻って様子を確かめに行かねばならない。すまない、エラン。結婚式には出席できなさそうだ」
「お気遣いなく。事態が速やかに解決しますように、兄上のご幸運を祈ります」
「ありがとう。それと困ったことはまだある。父上の容態が悪化したそうだ。もしも明日の朝までに良くならないようなら、式は延期されるだろう」
 ――式が延期に?

 花嫁でありながら今日、何の予定も入れられなかった点を思い返す。準備が滞っているように感じられたのは気のせいではなかったらしい。きっとこうなることを見越して誰かが進行を遅らせたのだろう。
 結婚が先延ばしにされる可能性が、セリカを複雑な気分にさせる。
 エランの三歩後ろで頭を下げたままとにかく静聴を続けた。

「それもお気遣いなく。場合によっては、ベネ兄上が戻って来れるほどの猶予を得られるかもしれませんね」
 と、エランは殊勝な返事をした。きっと今頃は長兄に向けて例の作り笑いを見せているのだろうとセリカは予想する。
「そうだといいな。……公女殿下、少しよろしいですか」
 ぶふん、と馬が鼻を鳴らす音が聴こえた。ベネフォーリを乗せた馬が近付いてくるのがわかる。

「何でしょうか」
「すみません。度々、ご迷惑をおかけしています。それに、この国に着いたばかりで不安もあるでしょう。希望があれば何でも気軽にエランに相談してみてください。人には淡白な印象を持たれがちですが、責任感が強い者です。きっと公女殿下が過ごしやすいよう、尽くしてくれるでしょう」

 ――第一公子はヌンディーク大公と似たようなことを言う。
 この時セリカは、もしかしたらまたエランが嫌そうな顔をしているのではないかと気になった。現状、確認する術は無いが。
 それらしい礼の言葉や挨拶で応じてから、二人でベネフォーリ公子の少数の一行を見送った。

(責任感、か)
 件の青年の横顔を盗み見る。
(こいつがあたしに構うのは「責任感」からなのかしらね)
 考えてみれば、会ったばかりの人間に特別な感情を抱いたりはしない。間を埋めるのは礼節や気遣い――ちゃんとした礼節さえあるのかどうか、両者ともに怪しいところだが。

「それならそうと……無理、しなくてもいいのに」
 無意識に呟いていた。
「何か言ったか」
「なんでもないわ」
 セリカは頭を振る。

 面白くないのだろうか、自分は。何か不満なのだろうか。
 森で出会ったのは迎えに来てくれたからではなかったのだと知った時と同様の、気持ちの沈みを自覚する。
 ――これはあてがわれた相手、形式上の関係だ。期待をするような要素は何処にも無い。

 心の中の確たる一線を、セリカは再度認識する。



あとがきは多分明日に…。ねっみい。

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03:24:18 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - g.
2017 / 04 / 23 ( Sun )
「三つ編み四本でいいか」
「お願いしますわ。セリカ姉さまはそこに座って、お茶とお菓子でもどうぞ……姉さまと呼んでもよろしくて?」
 彼女の上目遣いでの問いに内心では「気が早いのでは」と思いながらも、構わないわ、と頷いておいた。
 それにしても、まだ昼食を消化し切っていないというのに菓子を勧められるとは思わなかった。茶だけでもいただこうと、セリカは座布団を引き寄せ、絨毯の上に腰を掛ける。

 四角い卓の向かい側にリューキネが座る。ヴェールを脱いだ彼女の後ろにエランが膝立ちになった。
 少女の、絹の如く細やかな黒髪が露わになる。腰に届く長さのそれは束ねてもあまり厚みが無いように見えるが、その分クセもなくて手触りが良さそうだ。こまめに梳かないと何かと暴走しがちなセリカの髪とは、勝手が違うのだろう。

(あぶれ者ってどういう意味か、訊いてもいいのかしら)
 どこからともなく現れた使用人が小振りのティーカップに茶を注ぐ間、しばしセリカは考え込んだ。
 さすがに踏み込みすぎだ、より無難な角度から攻めた方がいいだろう。たとえばどうして昨夜の晩餐会にリューキネ公女は来なかったのか。けれども答えが「呼ばれなかったから」である場合を想定して、やはり何も言えなくなる。

 こちらが悶々と思考する間にも、三つ編みは着々と出来上がっていく。口では何と言っていても、よほど仲が良いらしい。髪を触らせるのは信頼の証であり、エランの手際の良さも、幾度となく頼まれたからだと推測できる。
 手持ち無沙汰なセリカは、茶と菓子をゆっくりと堪能した。
 三つ編みも残りあと一本となった。途端に、リューキネがニヤリと笑う。

「あなたも気の毒ですわね。こんな、焦土のような男と添い遂げなければならないなんて」
 ぐいっと彼女の頭が後ろに引っ張られた。
「誰が焦土だ。大概にしないと、この髪、とぐろを巻かせるぞ」
「いやー! 下品ですわ兄さま! そんなモノをうら若き娘の頭の上で象ろうだなんて!」
「いい気味だ」

 またおかしな方向性の掛け合いが始まった。正直ついていけない。
 そんなことよりもセリカは「焦土」というキーワードに気を取られていた。焦土の別名は黒土。涅(くろつち)、涅(くり)色、泥の色――。

「ねえ、川底の泥みたいだって言ったのってもしかして」
 ふと思い当たり、訊ねてみる。主語を抜いたのは一応配慮したつもりである。それだけで、彼には十分に伝わった。
「それはアスト兄上だった」
「アスト兄さまが仰ることなら、わたくしも同意見ですわ。何の話かわかりませんけれど」

「話がわからないのに何故入り込もうとする」
「わたくしがいながら夫婦で内緒話なんてするからです」
「それって、あたしが悪いってこと」
 苦笑い交じりにセリカは自分を指差した。
「そうなりますわねー」

「リュー……お前の相手をしていると疲れるな。この宮殿にいながら、人を振り回す稀有な女だ」
 妹の後頭部に向けて、エランがまた大袈裟に嘆息する。
「疲れるだなんて。病弱美少女の世話を、楽しんでらっしゃるくせに」
「病弱美少女らしさがあれば、或いは楽しめたかもしれないが」

「身体が弱いからって気も弱くなければならないなんて誰が決めたんですの? わたくしは生まれ付いての貧血持ちで、今後もきっと子供を産めません。嫁ぐことなく一生を此処でしか過ごせないのですもの。窮屈な人生、せいぜい人で遊んで楽しませていただきますわ」
「ああ。お前はそれでいい」
 そう肯定した青年は、微かに笑ったようだった。

 瞬間、セリカは冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。
 強い語気で言い切ったリューキネ公女を見つめる。こんな風に強気に笑えるようになるまでに、彼女はどれほど苦悩しただろうか。

 生まれた境遇を悲観してばかりの己を恥じた。
 少なくともセリカは健康な身体を持っている。公女としての役割を与えられ、異国の地を踏む機会も与えられた。だからと言って現状に盲目に満足していいわけではないが、もう少し感謝の念を抱いて生きよう、と決意を新たにする。

「あなたの言う通りね、リューキネ公女。静かに儚げに過ごすことないわ」
「まあ、話のわかる方ですのね。嬉しいですわ、セリカ姉さま」
 少女は嬉しそうに両手を叩き合わせた。
 その時――バルコニーの入り口に大きな人影が現れた。失礼いたします、と彼は跪いて声をかける。

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04:48:12 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - f.
2017 / 04 / 19 ( Wed )
 ぶわっと紺色の布がなびく。エランが素早く首を巡らせたのである。
 青灰色の瞳が、激しい怒りに燃えていた。冷たく燃えるという現象が可能なら、こう見えるだろう。
 思わずセリカは立ち竦んだ。

