57.d.
2016 / 05 / 23 ( Mon )
 カタリアの妹はそれ以上何も言わなくなったが、触れた手は離れなかった。
 次の一歩を踏み出す。
 すると藪に見えていた箇所を難なくすり抜けた。どうやらかつての記憶を頼ったのは正解だったらしい。一歩踏み出す度に自信が身に付き、どんどん足取りは急いた。

 おもむろに歩き出した彼に、ミスリア一行が続く。
 藪の中に生き物の気配はしない。足音も風の音も枝が上着をかする音もどこか遠くに感じられて、奇妙な気分だ。
 どこもかしこもが同じ景色に見えてしまい、叫び散らしたくなる。脳内地図に不備は感じられないが、それと心の迷いは別物だ。五感がまだ正常に機能しているかを確かめたくて舌を奥歯の間に挟んだ。鋭い痛みが舌先に走った。

(どれくらい時間が経った? 出口まで後どれくらいかかる?)
 振り返って彼らの顔を見たら少しは元気が出るだろうか。否、それをやっては自分の不安が伝染しかねない。最早引き返せない場所まで来ているのだ。
 未だに感じる温もりを振り払う為に右手を引こうとすると、あろうことか細い指が絡まってきた。

「貴方の知るお姉さまは、どんな人でしたか」
 静かな声がした。
「急に何だ」
「八歳ほど離れていましたので、あまりよく知らない内に別れたんです。きっと私の憶えているお姉さまは、素のお姉さまとは一味違ったのでしょう」

「……だろうな」
「良ければ話して下さいませんか」
「どんな人か、ねえ」
 追慕の念はそこらに充満している闇を忘れさせてくれるかもしれない。少しくらいならいいだろうと、歩を進めながらも回想する。

「よくも悪くもあいつは聖女だったよ。いつも笑ってて、人を傷付けたり悲しませることは絶対言わなくて。近くに居ると日向ぼっこをしてたみたいな気分だ。拗ねた顔はたまに見たけど、怒ってたとこなんて多分見たことが無い」
「そうですね、私も怒った顔は見たことがありませんでした。泣いた顔もです、嬉し泣きとか感動泣きは別として」
「泣き顔は――ああ、一度だけ」

 あれはいつだったか。おそらくは会えなくなるまでの最後の一月の間のことか。イリュサに腕を縫合してもらった後に気を失い、次に目を覚ました時。カタリアは泣きながら謝った。
 お前の所為じゃない、と宥めすかしたのを憶えている。

「あとは、頭は良いくせに、抜けてたな」
 特にカタリアの空間認識能力の欠如には深刻なものがあった。建物から出ると、必ずと言っていいほど帰り道とは違う方向に歩き出していたように思う。数歩放って置いてやって、カタリアが自分から「間違えました」って道のりを訂正できたかどうかの確率は五分五分。

「意外ですね。私にはちょっと想像できません」
 くすくすと笑う声が聴こえる。
「下のきょうだいが見てるとこではカッコつけたいだろうよ」
「そんなものでしょうか」
「そんなもんだ」
 断言した。遥か昔の話ではあるが、エザレイにも弟妹が居て、次男としてのくだらないプライドみたいなものもあったのだ。

「他には?」
「そうだな……あいつは世界を愛していた。何でもないところにまで愛を感じていた。そういう特殊な価値観の持ち主だからこそ、ディアクラとイリュサはあいつにベタ惚れだったんだろうな」
 ――次の角は右。
 口を動かすだけでなく、手足をも動かした。
 それからしばらくの間カタリアの妹は黙り込んでいた。独り言を連ねているような心持ちで、エザレイは語り続ける。

「宿命の元にストイックに生きなきゃって思ってたんかな、欲しい物を我慢してた時も……」
 はた、とエザレイは言葉を切る。自分は今、何か大切な思い出を手繰り寄せたのではないか。唾を飲み込み、瞼を開閉する。どうにも思い出しきれずに話の焦点を次に移す。
「よく家族の話もしてたよ。親とまた漁がしたいな、とか、可愛い妹と遊びたいな、とか。そうそう、出発した前の日に、手を繋ごうとしたら振り払われたーって」

「えっ! ほんとにそう言ってたんですか」
 顔を見ずとも、やたら食いつきが良いのは明らかだった。右手の指に絡まる手が、ぎゅっと握る力を強める。
「お、お姉さまは悲しんでましたか……?」
「悲しいっていうか、しょんぼりしてた。別に手を繋いでもらえなかったことがじゃなくて――私の知らない内に大人になってくんだなーって。一緒に居られなくなる未来を、惜しんでた」

 懐かしい。こうして過去のことを話せる自分を、どこか信じられない気持ちで観察していた。
 あの日々を思い返すごとに心がじんわりと温かくなるのを感じる。同等の喪失感をも呼び覚ましながら、だが。

「半年か」
 ぽつりと呟いた。迷路の出口まで僅か数歩の距離でエザレイは立ち止まり、俯いた。
「何がですか」
「俺があいつらと旅をしていられた期間は、ほんの半年だった」
「……」
 カタリアの妹が手を放した。そしてくるりとスカートの裾を翻して、エザレイの正面に立つ。たったそれだけの動きが清爽な風を吹かせたようで、呆気に取られた。

「これを貴方にお返しします」
 濃い茶色の双眸は真摯だった。少女の手には、よく見知った一組のリボンが握られている。
 差し出されたからには受け取った。掌を撫でる、慣れた感触に安堵する。
「実はそのリボン、刺繍が施してあるんです」
 続く言葉に不意を突かれた。

「刺繍?」
「はい。生地と似た色の糸で」
「そうか、それは気が付かなかったな…………?」
 所有者の名前が刻まれていたのか、それとも買った場所を記念に記したのだろうかと、安易な想像をする。
 どうして目の前の小さな聖女はこんなにも思いつめた顔をしているのか。よくわからない。
「お伝えします」
 彼女は頭を垂れて、大きく息を吸って吐いた。
 なんとなくエザレイは手の中のリボンに目を落とす。


『尊き聖獣と天上におわします神々よ
 この糸と同じ色の瞳をした人をお守りください
 肩の力の抜き方を知らない彼が
 どうか幸せに生きられますように』



想像以上に長引いたw 57はずっとこんなカンジで進行します。

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