50.e.
2015 / 11 / 15 ( Sun )
 ここで目を閉じるのも一つの選択だろう。そうしなかったのには深い理由は無かった。ただなんとなく瞼を開いたまま、焦点がぼやける。
 一種の現実逃避と言えよう。

 唐突に、ぶわっと暖かい気配が通り抜けた。
 それを受けて真っ先に連想したのは、聖気の祝福。

(でも、え? 風――だった?)
 今のが聖気だとするなら馴染みの無い形式だが、痛みの和らいだ怪我や解かれつつある麻痺状態などが真相を雄弁に物語る。
 更には、耳のすぐ傍でバシャッと水音がした。反射的に両目の焦点を眼前の化け物に合わせた。

 ――腕が、なくなっている。
 見れば、百足も蛇も地面にごっそり落ちたようだった。銀色の素粒子を放ちながら、ぴくぴくと最期の痙攣をしている。魔物がそうなってしまうように、聖気に触れて浄化されたのか。

 再びヤン・ナヴィへと視線を戻すと、何が起きたのかまるで理解できない表情をしている。数瞬遅れて吠えた。奴の腹の大型猫の、断末魔であった。
 リーデンは状況を正確に把握する為に目を凝らした。

(否応なしにも魔物である部分は浄化されて、残ったヒトの部分が……まさか、融解している!?)
 よくわからないが、チャンスだ。
 反転してその場を逃れた。急いで奴との距離を稼ぐ間にも、触手が暴走し始めた。
 リーデンは背を向けて走っていたが、破壊の「音」から違和感を見つけることができた。それは、先ほどに比べてかなり控え目に聴こえてくるのだ。

(浄化されかけてる所為でさっきみたいな破壊力が無いんだ!)
 これなら、もっと強引に攻められる。
 瞬時に踵を返した。心の中の弱気な流れは、既に逆転している。

「聖女さん。君は希望を運ぶひとだね」
 耳飾のチャクラムを外し――人差し指と中指の間に一枚、中指と薬指の間にも一枚挟んで、投げた。
 奴の首を切断するのが狙いだったが、戦輪は右の頬と眼窩に食い込んだ。この際、ダメージを与えられれば何でも良しとしよう。
 喚き声と触手の暴走が激化した。

「攻め込め! 実体が保てなくなってる今が好機だ! もうすぐで倒せる!」
 満身創痍の観衆を鼓舞する言葉を投げかけた後、リーデンは何処かに落とした剣を探しに行った。
 入れ違いに、励まされた里人たちが怒涛のように走り過ぎる。

(さっきまで怯えて身動き取れなくなっていたのに、勝利が近いとわかった途端に元気だね。ま、聖気の効果もあるか)
 それでいい。まだ体力の残っている者がなんとかやってくれるだろう。自分は十分に働いた、そう結論付けて、のんびりとした足取りになる。
 横合いからそっと剣を差し出す者がいた。

「ありがとマリちゃん」
 潤んだ目で見つめてくる彼女に、なるべく安心させるような声をかけた。このタイミングで抱き付いて来るのではないかと僅かに疑ったが、イマリナは分別のある大人だった。唇を噛んでぐっと堪えてくれた。
 後でめいっぱい褒めてやろう――剣の柄を握りながら、そう思った。

「解放主! やりましたね!」
「ちょっとー、『やった』とか、安易に言わないでくれる? そういうコトを口走った時に限って隙を突かれるんだよ」
 リーデンは再び騒ぎの中心へ向かった。ヤン・ナヴィは未だに抵抗の意思を全身で表現していたが、攻撃の速度や威力は減る一方だった。融解が進んで、体勢が維持できなくなっている。

(んー、判断を待つべきかな。僕の手柄じゃないし、因縁深い相手が他にいるし)
 ついに地に崩れたヤン・ナヴィの前に、力強く歩み出た。と言っても、まだ十五歩分は離れている。
 その位置からビュッと剣の先を突き付ける――

「とりあえず取り囲んで警戒して! できれば拘束したいけど、接近しすぎるのは禁物だよ」
 周りに指示を出すのも忘れない。
「はい!」

「さぁて、君をこれからどう料理しようか。じっくり考えるとするよ」
『……』 
 チャクラムが刺さったままの眼窩から、ドロドロとした液体が溢れ出た。
 すっかり体積が小さくなった男は恨めしそうに唇を震わせる。その口からは、水音がするだけで言葉が出て来ない。

 聖なる奇跡は「混じり物」にとって究極の毒であったのだ。魔物の部分が粒子に還されれば、残された人間の部分は不完全になってしまう。融合の果てに残った人間の部分が少なければ少ないほど、きっと形は崩れやすい。
 左眼が訴える鈍痛を無視しながらも、リーデンはその事実に対して複雑な想いを抱いた。

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