「おい、気色悪い冗談は止せ。この口は戯言(たわごと)しか吐けないようだな、リュー?」
 あろうことか青年は少女の愛らしい口の両端に親指を突っ込んで――先ほど頬をつねった時とは比べものにならないほどの勢いで左右に引っ張った。
「いひゃい! いひゃいでふぁ、いいひゃー」
 少女がバタバタと手を振り回して抗う。

「な、に、が、愛妾だ! おぞましい。私に朝食を戻させたいのかお前は!」
 容赦ない怒号を浴びせかけてから、ようやっと彼は彼女を放してやった。
 非常に話しかけ辛い。それでもセリカは頑張って小声で訊ねた。
「えっと……愛妾じゃないのね」
 青年の心底げんなりした顔がこちらを向く。

「頼むからその単語は二度と口にしないでくれ。コレは妹だ。イモウト」
「あんた妹が居たの」
 驚愕してセリカは僅かに仰け反った。言ってから、昨夜の晩餐会で「公女」の母であると名乗り出た大公妃が居たと思い出す。
(大公の子が揃って男ばっかりなわけないか)
 それならば何故、昨晩は晩餐会に来なかったのだろうか。

「んもう、兄さまったら! 公女の顔を弄り過ぎではありません? それと女性の前で何度も嘔吐を話題にしないでくださいな」
 リューキネは乱れたヴェールと髪を手で直しつつ、不平を並べた。
「うるさい。誰の所為だ」そんな彼女にエランはにべもなく言う。「反省したなら、セリカへの挨拶をやり直せ」

「ええそうですわね。改めまして、リューキネ・ヤジャットですわ。嘘を吐いたこと……お許しくださいましね。エラン兄さまがいたく気に入ったという姫君にお会いできたのが嬉しくて、少しからかってみたくなったのですわ」
 美少女は優雅に一礼した。腕も伸ばせば触れられるこの距離からだと、はためいた衣装の裾から微香が漂う。石鹸の名残か、それとも香油か。柑橘類の香りが少女の明るい色の服装とよく合っていた。

 セリカは返答に窮する。いたく気に入ったとは、またどういった冗談なのか。
 許すも何も、怒っているわけではなく驚いていただけであって――

「ん……ヤジャット? どこかで聞いた名だわ」
「ええ、ええ。あの豚の眷属ことウドゥアル・ヤジャットとは、残念ながら母を同じくしています」
 今度はリューキネが嫌そうな顔をした。長くて広がりのある袖で口元を覆い、吐き気を抑える素振りを見せている。
「ぶ、豚の眷属って」
 言い得て妙だが、自分の兄に対してひどい言い様である。

「否定できまして? ああ、あのような醜い男と出所が同じだなんて、信じられませんわ」
「…………」
 改めて相対すると、リューキネの人形のような愛らしい美貌は目に入れただけで二の句も告げなくなるほど見事だった。造形の美しさはもちろんのこと、装飾品や化粧も狂いなく整えられている。

(鼻ピアスから耳飾が細いチェーンで繋がってるのも、綺麗。エキゾチックというか、色っぽいというか)
 やはり真似できそうにない。
 あのだらしない第四公子とは柔らかい輪郭――丸顔ともいうが、リューキネの方は小顔だ――や垂れた目が似ているが、それだけだ。

「あの男はともかく。せっかく兄さまたちが戻ってらしたのに、なんだかつまんないですわー」
「つまらないって、どういうこと?」
「大した意味じゃない。こいつはアスト兄上に相手にしてもらえなくて拗ねているだけだ」
 傍らのエランが先に答えた。

「どうしてアスト兄さまは構ってくださらないのでしょう?」
「諦めろ。いくら軽薄なアスト兄上でも守備範囲というものがある」
「まあ! わたくしこれでも十四歳ですわよ」
「だが血縁者だ。どう可愛がられたところで兄妹の域を出ない」
「わたくしは、それでもよかったですわ。アスト兄さまは息をしてくださるだけで尊いんですもの。わたくしの兄は、アスト兄さまだけで十分です」

 脚本で組まれたみたいな会話である。
 慣れた様子で展開される掛け合いを前に、セリカは顔を引きつらせた。自分も家族とはこうだっただろうか。今となっては、思い出せない。

「と、この通り、リューは見てくれはいいが中身は単なるアストファン・ザハイルの崇拝者だ。いや、兄上の顔の崇拝者か。お前も気を遣わずに適当に接すればいい」
 ぽすん、とエランは自分より頭一個分は小さい少女の肩に肘をのせた。
「仲が良いのね」
「あぶれ者同士、仕方なく一緒にいるだけですわ。あ、エラン兄さま、髪結ってくださいまし」

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四 - e.
2017 / 04 / 17 ( Mon )
「んまあ、ひどい! ちょっとしたお戯れではありませんか」
 リューキネと呼ばれた少女は眉根に皴を刻み、唇を震わせた。怒り方までさまになっているというか、可愛らしい。たとえセリカが真似したかったとしても、到底できそうにない。
「そうか。私はてっきり、急に体調を崩したのかと」
「ご心配ありがとうございます。今日は気分がいいんですのよ」
 彼女は得意そうに鼻を鳴らし、頬をつねる手を優しく握った。

「ならいいが、無理するなよ」
 存外、エランの態度が柔らかい。客観的に分析して、セリカへの対応よりもずっと優しい気がする。
「大丈夫ですわ。せっかくお忙しい中、わたくしに時間を割いてくださったのですもの。頑張って起きてますわ」
 これに対する青年の返答は、セリカにはよく聴こえなかった。ただ、握り合っていない方の手で少女の頭を撫でるのだけが見えた。

(ふうん……孤立してるかと思ったのに。親しい人、居るんじゃないの)
 しかも自分は何を見せつけられているのだろう。親し気な二人に感じる、この違和感は何なのか。
(ああ、そうか。距離感に厳しいこの公宮で、妙齢の男女があんなに積極的に触れ合ってるのが意外なんだ)
 思えば、昨夜セリカに気安く触れてきたのにはどういう意図があったのか。
 あの男にとって「妃」の枠は特別でも何でも無く、誰に対してもああなのだろうか。

 或いは、リューキネという少女こそが特別枠に収まっているという可能性もある。
 ――釈然としない。が、他人は他人でしかなく、心の内を知ることなんて、永遠にできないかもしれない。
 セリカは今度こそ踵を返してその場を去ろうとした。

「そういえばリュー、お前何で共通語」
「あら、あちらにいらっしゃる方はあなたのお妃さまではなくて?」
 突然張り上げられた少女の声。
 逃げ道を塞がれた。

「お前、セリカに会ったこともないくせに。適当なことを言うのもそのくらいに……」
 言葉が繋がれるごとに、声が迫ってくるような錯覚を覚えた。おそらく――彼が振り向いたことによって、音の投げ出される方向や角度が変化したからだ。
 居心地の悪い沈黙があった。背中に、視線が注がれているのがわかる。

 ここで聴こえない振りをして逃げ出せたならよかった。けれど、できるわけがなかった。
 ゆっくりと二人の方を向き直る。姿勢を正し、作り笑いも整えて、少女に向かって「ごきげんよう」と一礼する。

「ごきげんよう! どうぞお上がりくださいな」
 座ったままでお辞儀を返してから少女は破顔した。自分の隣に来いとでも言いたげに、絨毯を軽く叩いている。予想だにしていなかった歓迎っぷりだ。
 貴重な二人の時間を邪魔したくないとか、単に通り過ぎるところだったとか、使いうる断り文句が幾つか超速で脳裏を駆け巡った。本当は彼女がどういう心で誘っているのかを確かめたい気持ちが強いが、己を抑制して黙り込んだ。

