三 - i.
2017 / 03 / 30 ( Thu ) (こんな姿、誰にも見られたくないのに……何でよりにもよって、あんたが)
羞恥で頬に血が昇る。顔を逸らそうとするも、視界の中に動きがあったので中断する。 青年が己の帯を解いていた。ヌンディーク公国の伝統的衣装は、腰を何周か回って巻く、幅広い帯を使用する。彼はそれを手で平らになるよう整えてから、差し出してきた。 「何の、真似よ。汚れる……」 情けなくて泣きたくなる。今度こそ顔を逸らし、あっち行って、早くひとりにして、と心の中で念じた。 「自分の体調よりただの布を心配するのか」 ――願いは通じず。 気配が更に近付いてきた。鼻先に無地の布を押し付けられる。 「だっ、て」 セリカは嫌々エラン公子と目を合わせた。しゃがんだ姿勢からこちらを覗き込む表情には、苛立ちが浮かんでいる。 「いいから拭け。臭いを嗅いだら、また吐くぞ」 「……」 吐き出せるようなものは尽きたはずだが、言わんとしていることはわかる。 諦めて従った。持ち主が強要するのだから、遠慮しても仕方がない。面積は余るほどあるのだと開き直って、鼻や口周りはもちろん、額や首周りの汗まで拭った。 (いいにおい) 微かな温もりの残る帯には、香が焚き込まれているようだった。薬草と香辛料を混ぜたものだろうか、心を落ち着かせる類の香りである。 ひとしきり拭き終わって、汚れた部分が内に収まるように帯を畳む。 「あんたもここに居たら……あてられるんじゃないの」 大分気分が良くなり、言葉をまともに紡げるようになっていた。相変わらずしゃがんだままでこちらをじっと観察する青年に、セリカは躊躇いがちに話しかける。 「平気だ。鼻から息さえしなければ、嗅がずに済む」 「ならいいけど……」 化け物から噴き出す得体の知れない体液が服の裾にかかっても平然としている者が、人間の吐瀉物程度で騒がないのには妙に納得できた。 「あの、まさか……あたしが立ち上がるのを待ってたりする?」 またしても躊躇いがちに問いかけてみる。何故この場を動かないのか――そのことに思考を向けてみると、訊かずにいられなくなったのだ。 「そうだな。常よりも時間がかかっているな、と思っている」 「実は腰が抜けて立てないんですごめんなさい」 口に出すのが恥ずかしいので早口でまくし立てた。たとえ、これ以上に恥のかきようがないとしても。 「ああ、そういうことか」 その可能性には思い至らなかった、とでも言わんばかりに彼は拳でぽんと掌を叩いた。そして両手を上向きに翻し、こちらに向かって差し伸べてきた。 セリカはその手を見つめてしばし思考停止した。腰を上げて立つ、たったそれだけの行為だと言うのに。 ――手助けを得られるなんて願ってもなかったことだ。 無意識に腕が伸びる。けれども己の右手で握り締めている帯が目に入って、逡巡する。一応拭いたとはいえ、手から汚れが移る――みたいなことを懲りずに考えていた、その隙に。 肘を掴まれた。声を上げられるよりも早く、否応なしに引っ張り上げられる。慌てて肘を掴み返す。 (男にしては細めの体格なのに、なんなのこの力!) おそらくは立ち上がり方にも関連している。腕で引っ張ったのではなく、しゃがんだ体勢から足腰や脚力をバネにしたのだ。 「……ありがとうございます」 俯き加減に、礼を呟いた。立ち並ぶと目線が近い。まだ直視するには心の準備ができていないのである。 (支えがないと、崩れそう) いざ地に足を立ててみると自らの不安定さを思い知らされた。背は丸まり、手足が小刻みに震えている。 「魔物に遭遇するのは初めてか」 そう訊ねる声は、思いのほか柔らかい。 「遭遇すること自体は初めてじゃないけど、あそこまで大きいのは見たことなかったし、丸腰だし。一人の時に相対したのは……初めてかも」 「都の結界が綻んで、入り込めたんだろうな。稀にある。然るべき人間に修繕するように伝えておくから、明日からはこういうことがなくなるだろう」 「そうしてもらえると安心だわ。ともかく、夜中に出歩くのは当分控えることにする」 ――怖かった。 後になって冷や汗が滝のように噴き出る。震えが止まらない。手を放さなきゃと思えば思うほど、握る力が勝手に篭もる。 (いい加減に放すのよ) 己の両手を睨んで、指に命令を送る。全部ほどけるまでに十秒は要した。 ふいに上体が傾いだ。 「――!」 前のめりに倒れかける。肩に何かが当たった気がした。呆けていたのが果たしてどれくらいの時間だったのか――背中がさすられている感触で、我に返る。 「ちょっとコレはいったいナニをしていらっしゃるのですかな!?」 動揺のあまり、共通語がおかしくなる。通常ならば抑え込めている訛りですら解放してしまった。 だがこの体勢に関しては、物申さねばならない。 (抱擁とか、親しい人とすら滅多にないことなのに!) むしろセリカには抱き合うような仲の人間がほぼいない。敢えて挙げるなら侍女のバルバティアくらいだ。 「お前が何かに縋りたそうな顔をするから」 「……」 奇妙だった。頭の後ろから、と言うほど後ろでもなく。発生源は耳に近いけれども、向きの都合上、声は遠ざかっているように聴こえる。 その息遣いはとても落ち着いていた。 鼓動が伝わる。伝わってくる。意識し出すとますます地に足の付かない気分になるが、同時に、神経を尖らせていた恐れの名残がほぐされていった。 発想を換えてみよう――これなら、目を合わせずに済むのである。 「どうして助けてくれたの。あたし、あんなにひどいこと言ったのに」 セリカは一息に訊いてみた。 思えばミスリアは老若男女あんまり気にせずに進んでお友達に抱き着いてましたねー。育ちの違いゆえの温度差w エランは概ね紳士っぽいですが乙女のプライドはガン無視です。 ここはゲズゥならどうしたかなと想像して遊ぶと楽しいです。立ち上がるのを待たずにお米様抱っこなどで連れ去ること必至。 |
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