61.h.
2016 / 09 / 05 ( Mon ) 「自分はどうしましょうか、先輩」
「そうだな……」 ユシュハが顎に手を当てて考え込む姿勢を取った。 「よし。フォルトへ、お前はついて行け。私はとりあえずソリの傍に残る。戻りが遅いと感じたら、自己判断で追うぞ」 「了解です~」 言うが早く、フォルトへは身に携帯している武器や防具の確認をした。更に、例の異様に長い縄を腰に結び付けて垂らしている。 「ありがとう……旅人の方々、ありがとうござい、ます……わたしはプリシェデスと申します。シェデ、とお呼びください」 助けを求めて来た女性が、雪の上に平伏した。 「私はミスリア・ノイラートです。シェデさん、取り急ぎご案内をよろしくお願いします」 「はい、ついて来てください! 急がなければ、皆喰い尽くされます……!」 女性はひとりでに立ち上がり、滑らかな丘を慣れた足取りで上り始めた。彼女のすぐ後ろにフォルトへが続き、その後ろにリーデン、ミスリア、ゲズゥが並んだ。転ばない程度に、早足に歩く。 丘を上り切るまであと数歩のところで、フォルトへが何故だか露骨に鼻をすんすんと鳴らしている。それも、先導する女性のうなじに寄せるようにして、だった。 (何か匂うのかしら) 疑問に思ったのは自分だけではなかった。 「あの、何か……?」 ぎこちない表情でプリシェデスが振り向く。 「いいえぇ。魔物以外に、何か不思議な匂いがするなー、と。花の可憐さの中に潜む凶暴性さとでも表現しましょうか」 どうしてか、女性は返事をせずに前を向き直った。 「ユリの一種だったと思うんですけど~。胡椒っぽくてスパイシーな、ツンと鼻に残る芳香」 「え、ユリって言っ――」 「見えてきました、あちらです!」 問い質そうとするリーデンの声に、プリシェデスの叫びが重なった。丘を上り切った先には、僅かな平面の後、より険しい傾斜が待ち受けていた。 あちら、とは。現在地から三十フィート(約9.1m)先を意味している。 白や茶色ばかりの景色の中、目前の峰の麓だけが幾つもの派手な赤い模様に彩られていた。人々を蹂躙する巨大な異形の姿が見えて、背筋から震える。 異形はこちらに気付いて、跳躍した。 巨体の着地時の振動が、足から這い上がって腰を揺さぶる。 毛むくじゃらの魔物の巨大さに愕然としたこと、数秒。静かな時間の中、魔物の首と思しき辺りに鎖が巻かれているように見えて、それの意味するところを思うと戸惑った。 思わず現状をも忘れる。意識の範囲内には己と魔性しか居ない。 ――ビィキッ。ギキキ、ビキビキ。 凄まじい音の連鎖が地面の奥深いところを伝った。ハッと目が覚める。 たとえるならば導火線。 亀裂の入る音がどんどん遠くへ去ってゆく。無意識に目で追っていたら、行き着く先は、峰―― 「傾斜三十度以上!」 そう叫んだのは多分、リーデンだった。 ――崩れる。 理解の追いつかない頭でぼんやりと。息のし方も忘れるほどに夢中で。峰の側面に付着していた雪が、崩れ落ちるのを眺めた―― 押し飛ばされた。 内蔵がぐっと圧されて潰されるような感覚が伴うほど、強い力で。 この突然の力には覚えがあって。鋭く囁いた「逃げろ」の声にも当然、覚えがあって。危機に瀕した際の自分の反応の悪さにもいい加減、覚えがあった。 「がはっ」 落下の痛みが全身を打つ。 この身を包む地面の冷たさが、叱責に思えた。けれど、何も生み出さない自責の念に捉われている場合では無かった。 「――う」 ひどい眩暈と咳がするのも構わずに、急いで起き上がった。暗いはずの視界にチカチカと火花が散っている。治まれ治まれと念じる内に視界は何とか晴れてきたが、聴覚は未だに使い物にならない。股関節を蝕む激痛があり、骨折したのではないかと疑った。 けれど、そんなことよりも。何処だ。皆は、何処に―― しばらくして迎えてくれた映像に、ミスリアは絶句した。 洪水だ。雪崩という名の、雪の奔流。 自分は流れの外まで飛ばされたらしく、一連の恐ろしさを横から一望できるようになっていた。 峰から丘へ、丘からもずっと下へ。流れ、ひたすらに流れる。 大切なものが掌から零れ落ちて、二度と戻って来れないところまで落ちてしまうと、直感した。 必死に探した。彼らは何処へ流されたのだろうか。怪我をしていないだろうか、意識を失っていないだろうか、助けに行かねば――! けれども立ち上がれない。 何故か、嘲笑が聞こえた。 「ばかだね、きみは。見ず知らずの人間を助けようとしたばかりに、大事な仲間を死なせるんだ」 「ぅ、あ」 耳元に囁きかける声に、何も返せなかった。振り返ると、人影はひとつだけだった。 どうして彼女だけ此処に居るのだろう。どうして他には誰も、奔流の外に居ないのだろう。声も涙も出せないまま、ミスリアは瞼と口を空しく開閉する。 「救いようのないばかだけど、才能を見込んで、殺さないことにしたんだよ」 「シェデさん、あ、なたは、一体」 「ぼくと一緒に来なさい、聖女ミスリア・ノイラート。嫌とは言わせないよ」 「――! いやっ」 脇下から引っ張り上げられている。抗った。精一杯、暴れた。 「放して! 皆さんを助けないと、埋もれて、し、早くしないと、死ぬかもしれないんです!」 「今や歩けもしない非力なきみに、彼らを助けることなんてできやしない。諦めた方が賢明だよ」 「放して……這ってでもいい、私は、行かない、と――」 突然喉を圧迫されて、それ以上何も言えなくなった。驚いて目を見開くと、首を絞める細腕が目に入る。 細い腕には似つかわしくない力だ。 「きみの帰る場所は失われた」 「――っ」 後ろ首にとてつもない衝撃が走った。 (認めない。これが、お別れだなんて、嘘) 遠ざかる意識の中で、ミスリアは絶望と悲しみを凌駕する悔恨の念に押し潰されていた。 視界が闇に落とされても、雪崩の轟音はいつまでも続くかのように思われた――。 |
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