「わたくし、あなたにお会いしてみたかったのですもの」
 少女が更に呼ばわる。すかさず「何で?」と訊ね返したい衝動を、セリカは生唾と一緒に飲み込む。
 途方に暮れてエランの方を見やると、彼は卓に頬杖をついて大袈裟なため息をついた。
「上がってくれ、セリカ。こいつの我がままに付き合わせて悪いな」
 あくまで少女の味方をするつもりらしい。完全に断り辛い空気になってしまった。

 ――もうどうとでもなれ。
 従順な公女の仮面を被って、バルコニーまで静かに足を運んだ。階段から廊下に上がったところでタバンヌスとすれ違っても、彼は一切の反応を示さない。相変わらず好かれていなさそうだ。
 招かれた場所は、正確にはパティオバルコニーであった。柱に支えられていて二階からしか行き着けない点ではバルコニーだが、ゆうに八人は座ってくつろげそうな広さである。屋外で団欒する為の場所ならば、パティオでもある。

「ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクスです。初めまして」
 踏み入れて、まずは頭を下げて挨拶をする。限られた視界の中で、少女が青年の腕を支えにして立ち上がるのが見えた。
「リューキネですわ。エランディーク公子の、愛妾です」
 あの音楽的な声で、少女はさらりと自己紹介をした。

「アイショウの方でしたか。よろしくお願いいたします」
 顔を上げずに、セリカは平淡な相槌を打った。
 不可抗力だ。咄嗟にどう思えばいいのかわからなくなって、声音から感情を省いてしまったのである。
 セリカとて大公家の人間だ、上流階級の習慣は知っている。たまたま自分の親は相性が良くて子宝にも恵まれ、浮気などせずに一夫一妻で長年良好な関係が続いているが、それは少数派の事情であろう。
 咎める気は全く起きない。

(妾かぁ……事実だとすると一気にややこしくなってきたな。子供が生まれたら、序列とかどうなるんだろ)
 ほとんど他人事のように受け止め、億劫な気分で顔を上げた。

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09:21:41 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - d.
2017 / 04 / 14 ( Fri )
 セリカはしばしの間、公子の言葉を咀嚼した。
(遠くを見ていて一緒じゃないのが怖い、って家族として足並みが揃わないことへの不信感? それとももっと別の意味が?)
 子供の言うことだ、鋭い洞察眼で深いことを言っているのかもしれないし、的確な表現が出て来なくてこの言葉で代替しているだけかもしれない。

 足並みが揃うかどうかなんて話は、そもそもこの兄弟にとってはあまり意味を持たないような気がする。皆個性の強い者ばかりで、普段は離れて暮らしているのだから。

(この子の感じているものは、あたしが感じた印象とはどう違うのかしら。そりゃ、一日やそこらで人の何がわかるわけでもないけど)
 結婚すれば、一生をかけて知り合う時間がある。考えても仕方ない気がしてきたので、止めた。

「よくわからないわ」
 セリカは諦観じみた感想とため息を漏らした。それを聞いて、アダレムがまた唸り出す。
「ぼくもよくわかりません」
「そ、そうよね、変なこと訊いちゃってごめんなさい」
 子供相手に気まずい空気を作ってしまったことを自省する。
 そこで見計らったかのように、腹の虫が大きく鳴った。セリカは誤魔化すでもなく自然に笑う。

「あたしもそろそろ行かないと。またね、アダレム公子」
「はい! また、ですー」
 アダレムは元気いっぱいに両手を高く振った。会釈して、セリカは溜め池から離れた。
 やがてさりげなく合流したバルバティアが、意味深に口角を吊り上げていた。目の奥の煌めきが、彼女が全てのやり取りにしっかり聞き耳を立てていたことを示唆している。

 ――恋か。恋の話がしたくてたまらないのか。話が膨らむような、大した材料も無いのに。
 侍女の考えに勘付いていながら、セリカは敢えて何も言い出さず、そして彼女にも何も切り出す暇を与えずに足早に朝食に向かった。

_______

 あれから数時間後、過ぎた満腹感をほぐそうと、宮殿の建築物を鑑賞しながら散歩をしていた際に。
 あの男の声が耳に入った。辟易するしかなかった。

(用も無いのにナゼ……! 狭いの? この広々とした宮殿って実は見た目より狭いの!?)
 どう考えてもそれはあり得なかった。ムゥダ=ヴァハナの公宮がいかに贅沢な面積を誇っているのか、昨日から何度か散策しているセリカにはよくわかる。
 それにしても、数秒聴いただけでエランの声だと判別できてしまう己の耳にも驚いた。
 いくらこの地での知り合いがまだ少ないとはいえ――空しくなってくる。

(ともかく、顔を合わせたくないわ)
 つい避けてしまうのは、こう何度も鉢合っていては暇人と思われそうなのが不本意だからだ。そして夜に食事を共にする約束をしている身で今も会ったりすれば、まるで――
(まるで待ちきれないみたいじゃない)
 断じて、そのような浮き立った感情はない。

 セリカは自分が今しがた回るところであった建物の影にて足を止め、一呼吸の後、身を翻そうとする。幸いと今は一人で行動しているので、急な方向転換をしても不審がる供が居ない。
 ふいに風が吹いた。さわり、と優しい音を立てて草花を揺らす。春の暖かさをのせたその風はセリカの被り物のヴェールをも撫でて行った。

 それが通り去るや否や。
 女の子の声がした。抑揚の付け方が音楽的で、可愛らしくも気品のある印象を醸し出す。つい聞き惚れて、聴き入ってしまった。
 共通語ではない。確かこれは、ヌンディーク公国の古くからある言葉だ。初めて聞いた時は喉の奥から絞り出すような音素が多くて粗暴そうな言語だと思ったが、少女が流暢に話すそれは、花の底に秘められた蜜のように甘やかに響いている。

 顔を上げたら、常緑樹のような色合いの双眸と目が合った。すぐさま目を逸らす。足の方は、縫い付けられたように動かない。
 バルコニーに敷かれた絨毯上の卓を、二つの人影が囲んでいた。背を向けている方が会いたくない男のそれで、こちらに身体を向けている方は――目を疑うほどの美少女だった。

 異国の公女を想像しろと言われたならば、こんな姿を思い浮かべたかもしれない。
 明るいレモン色のヴェールの下から覗く陶磁器のようなきめ細かな肌や艶やかな黒髪が、まず目を引いた。垂れ気味の大きな目や長い睫毛にはあどけなさが残っているが、本人から滲み出る品格は、身に着けている耳飾や首飾りなどの煌びやかな装飾品を従えさせているかのような存在感を放っていた。

 また一瞥してしまう。するとふっくらとして桃色の唇が綻んだ。こころなしか茶目っ気を含んでいるような形に見えた。
 少女は卓の縁を滑るようにして身を乗り出した。細い腕を伸ばし、向かいの席の青年にもたれかかる。

「やっとお会いできて嬉しいですわ。わたくし、寂しくて死にそうだったんですのよ! 夜は一睡もできなくて――ずっとずっと、お会いしとうございました。もう絶対に離さないでくださいましね」
 いつの間にか北の共通語に切り替わったらしい。一言一句、漏れることなくその言葉はセリカの脳に届いた。
 考える余裕は無かった。ただ、どこか冷めた心持ちになってゆく自分を自覚した。

「リューキネ……」
 少女の熱烈な求愛行為に対して、青年はそっと華奢な肩に触れ――
「どうした。急に気持ち悪いことを言うな」
 次いで少女の頬を思い切りつねった。「山羊の乳か? ヨーグルトか? 腐ったものを飲み込んだなら、早く吐き出せ」



