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2016 / 11 / 14 ( Mon ) 途端に、毛に縁取られたフードが、ぼふっと音を立てて下りた。栗色の髪は隠れ、目元も隠れる。声を出さずに桃色の唇が「やめて」の一言を浮かべる。 やめられなかった。「俺はお前がいなくなるより、いなくならない方が良い」 そんなこといわないで、と更に無音の抗議が返る。狐色の毛の下からじっと見上げる瞳をゲズゥはしかと見つめ返した。数秒後には観念したのか、被ったばかりのフードをおずおずと下ろして、ミスリアは唇を噛んだ。 「加担って……まるでいけないこと、みたいですね……。言い得て妙です」 そこで複雑そうな表情を浮かべる心持ちもわかる気がした。一度は背負うと誓った使命から逃げるのは、後ろめたいのだろう。ゲズゥもまた、彼女の目的達成を手伝うと誓った身だ。約束を違(たが)えたくないと思うからこそこうして自ら引き返すように唆している。 まさか好感触を得るとは思わなかった。最終局面で逃避を勧めているのだ。恥知らずと罵ってもいいだろうに、これではもっと押してみたくなる。 「お前が聖女でなくなっても傍を離れたくない。その一点に変わりは無い」 このような言葉が口から出たのは、自分でも意外だった。同様に向こうも面食らっている。 しかし瞬きの間に少女の面様は寂しそうな笑みに移り変わっていた。 ――心臓に突き刺さる棘が、ひとつ増える。 「私は九歳の頃から教団で生活してきました。ただの女として生きるというのがよくわかりません。実家には帰れませんし……両親は、顔を合わせれば笑いかけてくれますけど。あそこに私の居場所はもうないんです。私を見ても、お姉さまを失った痛みを思い出すみたいで」 「生き方なら、これから探せばいい」 まるで相手よりも自身に言い聞かせるように告げた。 ミスリアは再びくるりと身体の向きを変えた。聖獣の眠る珍妙な谷を眺めつつ、風に弄ばれる髪を首元で押さえている。 「組織ジュリノイの頂点(ケデク)さまが――『個』を安易に手放すなと仰いました。あれは個人の望みを大切にしなさいって、そういう意味だったのでしょうか」 ゲズゥは「さあ」と肩を竦めた。顔を見たこともない人間の真意など測れるはずが無い。 けれども頂点とやらの進言からミスリアがそういう意味を汲み取るのは、こちらとしては都合が良かった。 「……ありがとうございます。逃げてもいいとの選択肢を出していただけるだけで、私は幸せです。ほんとうに、貴方がくれる全ては、私には勿体ないくらいで」 雪の中に軽く音を立てて、ミスリアが近付いてくる。互いを隔てる隙間が半歩となったところで。 腕を掴まれた。コートのポケットに収めた右手を求められているのだと気付き、されるがままに任せる。 引きずり出された手は、ミスリアの両手に捕えられた。 ――すると新たな棘が心に刺さった。 双方ともに厚めの手袋をしているため温もりを感じることはできない。それが無性に悔しかった。その代わり、己の手を握り締める力に意識を集中させる。 「幸せです」 涙声でもう一度繰り返される。 指の背に硬いものが当たった。捕えられた手が、俯いた少女の額に押し当てられているのである。前髪がはらりと落ちてくる感触が、細やかな振動が、肌に伝わった。 ――ざわりと、心の棘が無数に増える。 「幸せなら、いい」やっとの想いで喉から返事を絞り出した。「お前の泣き声は、二度と聞きたくない」 「……その節はお世話になりました。もう大丈夫ですよ」 もう大丈夫、が脳内で一瞬「さようなら」に変換される。 抉られたように心が痛い。何かが欠如していくのを感じるが、それが何なのかがわからない。 「下りましょう。リーデンさんたちが追い付くまでに、お目当ての湖を探さなければなりません」 微笑の後、手が放された。 その場に立ち尽くした間は三秒ほど。後悔にも似た衝動に突き動かされ、遠ざかる小さな後ろ姿に向けて手を伸ばす。 衝動はすぐに理性によって抑え付けられた。宙に浮かんだ拳を、力の限り握り締める。 死ぬまでにどういう風に生きるかが勝負。人の一生を――行路を織り成すのは選択の連なりだ。 ゲズゥ・スディル・クレインカティは大儀そうな足取りで歩き出した。聴こえないように、密やかに呟く。 「俺はどういう風に生きていたら」 ――来たる別離を避けられただろうか。 しかし違う生き方をしていたならば、おそらくミスリアと人生が交わることも無かっただろう。そればかりは、非情に容認しがたい結果である。 結局は無意味な問答だった。 _______ |
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