54.i.
2016 / 03 / 27 ( Sun )
 倒れてからも奴は一週間昏睡し続けたため、成り行きで宿に置いて様子を見ることになった。リーデンの従者の女に言わせてみれば、長らく不規則な生活で無理をしていた反動、疲れは一旦堰を切るとなかなか回復に向かわないと言う。不安定な精神の影響もあるのか、聖気をもってしても意識は戻らなかった。

 その間、事件の事後処理で役人に長々と証言をした他、枢機卿からの使者が書物を持って訪ねて来た。
 使者が去った後も開封する心の準備がなかなかできないらしいミスリアは、紙束の前で難しい顔をして正座している。かれこれ何十分もだ。
 買い出しに出かけたリーデンと女を除いて、ゲズゥたちの他にはその部屋には昏睡した男しか居ない。息が詰まるとはこういうことなのかと、柄にもなくため息をつく。

「外に出るぞ」
 お前も来い、と顎をしゃくった。
「え? でも……」
「気になるなら何枚か持ち出せばいい」
「は、はい」
 慌ててミスリアは紙束を封じる印を切り、一番上と下から何枚かを抜いて手の中で丸める。

 外と言っても向かうのは屋上だ。
 廊下の突き当りで扉を開き、建物の外面に沿った階段を上がった。ウフレ=ザンダの首都は、建物をあまり高く造っていない。三階建ての宿の屋上から望める街並みは、色も形もどこか平坦な印象を受ける。
 ミスリアは物憂げな顔で屋上の手摺りに肘をのせる。組織の連中のことはきっと、もう思考を占めてはいないだろう。整理する時間が十分にあったはずだ。
 その隣でゲズゥも手摺りに寄りかかった。

「風が気持ちいいですね。部屋から連れ出してくれてありがとうございます」
「ああ」
 曇り空を滑らかに横切る二羽の鳥を眺めつつ、次の行き先について思案した。元々一直線ではなかった道のりが、最近になって益々曲がりくねってしまったように感じられる。
 人生もまた、こんなものかもしれない。目的地をあらかじめ決めたつもりでも、行き当たりばったりに突き進んでは幾度となく方向転換を強いられる――

 カサリ。紙が擦れる音で、物思いから現実に引き戻された。あれほど目を通すのを渋っていたのに、気が変わったらしい。
 懐から取り出した書類を、ミスリアが小声で断片的に読み上げ始める。俗に言う「斜め読み」と呼ばれる手法を取っているのか、ページを捲る速度がかなり速い。と言っても文章を読めないゲズゥにはよくわからないが。

『――こうして、私はハリド兄妹と合流できました。ところが魔物狩り師連合拠点まで案内してくれた人物の名を口にすると、彼は昨日まで連合に登録されていた魔物狩り師だったと言うのです。私は改めてその者を探し出し、仲間に加えようと決心しました』
 しばしの間を置いてからミスリアは手持ちの紙束を後ろの方まで飛ばし読んだ。

『エザレイは反対しましたけれど、私たちはサエドラの町を通って、聖地を目指すことになり――』そこまで読んで、ミスリアは眉をしかめた。「三人目の護衛の名は、エザレイといったのですね」
 しんみりと呟いたものの、ミスリアがその名を例の記憶喪失者に問い質すことは無いだろう。
 奴に不用意に刺激を与えることは避けたい。その点はリーデンたちも含め、全員の意見が一致した。

「お姉さま……聖女カタリア・ノイラートが提出した報告書は、サエドラの町からが最後だったようです。行ってみた方がいいかもしれませんね」
「――」
 相槌を打とうと口を開いたが、ふと階段を上る足音に気付き、注意がそちらに流れた。

「シュエギさん! 目が覚めたんですね」
「……おかげさまで。少し話が聴こえたのですが、聖女さまがた、サエドラに行くんですか。冒険者ですね」
 白髪白髭の男が、弱々しい足取りで歩み寄ってくる。いつにも増して幽鬼のようだった。
「あの町は教団の関係者を疎んじます。旧き神への信仰ゆえに」
「そうなんですか」
 ミスリアが返事に困っている。半端な笑顔を張り付けたまま、目を泳がせた。
 ――どうにも嫌な予感しかしない。

「シュエギさんも、一緒に来ませんか。サエドラまで」
 歩く不安要素みたいな男をミスリアが何気なく誘うのを聞いて、ゲズゥは顔を逸らした。これは不用意な刺激、干渉になるのではないか。
 とはいえ気になるのは仕方ない。これほどの危うさを目の前にちらつかせられて放っておけるほど、聖女ミスリア・ノイラートの庇護欲――或いは母性――は易くない。

「私は、人と行動を共にするのが苦手だった気がします」
 男は目の焦点をミスリアに当てて、囁いた。
 それはどこか言い訳じみた断り方に思えた。記憶がはっきりしない人間に、好き嫌いも得意苦手も無いはずだ。しばらくして、灰銀色の瞳がぼんやりと雲の動きを追っていった。

「ですがこうして借りができてしまった以上、断るのも失礼でしょう。ご同行させて下さい、聖女さま」
「ありがとうございます。えっと、私のことはミスリアと、名で呼んで下さっても構いませんよ」
「ではよろしくお願いします。聖女ミスリア」
 男は微かに笑った。その瞬間だけ、髭も髪も皴も関係なく、一気に若返ったように見えた。

 ――中身の知れない箱を開けんとする時の感覚と似ている。
 開けてしまえば、見ないままで居た方が幸せだったかもしれないモノを見てしまう恐れがある。ところが開けぬままで居れば、もしかしたら知りたいモノを手に入れられたかもしれない未来と永遠に繋がらない。
 内なる葛藤を続けるミスリアの傍らで――部外者のゲズゥは箱から何が飛び出るのか、まだ見ぬ真相に用心と共に純粋に期待した。

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