リューキネは平野綾っぽいですかね。
「蜜」が「響く」って表現的にどうなのよと思っていますが、代替が思い付かないので今はこのままでw

どうでもいいですか副垢つくりました https://twitter.com/kino_eudo

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12:31:15 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - c.
2017 / 04 / 12 ( Wed )
 リスをのせた掌が、幼児の顔に寄せられた。
 アダレムは一瞬の逡巡を見せたが、すぐに毛並への欲求に屈して手を伸ばした。おそるおそる、頭から撫でている。彼が「ふわあ! ほんとにもふもふです!」などと感心している間、セリカは小声で問う。

「何をしたらそんなに仲良くなれたの」
「別に何もしていない。数日前だったか、私がベンチに横になって昼寝をしている間に、そいつに足蹴に……景色の一部と認識したかはわからんが、乗っかられた。驚かさないように動かないでやったんだが、その日以来、慣れられた」

「へえ」
 セリカは詳細にその時の光景を思い描いてみた。人気のない庭園で無造作にベンチの上に横たわる若き公子。昼寝を邪魔する小さな生き物。
 せっかくの仮眠を邪魔されていながらも、青年は黙って微動だにせず、小動物の為に我慢する。
 するとセリカは自分の想像を通してあることを発見する。それは、現在の状況と合致するように思われた。

(あら……優しい、のね)
 つい昨夜、魔物から救われた顛末を思えば、驚くほどのことでもないはずだ。驚きはしないが、ではこの感情が何なのかと訊かれても、答えを持ち合わせていない。
「あっ! おひめのおねえさまも、さわってみますか!」
 と、濃い茶色の双眸をキラキラさせるアダレム公子。そうね、とセリカは手を伸ばす。

 当たり前ながら、かくして指先が触れたものの手触りは毛皮製品と似て非なるものだった。血の通った生き物を覆う毛は――暖かい。
 こちらが何やら得した気分になってしまっている間、当のリスは頬袋を落花生で一杯にする。つぶらな瞳がチラチラと見上げてきた。破壊的な可愛さである。

「そうだわ、エラン。朝食まだなら一緒に食べる?」
 微笑ましい光景に目線を落としたまま、なんとなくセリカはそう切り出していた。
「せっかく誘ってもらっておいて悪いが。先約がある」
「あ、そうなの。ならいいわ」
 間を置かずに戻ってきた返事に更に返事をする。一拍後、意識せず落胆が声に滲み出ていたことに気付いた。
 気まずさを覚えて、そっと目を伏せる。こんな思いをするくらいなら訊かなければよかった――

「昼も予定がある。夕食でよければ、空けておくが」
「へ? あ、うん。夕食ね、わかったわ」
 断られた後の続きがあるなんて思ってもいなかったので、面食らう。とりあえず目を合わせずに承諾した。
(……あれ、あたしってば今、わざわざ何の約束を取り付けたの)

 しかしその時、庭園にまたしても新しい来訪者が現れたため、思考は遮られた。リスが今度こそどこぞへと逃げ去ったが、代わりに文官らしき男性が歩み寄ってくる。
 セリカは反射的に一礼して顔を伏せた。それを受けて、文官は短い挨拶を口にした後、エラン公子に話しかけた。どうやら用はそちらにあるらしい。

「エランディーク公子、お時間よろしいでしょうか。所領について幾つかお聞きしたい事柄がございます」
「ああ、歩きながらでいいか。待ち合わせに遅れるとアレがうるさい」
「承知いたしました」
 二人分の足音が響く。その間、顔を上げずに大人しく待った、が。

「セリカ」
 急に呼ばれて、心臓がドキリと大きく跳ねる。
「はい」
 動揺を押し隠して応答した。
「また後で」
「……はい」

 足音が完全に遠ざかるのを待ってから、止めていた息を吐き出す。
 ――むずがゆい。
 別になんてことはないのに。誰かと食事をするのも、その約束を前もってするのも、当たり前の日常だ。なのに、この奇妙な高鳴りは一体なんだと言うのか。
 考えるのが段々と面倒になり、セリカは別のことに強引に意識を向けた。

「アダレム公子は、エランが苦手なの?」
 傍らの男児に微笑みかける。ところが「苦手」の意味がわからないのか、アダレムは目をぱちくりさせるだけで答えない。
「えっと。怖い、のかしら」
 言い換えると、アダレムはびくりと身じろぎをした。

「こわい……です」
「そうだったのね。具体的には、じゃない、エランのなにが怖いのかしら」
「なにが? なに?」
 幼児が頭を抱えて深刻そうに唸る。数分経っても、思い当たる節がないようだった。
 これはもしかしたら、理由なんて無いのかしれない。

 ――お前は初対面の人間に叫ばれたことがあるか。顔を見せただけで子供に泣かれたことは?

(まさかね)
 こちらの邪推をよそに、幼児はしばらくして顔を上げる。
「えらんあにうえは、いつもとおくを、みています。いっしょじゃない……かんじが、こわい、です」
 たどたどしい口調で彼はそう答えた。

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11:01:13 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - b.
2017 / 04 / 09 ( Sun )
「おはようございます、アダレム公子」
「おは、よ、ございましゅ」
 五、六歳くらいの男児はごにょごにょと挨拶をする。続けてこちらの腹までしか届かない小さな身体を折り曲げて、正式な礼を繰り出した。つむじが見れるかなとセリカはよくわからない期待をしたが、頭頂部はターバンに隠されていてそれは叶わなかった。

「ほんじつは……いかが、おすご――おすごしで」
「いいのよ、かしこまらなくて。ここはくつろぐ為の場所だし。もっと楽にしてください、アダレム公子」
 お辞儀を返した後、セリカはそう提案した。一応世話係の顔色を伺うも、彼女は五歩後ろの距離から微動だにしない。その人が介入してこないのなら好きに接しても良いのだろう。

「らくに?」
「うん。えっと、さっきはリスさんと追いかけっこをしてたのかな」
 目線を合せるようにしゃがんで、優しく問いかける。より親身に感じてもらえるように、言葉を崩して微笑んだ。
 自分が興味あるものに別の誰かが興味を抱いてくれたのが嬉しいのだろう、アダレムは「あい」と言ってみるみる内に顔を輝かせた。

「りすさんに、さわりたいのです。もふもふです!」
 幼児は大きな黒目を限界まで開いて、両手を振り回して力説する。
 内心ではセリカは「ぐはあ、可愛い……!」と悶絶したが、表向きは微笑みを維持した。小さい子供も小動物も愛らしいが、組み合わさればますます可愛いに違いない。これは協力せねばと思った。

「そうなの。じゃあもっと近付かないとね」
「でもエサをあげようとしても、にげちゃうのですー」
 アダレムは小さな手の中の落花生を指して、ぷっくりと頬を膨らませる。
「走ったらリスさんびっくりしちゃうから、ゆっくり近付くのはどうかしら」
「ゆっくり」

「そうよ、ゆっくり。静かに。一歩ずつね」
 セリカは口元に人差し指を立てた。それから二人揃って首を巡らせ、目標の現在地を確認した。
 歩道の数ヤード先でリスがこちらの様子を見張っている。時折背を向けて数歩跳び進めては振り返るさまを見るに、落花生が気になっているのは確からしい。

「ゆっくり……しずかーに……」
 幼き公子は囁き通りに実行に移す。忍び足で、背を低くして。
(そう! そんな感じ)
 小さな背中を追いたい衝動を全力で堪えながら、セリカは無言で応援した。近付く気配が増えても小動物は怖がるだけだ。

 長い時――実際には三分くらいだろうか――をかけてアダレム公子はリスに接近した。
 子供にしては驚異的な集中力と根気である。それだけ、哺乳類の毛並に触れたいという欲求が強かったのだろう。
 ついに我慢ならなくなってセリカも四つん這いになる。アダレムのかなり後ろからでいいから、自分も追跡してみたくなったのだ。

