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2016 / 06 / 01 ( Wed )
 月影は早朝の淡い空に溶け込んでいる。間もなく登場する主役の為に身を控えているかのようだった。
 いつの間にかエザレイは草の上で横になっていた。夢の余韻さめやらぬまま、大きく伸びをした。
 起き上がると、墓石と向かい合う聖女ミスリアの後姿がすぐそこにあった。一行はどうやら封印を解く準備をしているらしい。

「……さんざんな人生だったけど、俺はお前ら姉妹と関われてよかったよ。そこだけは後悔してない」
 彼女に聴こえないように呟く。
 ミスリアは右の掌に幾つかの小石をのせている。もっとよく見ることができないうちに、石が眩い閃光を放った。
 空気が震えた。この場所から、目に見えないものが抜き取られたような感覚だ。

 ――ねえ、エザレイ。貴方は知らないでしょう。あの酒場で出逢った夜、私がどれだけ心細かったか――

 温かな声が耳を掠める。
 己の五感を疑った。まだ夢の中だったのかと、自らの腕の肉をつねった。
(痛い。夢じゃない)
 声はまた柔らかく漂う。

 ――危険な旅に出ると決めた時から、私は自分がどういう風に死ぬかを想像してきました。愛する家族や友人から遠く離れた地で、誰にも知られずにひとりで……それとも大聖者となって神殿の中で……。

 周囲に黄金色の輝きが満ちた。あまりに眩しくて、目を閉じるほかなかった。

 ――人類の宝などと呼びましたけれど。貴方は最初から最後まで、聖女でもなんでもない、ただの私を相手にしてくれました。連合が貴方を知っていると言った時、私は「しめた!」と思いました。これで堂々と旅の供に誘う口実ができた、と。おかげで、まだ顔を知らなかったハリド兄妹に対する不安も忘れられたのですよ――

 幻聴だ、幻聴に決まっている。
 こんなにも愛に満ち溢れた台詞を、恥ずかしげもなく並べるなど。
(いや確かにあいつは言いそうだけども)
 恥ずかしいも何も、実体が無いのか。残留思念か、これも。解かれる封印と共に天に還る、魂の残滓だろうか。
 そうとわかっても心拍数が上がるのを止められない。

 ――ありがとうございます、親切な方。貴方は文句ばかり言うけれど、私は最初の日から確信していましたよ。きっとこの方と旅ができたら心強いだろうなと。

 柔らかい声は途切れるまでに、ずっとどこか浮かれているような、嬉しそうな響きを持っていた。

 ――最期に傍に居たのが貴方で、私は幸せ者です――

「ハッ、バカなやつ」
 だから息を引き取る寸前、腕の中で笑ったのか。あの瞬間に彼女は、感謝、していたのか。
「バカだ」
 吐き捨てた言葉は震えていた。

「本気で、そんなことが怖かったのか」
 エザレイは泣いていた。独りで死ぬことへの恐怖は痛いほどによくわかる。他に何ひとつしてやれなかったとしても、その恐怖から救ってやれたのだ。
 それを知ると涙が勝手にあとからあとから溢れ出した。
 この先いずれ、自分もその瞬間を迎える時が来ても。

「ありがとう。それがどんな状況でも、このことを思い出して、俺は気分良く死ねる」
 歪んだ人生、歪んだ道のり。最期に幸福の瞬間に辿り着ける可能性を遺してくれた聖女。
 彼女の名は歴史に残らないかもしれない。生きた軌跡が記されずに、誰の記憶にも残らないかもしれない。
 けれど聖女カタリア・ノイラートは生きた。
 そして、世界を愛した――。

 眩い光が消えて、何の変哲も無い窪地に戻った。
 藪の遥か向こうに人影が見えた気がした。
 聖女ミスリアの手を中心にして不可思議な霧が広がる。目には見えないが、これで穢れも浄化されているのだろう。

「退きなさい」
 低く唸るような声は、侵入者たちに向けられている。
「貴方がたが二度とこの場所に踏み入ることを、絶対に許しません」
 藪の迷路をも覆う、深い霧が生じた。
 そうしてミスリアたちがこの先の立ち回り方を話し合う横で、エザレイは涙を乱暴に擦った。

「悪いな、カタリア。俺はお前が望んだようには生きられない。けど安心しろ、きっとお前の妹が使命を引き継いで、お前の分まで幸せになる」
 ここ数年の日々が嘘だったように、頭の中の霧はすっかり晴れていた。
 胡坐をかき、空を見上げて笑う。

「だから俺はお前らの分まで――――戦うよ」
 太陽や月を宿した大空からは、勿論返事など無かった。
 返事は、必要なかった。

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