三 - h.
2017 / 03 / 28 ( Tue ) 頭が展開に追いつかない。 何故自分は逆さに吊るされているのだろう。この木の樹皮には何故人面が浮かんでいるのだろう。何故、どうして、根幹に人間の頭よりも大きな目玉らしきものがあるのだろう。目玉がギョロリとこちらを凝視している。瞼らしきものが恍惚と細められた。 笑い声がする。 化け物からではない、これは自身の喉から発せられているものだ。溢れんばかりの恐怖がこうして発散されているのだ。 視界が揺れた。足を拘束する木の根が動いているらしい。 刹那、思考回路が鎮まった。 左手を眼前まで持ち上げる。手首を回る貴金属の細い腕輪が煌めいた。大公家を、祖国を思い出させる輝き。 ――死ねない。たったひとつの役目も果たせずに、死ねるはずがない! 「この、化け物が! くそ、くらえ」 思いつくままに罵倒を浴びせながら、身を捻る。木の根を解こうとして手を振り回し、空振りする。 (いやよ、嫌! こんなところで、死んでなんか、やらないんだから!) 朝まで発見されないかもしれない。異国の地で、夜中に人知れず殺された公女として人の記憶に刻まれるかもしれない。 (間抜けにもほどがあるわ!) 祈るような気持ちで暴れる。 いつしか花弁が舞い始めた。一斉に花開いたのと同様に、一斉に枯れ始めたのだ。花があったはずの箇所に、代わりにあの気色悪い目玉が残された。 (目玉の木だ……) 噎せ返るほどの腐臭の中、胸の内の闘志が弱まっていくのがわかる。 足首に巻き付いていたはずの木の根は今や腹まで這っている。人面は、餓えと憤怒の形相で歯を見せていた。 気持ち悪い。眩暈がする。吐き気を堪えようとすると、涙が出る。固く目を閉じておぞましい感触に耐えた。 ――食べられたくない―― 嗚咽した。 けれども何故かその音は耳に届くことがなく。より大きな、別の音に埋もれた。 たとえるならば瑞々しいトマトを刺した時の音と、ソーセージを切る時の音。それらが同時に聴こえたのである。 次いでセリカの身は激しく振り回され、落下した。 地面を打つ衝撃。直後、胴や脚を圧迫する異形のモノが離れた。 数秒の間に何が起きたのか――視界が白く点滅していて何も見えない。吐き気と痛みと耳鳴りが同時に襲ってくる。 そんな中、聴覚が最初に回復した。 「壁の方にも破片が散った。追って殲滅しろ」 「御意」 聞き覚えのある声が、短い会話を交わすのを聴いた。その後はまたソーセージが切られる音が続く。何かの液体が噴き出すような音も。 「っつ……」 何度か瞬きをした後に視覚が回復した。 人影が化け物に向かって、腕の長さほどの曲刀を振るっている。洗練された動作で次々とうねる枝をかわしては切り落とし、目玉たちを的確に刺していく。剣士は徐々に距離を詰めて、大元と思しき根幹の目玉に斬りかかった。 恐ろしい時間はそれで終わるかのように思えた、が。 振り下ろされた剣が目玉の中に沈み、両断せんとする途中。一歩離れた場所で痙攣していた異形の枝のひとつが、今際の力をもって跳ね上がった。 死角、から。 「あぶない!」 セリカが叫んだのと同時に、人影が避ける。しかし彼は剣を手放してしまった。次の攻撃に備えて身をくねらせる枝をどう倒すつもりなのか、懐に素早く手をやって跳躍し―― ――短い棒状のもので目玉を刺し潰した。 更には化け物の破片が完全に動かなくなるまで棒を抑え込んでいる。 あまりに凄惨な場面であったため、セリカは顔を伏せて両耳を覆った。十まで数えてから再び人影の動向に注目する。 「強靭だな、ゼテミアンの鉄。折れも曲がりもしない」 ドロドロとした紫黒色の液体を滴らせる鉄笛を、青年は感心したように眺めている。 「まさか……それ、また吹く気――」 「熱湯で洗えば問題ない。……多分」 緊張感のない声が聴こえた。 とうとう胃の中身を吐き出さねばならなくなったセリカは、それに答えることができなかった。 どれほどの間そうしていたかはわからない。嘔吐の衝動が沸き起こってももはや何も出なくなった頃合いに、ようやっと周りに意識を向ける余裕ができた。 人の気配がすぐ傍にある。セリカは信じられない思いで顔を上げた。 てっきり居なくなっているだろうと踏んだのに、青年はまだ居るどころか、歩み寄ってきた。いつの間にか拾っていたのか、セリカが落とした外套をかけ直してくれる。 肩や背中にかかった外套の重みが、心地良い。 |
|