 ガサリ。
 歩道の脇の並木から、唐突に足音がした。
 瞬時にリスが頭をもたげた。もふもふの尻尾を二、三度鞭打ってから、駆ける。

「まって! りすさん!」
 アダレムの引き留める声も空しく、リスは颯爽と逃げ去る――
 ――かと思いきや、新たに現れた人影を木とでも勘違いしたのか、その足を素早くよじ上ったのである。黒い長靴から紺色のズボンへ、腰の帯を飛び越えて肩の上まで、我が物顔で上るリス。
 ちょこまかとした動きを目で追う。

「あ。エラン」
 愛らしい小動物が停まったのは、ヌンディーク公国第五公子エランディーク・ユオンの肩の上であった。食べ物ではないというのに、青い涙型の耳飾にちょいちょい齧りついているさまが可笑しい。
「……何をしている?」
 彼は忍び足のアダレムと四つん這いのセリカを見比べて、たちまち呆れ顔になった。

「そっちこそ、野生動物に尋常じゃなく懐かれてるのは何事よ」
 かしこまった挨拶をすべきか迷ったが、結局いつも通りの遠慮のない口調で返した。
「私の質問が先だ」
「えっとね」
 答えようと膝立ちになる。同時に視界の中で動きがあった。

 腰に何か暖かいものが当たった感触で、その正体を知る。アダレム公子がセリカの背後に隠れたのである。これではまるで、自身の兄の前から逃げたかのようだ。不審に思うも、セリカはひとまず質問に答えることにした。

「餌をあげようと思ったのよ。でも全然近付かせてくれなくて」
「餌か。既にこんなに恰幅がいいのにか」
 青年は肩の上にのっている小動物の腹を、ぷにっと人差し指で押した。柔らかそうで羨ましい限りである。

「というのはついでで、アダレム公子が毛並みに触ってみたいって……」後ろ背に引っ付いている幼児がびくりと身じろぎしたのを感じる。「あんたそんなに懐かれてるんなら取り持ってくれない」
「ああ、それは構わないが」
 言うが早く、彼は慣れた手つきでリスの眼前に掌を差し出した。リスもまた当然のようにその手に跳び移る。

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12:34:29 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - a.
2017 / 04 / 07 ( Fri )
一晩かけて心身ともによく休んだ後だと、己が昨夜エランディーク公子にどれほどの醜態を晒したのかを改めて理解できた。
 顔を合せづらい。が、幸いと今日は偉い人からのご指示がない。好きにくつろいでいてくださいとの通達を受けただけで、何の予定も組まされていないのだった。

 結婚式は明日だと言うのにこんなにのんびりしていいのだろうか。そう思いながらも、セリカはバルバティアを連れて気晴らしに庭園の中を散策する。
 小鳥の囀りに耳を傾け、ほのぼのとした気分になる。
 薄っすらと曇った涼しい朝だった。ひんやりとした空気を吸い込む。

 新緑に囲まれた溜め池の傍ら、石造りのベンチに腰を掛けてセリカは軽く目を閉じた。
 日差しが心地良い。祖国の公宮に居た頃も、自然が濃い場所を探すのが好きだった。こうしていると、異国に来たという感覚がいくらか薄れる。
 昨日の盛装と比べて本日の格好は簡易的だ。被り物もベール一枚を頭にかけただけである。

「ところでバルバ」
 セリカは振り返らずに、後ろに控える侍女に呼びかけた。
「なんでしょうか、姫さま」
 彼女はいつも通りに明るく応じた。それを受けて、セリカの心に後ろめたさが過ぎる。昨晩の出来事の数々は、あまりにひどい話だと思ったため、バルバには話せないでいる。今もまだその話題を切り出すつもりはない。

「恋って何? 何をもってすれば、恋愛感情なの」
 首を巡らせて、真剣に問う。
「まあ」バルバは白い手を顎に当てて驚きの表情を浮かべた。「姫さまが恋に興味を持つなんて、珍しいですね。いえ、話題にされるのは初めてではありませんか」
「十九歳にもなって、今更よね」

「いいえ、いいえ。幾つであろうと遅すぎることはありません。そうですね……人並みなことしか言えませんけれど……」
「それでいいのよ。どうせあたしは、年頃の女友達と気になる殿方の話なんてしたことないもの」
 瞬間、バルバの薄茶色の双眸に同情が走った。
 ――しまった、自分を卑下するような発言はほどほどにしないと。
 憐れみが欲しいわけではないのに、気を遣わせてしまうからだ。セリカは笑って続きを促した。

「幼馴染とはどんな感じなの」
「えっと、なんと言いましょうか。近くに居るだけで楽しくて、胸の奥がぽわっとします。触れるとすごく幸せで。もっと触れて欲しいって思うんです。離れている時は、今頃何してるんだろうって考えながら過ごします。わたしの感じるものを見せてあげたいって――次に会ったらこんなことがあったよって、ぜんぶ伝えたくなります。他にも、ふとした匂いなどのきっかけであの人を思い出したりして……」

「…………」
 笑顔を張り付かせたまま、硬直した。
 なんていじらしい娘だろう。国境の向こうに居る男を想って顔を赤らめ、その男の話をしているだけで、口元を緩みに緩ませている。彼女をできるだけ早く故郷に帰してやる為に、セリカも頑張ってヌンディーク公国に順応しなければなるまい。

「幸せそうで何よりだわ」
「ハッ! な、なんてことを言わせるんですか姫さま! 恥ずかしい」
 終いには、小さな悲鳴を上げて、そばかすに彩られた頬に両手を添えている。
(想像できない。あたしにもこんな風になる日が来るの? もっと触れて欲しいって、どゆこと)

 忘れてはいけないが、セリカが恋愛できる相手と言えば――あの男でなければ不義の恋しか選択肢は無いわけだが、後者は絶対にありえない。
 恋はするものではなく落ちるものだとどこかで聞いたことがある。ではあの男と恋に落ちるのかというと、やはり想像が付かないのである。

(まあ恋愛感情を抜きにして、良妻賢母になればいいし)
 早くも人生の方針が決まりかけたところで、この話を畳むことにした。散策を再開する。
 池を一周し、そろそろ朝食に向かおうかなと考えた頃に、庭園に人の気配が増えた。ご挨拶に伺おうと思って身体を向けてみると――

 ぴょこぴょこと小さな人影が視界の下方を横切って行った。見覚えのある子供が、小動物を追いかけている。
 その五歩後ろを、困った顔で追いかける女性がいた。目元以外が布に隠れているからにはおそらく使用人、子供の世話係だろう。
 暫時、彼らの挙動をバルバと共に見守った。

「りすさん、りすさん。まってくださいー」
 男児が可愛らしい声で呼びかけながら小動物を追い回す。しかし追いつくことは叶わず、悲しいかな、道端の石に爪先を引っ掛けて転んでしまった。
 びったーん! と派手な音を立てて、うつ伏せに倒れる。よくあることなのか、世話係は動じていない。これを機にセリカは幼児に接近してみた。

「アダレム公子?」
「わっ! おひめのおねえさま!」
 ――斬新な呼び方である。
(かわいい)
 セリカは顔を緩ませないよう、努めて平静を装った。

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00:12:28 | 小説 | コメント(0) | page top↑
三 - j.
2017 / 04 / 01 ( Sat )
「ならお前は、逆の立場だったら助けなかったのか」
「た、助ける! 当たり前じゃない! たとえムカつく相手でも、命の重さは変わらないわ」
 目を合わせない為にこの体勢に甘んじていたのに、思わず身を引き剥がしてしまった。結局は間近で見つめ合う形となる。

「それが答えだ」
 見つめ返す瞳は静かで、目立った感情を映していなかった。
「つまり、まだ怒ってる……んですよね」
「別に。そんなことは言っていない」
 青灰色の瞳が僅かに逸らされるのを、この至近距離で見逃すはずがなかった。

「う、嘘。どんな叱責も罵詈雑言も受けるわ。気が済むようにして」
「怒りという感情は保つのが面倒だ。疲れる。私は数時間もすれば、大抵の恨みは水に流すことにしている」
「何なのその理屈。あたしに遠慮しなくていいから」
 そこで言葉を切った。必要以上に詰め寄っていると、自覚したのである。
 いけない、これでは過ちを積み重ねるだけだ。だからと言ってどうすればいいのかがわからないので、とりあえず口を噤んだ。

「責めて欲しいのか」
 溜め息混じりにそう言われて、セリカは怯んだ。身を引こうとしていた最中だったのが、凍り付いたようにその場に静止する。
「そういうんじゃなくて埋め合わせがしたい――」
 何か違うなと思い、言い終わらなかった。ただ謝ってこちらの気が済めばいいのではない。これは、相手が受けた傷を消すことはできずとも、できるだけ和らげる為の儀式なのだ。
 新たに深呼吸をする。目を伏せて、意を決した。

「……ごめんなさい」
 深く頭を下げて、言葉を連ねる。
「大変、失礼をしました。個人の事情で隠しているものを見せろと、今後二度とせがんだりしません」
「わかった。もう気にしてない」
 まだ色々と言おうと思っていたのに遮られて、セリカは拍子抜けした。

「え、ほんと? ほんとのほんとに怒ってない?」
「悪気が無かったのはわかる。お前は多分、言いたいことを何でもすぐ言うあまりに弾みで人を傷付ける発言をするが、その直後に反省して、自ら謝罪できる素直さも持ち合わせているのだと……森で髪の色の話をした時に、そんな気はしていた」
 なんとも正確な分析をされて、苦笑せざるをえない。セリカは顔を上げて尚も抗弁しようとする。

「謝る暇も与えずに怒鳴ったのはこちらの非だ。だからこの件はもう忘れろ」
「そんな、忘れろだなんて。謝ったってひどいことを言った事実は消えないし、どうやっても償えるとは思ってないけど――」
「セリカ」

 えっ、と狼狽して目を見開く。
 不意打ちだった。名を呼ばれたのは、初めてではないだろうか。
 眉を吊り上げ、青年は力強く告げた。

「しつこい。私は許すと言っている」
「あ、はい……」
 引き下がるべきだと悟り、セリカは後退った。そしてこの時点で、自分が普通に動けるまでに回復したのだと知る。同様にそのことを理解したエラン公子は、ようやく手を放して踵を返した。

 何やら地面に突き立てられているらしい、二つの細長いものを回収して戻ってくる。つい先ほど、命のやり取りに使った笛と剣だ。
 改めて近くで眺めると、剣と思っていたものはナイフかもしれない。確か、初めて会った時にも持っていた代物だ。ぐにゃりと湾曲した輪郭に合わせて、鞘も湾曲している。
 彼はそれらを脚周りの衣でざっと拭いてから、懐に収めた。

「大雑把じゃない?」
「よく言われる」
 何故だか、その返し方に失笑した。
「面白いわ。あんたって面白い人間なのね、エランディーク・ユオン」
「……お前は忙しない――賑やかだな」

「お騒がせします」
 張り詰めていた空気がいつしか和んでいるのが嬉しくなり、セリカはくすりと笑いを漏らして、羽織っている外套の端を握った。
「さすがに遅い時刻だ、送る」
「うん。ありがと」

 それから、二人で無言で歩き出した。
 作法である三歩後ろではなく並んで歩いてしまったと気付いたのは数分経ってのことだったが、右隣の青年のチラと窺っても、これといって気に留めている様子はなかった。
 建物の通用口が見えてきた頃、ふと疑問に思った。

「ねえ、あの魔物に気付いたくらいだから、あんたの部屋ってここから近いの」
「部屋……?」
 意外な反応だ。何故、この男はそんなに不可解そうに首を傾げるのか。続いた答えはもっと意外だった。
「私は屋内で眠るのが苦手だ。あの辺で寝泊まりしている」
 彼は隣の建物を指差して答える。その指の延長線上を辿って、セリカは目を凝らした。丸っこい屋根が多いこの宮殿だが、水平な箇所もあるらしい。
 返答に窮した。

「屋外だと眠りが浅くなりそう」
 通用口を通り、階段を上がっているところで、なんとか感想を述べる。
「慣れればそうでもない」
「そんなものかしら」
 廊下にも達すると、互いに話し声を潜めてしまう。不用意に誰かを起こしたくないのだ。

 やがてセリカの寝室の前に行き着いた。
 いざ挨拶をしようと体の向きを変えると、青年の目線が部屋の中に注がれているのに気付き、どうかしたのかと問いかける。

「窓から出た方が近道だなと」
「ぶっ」
 セリカは気管から噴き出す笑いの波動を、手で塞いだ。
(同じこと考えるのね)
 動機に少々の差異あれど、やはり気が合うのかもしれないと思った。
 笑われている理由がわからない当人は、訝しげな顔をしているが。

「いいわよ、通って。足元に気をつけてね」
「ああ」
 許可を得た直後、彼は躊躇なく暗い部屋に踏み入る。
 その後姿を急がずに追った。
 不思議だ。与えられたばかりの部屋とはいえ、出会ったばかりの異性に入室を許すとは。

 ほんの少しだけ――他人が他人でなくなる予感に、抵抗がなくなっているのかもしれない。この者には警戒をしなくていいのだと、腹の奥深いところがそう判じている。
 今日という一日を咀嚼している内に、青年が窓枠から飛び出ていた。
 早い。
 セリカは窓まで駆け寄って身を乗り出した。

「エラン!」
 大声になり過ぎないように気を配って呼びかけると、既に歩み去ろうとしていた彼は、布で覆われていない方から振り返る。
 夜の闇の中に、青い宝石が鈍く光って揺れた。
「助けてくれて本当にありがとう! ――――おやすみ!」
 彼は声に出さずに「おやすみ」と答え、軽く片手を振ってからその場をあとにした。

 別れの余韻が深夜の静寂に溶けてなくなるまでセリカは窓際に留まった。深い物思いに耽るわけでもなく、窓枠に人差し指を走らせたりして、埃の有無を確かめた。
 指を裏返してみる。宮殿の使用人かバルバの仕業か、埃も汚れも付いていないようだった。

(寝るか)
 灯りを点けずにせっせと顔を洗って服を着替える。ベッドの柔らかさと温かさは、疲れた身体に染み入った。
 天蓋を見上げてまどろむ。
 明日はどんな日になるのだろう――いつの間にやら不安よりも期待の割合が勝るようになっていた。
(あたしの婚約者は変だけど……いい奴かもしれない)
 そんなことを思いながら、今度こそ就寝した。




気が向いたらあとがき書きます。
ところで三話でセリカが「ありがとう」と言った回数は6。これはミスリアと共通点ですね。

エランとゲズゥの共通点↠変なトコロで寝る

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22:17:59 | 小説 | コメント(0) | page top↑
三 - i.
2017 / 03 / 30 ( Thu )
(こんな姿、誰にも見られたくないのに……何でよりにもよって、あんたが)
 羞恥で頬に血が昇る。顔を逸らそうとするも、視界の中に動きがあったので中断する。
 青年が己の帯を解いていた。ヌンディーク公国の伝統的衣装は、腰を何周か回って巻く、幅広い帯を使用する。彼はそれを手で平らになるよう整えてから、差し出してきた。

「何の、真似よ。汚れる……」
 情けなくて泣きたくなる。今度こそ顔を逸らし、あっち行って、早くひとりにして、と心の中で念じた。
「自分の体調よりただの布を心配するのか」
 ――願いは通じず。
 気配が更に近付いてきた。鼻先に無地の布を押し付けられる。

「だっ、て」
 セリカは嫌々エラン公子と目を合わせた。しゃがんだ姿勢からこちらを覗き込む表情には、苛立ちが浮かんでいる。
「いいから拭け。臭いを嗅いだら、また吐くぞ」
「……」
 吐き出せるようなものは尽きたはずだが、言わんとしていることはわかる。
 諦めて従った。持ち主が強要するのだから、遠慮しても仕方がない。面積は余るほどあるのだと開き直って、鼻や口周りはもちろん、額や首周りの汗まで拭った。

(いいにおい)
 微かな温もりの残る帯には、香が焚き込まれているようだった。薬草と香辛料を混ぜたものだろうか、心を落ち着かせる類の香りである。
 ひとしきり拭き終わって、汚れた部分が内に収まるように帯を畳む。

「あんたもここに居たら……あてられるんじゃないの」
 大分気分が良くなり、言葉をまともに紡げるようになっていた。相変わらずしゃがんだままでこちらをじっと観察する青年に、セリカは躊躇いがちに話しかける。
「平気だ。鼻から息さえしなければ、嗅がずに済む」
「ならいいけど……」
 化け物から噴き出す得体の知れない体液が服の裾にかかっても平然としている者が、人間の吐瀉物程度で騒がないのには妙に納得できた。

「あの、まさか……あたしが立ち上がるのを待ってたりする?」
 またしても躊躇いがちに問いかけてみる。何故この場を動かないのか――そのことに思考を向けてみると、訊かずにいられなくなったのだ。
「そうだな。常よりも時間がかかっているな、と思っている」
「実は腰が抜けて立てないんですごめんなさい」
 口に出すのが恥ずかしいので早口でまくし立てた。たとえ、これ以上に恥のかきようがないとしても。

「ああ、そういうことか」
 その可能性には思い至らなかった、とでも言わんばかりに彼は拳でぽんと掌を叩いた。そして両手を上向きに翻し、こちらに向かって差し伸べてきた。
 セリカはその手を見つめてしばし思考停止した。腰を上げて立つ、たったそれだけの行為だと言うのに。

 ――手助けを得られるなんて願ってもなかったことだ。
 無意識に腕が伸びる。けれども己の右手で握り締めている帯が目に入って、逡巡する。一応拭いたとはいえ、手から汚れが移る――みたいなことを懲りずに考えていた、その隙に。
 肘を掴まれた。声を上げられるよりも早く、否応なしに引っ張り上げられる。慌てて肘を掴み返す。

(男にしては細めの体格なのに、なんなのこの力!)
 おそらくは立ち上がり方にも関連している。腕で引っ張ったのではなく、しゃがんだ体勢から足腰や脚力をバネにしたのだ。
「……ありがとうございます」
 俯き加減に、礼を呟いた。立ち並ぶと目線が近い。まだ直視するには心の準備ができていないのである。

(支えがないと、崩れそう)
 いざ地に足を立ててみると自らの不安定さを思い知らされた。背は丸まり、手足が小刻みに震えている。
「魔物に遭遇するのは初めてか」
 そう訊ねる声は、思いのほか柔らかい。

「遭遇すること自体は初めてじゃないけど、あそこまで大きいのは見たことなかったし、丸腰だし。一人の時に相対したのは……初めてかも」
「都の結界が綻んで、入り込めたんだろうな。稀にある。然るべき人間に修繕するように伝えておくから、明日からはこういうことがなくなるだろう」

「そうしてもらえると安心だわ。ともかく、夜中に出歩くのは当分控えることにする」
 ――怖かった。
 後になって冷や汗が滝のように噴き出る。震えが止まらない。手を放さなきゃと思えば思うほど、握る力が勝手に篭もる。

(いい加減に放すのよ)
 己の両手を睨んで、指に命令を送る。全部ほどけるまでに十秒は要した。
 ふいに上体が傾いだ。
「――!」
 前のめりに倒れかける。肩に何かが当たった気がした。呆けていたのが果たしてどれくらいの時間だったのか――背中がさすられている感触で、我に返る。

「ちょっとコレはいったいナニをしていらっしゃるのですかな!?」
 動揺のあまり、共通語がおかしくなる。通常ならば抑え込めている訛りですら解放してしまった。
 だがこの体勢に関しては、物申さねばならない。
(抱擁とか、親しい人とすら滅多にないことなのに!)
 むしろセリカには抱き合うような仲の人間がほぼいない。敢えて挙げるなら侍女のバルバティアくらいだ。

「お前が何かに縋りたそうな顔をするから」
「……」
 奇妙だった。頭の後ろから、と言うほど後ろでもなく。発生源は耳に近いけれども、向きの都合上、声は遠ざかっているように聴こえる。
 その息遣いはとても落ち着いていた。

 鼓動が伝わる。伝わってくる。意識し出すとますます地に足の付かない気分になるが、同時に、神経を尖らせていた恐れの名残がほぐされていった。
 発想を換えてみよう――これなら、目を合わせずに済むのである。

「どうして助けてくれたの。あたし、あんなにひどいこと言ったのに」
 セリカは一息に訊いてみた。



思えばミスリアは老若男女あんまり気にせずに進んでお友達に抱き着いてましたねー。育ちの違いゆえの温度差w
エランは概ね紳士っぽいですが乙女のプライドはガン無視です。
ここはゲズゥならどうしたかなと想像して遊ぶと楽しいです。立ち上がるのを待たずにお米様抱っこなどで連れ去ること必至。

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10:17:06 | 小説 | コメント(0) | page top↑
三 - h.
2017 / 03 / 28 ( Tue )
 頭が展開に追いつかない。
 何故自分は逆さに吊るされているのだろう。この木の樹皮には何故人面が浮かんでいるのだろう。何故、どうして、根幹に人間の頭よりも大きな目玉らしきものがあるのだろう。
 目玉がギョロリとこちらを凝視している。瞼らしきものが恍惚と細められた。

 笑い声がする。
 化け物からではない、これは自身の喉から発せられているものだ。溢れんばかりの恐怖がこうして発散されているのだ。
 視界が揺れた。足を拘束する木の根が動いているらしい。
 刹那、思考回路が鎮まった。

 左手を眼前まで持ち上げる。手首を回る貴金属の細い腕輪が煌めいた。大公家を、祖国を思い出させる輝き。
 ――死ねない。たったひとつの役目も果たせずに、死ねるはずがない!

「この、化け物が! くそ、くらえ」
 思いつくままに罵倒を浴びせながら、身を捻る。木の根を解こうとして手を振り回し、空振りする。
(いやよ、嫌! こんなところで、死んでなんか、やらないんだから!)
 朝まで発見されないかもしれない。異国の地で、夜中に人知れず殺された公女として人の記憶に刻まれるかもしれない。

(間抜けにもほどがあるわ!)
 祈るような気持ちで暴れる。
 いつしか花弁が舞い始めた。一斉に花開いたのと同様に、一斉に枯れ始めたのだ。花があったはずの箇所に、代わりにあの気色悪い目玉が残された。

(目玉の木だ……)
 噎せ返るほどの腐臭の中、胸の内の闘志が弱まっていくのがわかる。
 足首に巻き付いていたはずの木の根は今や腹まで這っている。人面は、餓えと憤怒の形相で歯を見せていた。

 気持ち悪い。眩暈がする。吐き気を堪えようとすると、涙が出る。固く目を閉じておぞましい感触に耐えた。
 ――食べられたくない――
 嗚咽した。
 けれども何故かその音は耳に届くことがなく。より大きな、別の音に埋もれた。

 たとえるならば瑞々しいトマトを刺した時の音と、ソーセージを切る時の音。それらが同時に聴こえたのである。
 次いでセリカの身は激しく振り回され、落下した。
 地面を打つ衝撃。直後、胴や脚を圧迫する異形のモノが離れた。

 数秒の間に何が起きたのか――視界が白く点滅していて何も見えない。吐き気と痛みと耳鳴りが同時に襲ってくる。
 そんな中、聴覚が最初に回復した。

「壁の方にも破片が散った。追って殲滅しろ」
「御意」
 聞き覚えのある声が、短い会話を交わすのを聴いた。その後はまたソーセージが切られる音が続く。何かの液体が噴き出すような音も。
「っつ……」
 何度か瞬きをした後に視覚が回復した。

 人影が化け物に向かって、腕の長さほどの曲刀を振るっている。洗練された動作で次々とうねる枝をかわしては切り落とし、目玉たちを的確に刺していく。剣士は徐々に距離を詰めて、大元と思しき根幹の目玉に斬りかかった。
 恐ろしい時間はそれで終わるかのように思えた、が。

 振り下ろされた剣が目玉の中に沈み、両断せんとする途中。一歩離れた場所で痙攣していた異形の枝のひとつが、今際の力をもって跳ね上がった。
 死角、から。

「あぶない!」
 セリカが叫んだのと同時に、人影が避ける。しかし彼は剣を手放してしまった。次の攻撃に備えて身をくねらせる枝をどう倒すつもりなのか、懐に素早く手をやって跳躍し――
 ――短い棒状のもので目玉を刺し潰した。

 更には化け物の破片が完全に動かなくなるまで棒を抑え込んでいる。
 あまりに凄惨な場面であったため、セリカは顔を伏せて両耳を覆った。十まで数えてから再び人影の動向に注目する。

「強靭だな、ゼテミアンの鉄。折れも曲がりもしない」
 ドロドロとした紫黒色の液体を滴らせる鉄笛を、青年は感心したように眺めている。
「まさか……それ、また吹く気――」
「熱湯で洗えば問題ない。……多分」
 緊張感のない声が聴こえた。

 とうとう胃の中身を吐き出さねばならなくなったセリカは、それに答えることができなかった。
 どれほどの間そうしていたかはわからない。嘔吐の衝動が沸き起こってももはや何も出なくなった頃合いに、ようやっと周りに意識を向ける余裕ができた。
 人の気配がすぐ傍にある。セリカは信じられない思いで顔を上げた。

 てっきり居なくなっているだろうと踏んだのに、青年はまだ居るどころか、歩み寄ってきた。いつの間にか拾っていたのか、セリカが落とした外套をかけ直してくれる。
 肩や背中にかかった外套の重みが、心地良い。

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00:41:14 | 小説 | コメント(0) | page top↑
三 - g.
2017 / 03 / 26 ( Sun )
 まだ何も始まってもいないのに、終わってしまったのだろうか。特別な絆は無理でも、せめて良好な関係でありたかったのに――気まずいままでこれから数十年を過ごすことになるのかもしれない。最悪、破談になって国に追い返される可能性だってある。
(どうしてあんなこと言っちゃったの)

 隠されたものを暴きたい欲求か。あれは熟考しない内にうっかり出てきた言葉だったのだろう。
 落ち着いて省みれば、目に見えぬ秘密にそこまで怯えていたわけではない。どれほど恐ろしい素顔だろうと工夫すれば見ずに済むし、どうとでもなりそうなものだ。
 いずれにせよ人の心の傷を抉って良い理由はどこにも無い。

(あー! ひとりでうじうじ悩んでも答えが出ないし、もっと落ち込むだけだわ)
 ――散歩にでも行こう。
 強固な防壁に守られている宮殿だ、夜中に敷地内を徘徊しても安全なはず。
 部屋着姿のまま、バルバが整理整頓してくれた箪笥の中から適当な外套を見繕って肩に羽織る。被り物は要らないが、寒さ対策として外套のフード部分だけはしっかり被る。

「よ、っと」
 小声で気合を入れながら、窓枠に手をかける。この窓はガラスの張られていない、両開きの木製の戸がかかっている種のものだ。
 セリカにあてがわれた部屋は中庭の一角に面している。窓の外をかれこれ十五分は眺めていたが、まるで人が通らなかったのである。つまり窓から庭へ抜け出す分には、誰にも見咎められる心配がない。

 たかが二階、壁伝いに地上に下りられる高さである。後ろ向きに身を滑り出させて、壁を軽く蹴った。
 両手両足をついて着地する。多少の衝撃が関節を襲うが、後を引くほどではない。
(上出来だわ)
 沈んでいた気持ちがほんの少し上昇する。

 夜空はまだ晴れ渡っていて、蝋燭を持たなくても足元が見える。
 まずは中庭の方へ足を向けるも、気が変わって前後回転した。セリカ自身から発せられているプリムローズの香りとは別の、爽やかな花の香りが鼻孔をくすぐったからだ。
 これはマグノリアではないだろうか。セリカが生まれた時期に重なって咲く花、つまりはまだ早いはずだ。

(季節外れに咲いてるのかしら?)
 見てみたい。その気持ちに導かれるままに、香りのする方へ歩んだ。
 建物を回って匂いを辿った先は、防壁に向かっていた。と言っても壁が背後に見えているだけで、それほど近付いてはいない。
 五十歩ほど歩いたら、目当ての巨木と出会った。

 セリカは口をあんぐりと開けてそれを見上げる。
 所狭しと白いマグノリアの蕾をつけた木が、佇んでいた。楕円のような形をしたひとつひとつの蕾は、おそらくセリカの掌の上には収まらないほどに大きい。
 幻想的な輝きだった。まるでこれまでに浴びた月の力を燐光に変換して、再び大気に放っているような印象である。

「きれい……」
 近付き、思わずそう口に出していた。満開であればさぞや素敵だろう。
 信じられない異変は、その時に起こった。
 ざわり。
 木の葉や花の蕾が震える。マグノリアは、想像をなぞるように一斉に花開いた。

「え、ええ!?」
 こんなことがあるのかとセリカは仰天した。美しかった光景に不気味さが差し込まれる。
 後退った一瞬の間に、気付く。
 何かがおかしい。そう、花弁から青白い燐光のようなものが立ち上っているのである。それに、大気に漂う匂いが――

 ――汚濁、腐敗。
 うっと呻いて口元を覆った。耐え難い悪臭に襲われ、胃腸がぎゅっと捩れる。
(普通の木じゃない!)
 それがわかったところで四肢の反応が追い付くわけでもなく。逃げようとして、足が何かに引っかかった。
 後ろに倒れつつ、目は素早く問題の箇所を捉える。

 引っかかったのではない。絡め取られたのだ。
 人面のようにも見える凹凸を表面に浮かび上がらせているそれは、木の根、なのだと思う。
 凄まじい力で足首が引っ張られた。
 世界が逆転する。

 悲鳴を上げる間もなく、セリカの喉は、ひゅっと嗚咽を漏らしただけだった。
 地面が遠ざかってゆく。
 逆さに滲んだ視界の中で、羽織っていた外套がヒラヒラと長い時間をかけて地面に舞い落ちるのを見た。

 放心した。
 風になびく髪、ぶらんと垂れ下がる両腕、ずり落ちる衣服。
 なんて無様な格好だ。死がすぐそこに迫っているというのに、セリカはそんなことしか考えられなかった。




お客様の中にアルシュント大陸初心者はおりますでしょうか?
腐臭がしたら警戒してくださいネ

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