37.d.
2014 / 10 / 24 ( Fri )
 晴夜の満月を仰ぐ少女を包む淡い光が、月から降り注いでいるのか、それとも少女自身から発せられているのか、ゲズゥ・スディル・クレインカティには見分けが付かなかった。
 深夜、無人となった屋上庭園の中心で、小さな聖女がパンジーに囲まれて佇むのを彼はただ見守っている。

 秋から冬にかけて咲く花であるだけに、パンジーたちの生命力と存在感は未だに揺るがない。身長が低く、遠くから見ると常緑種の影に覆われて印象が薄いが、近付いて眺めるとその色鮮やかさがいっそ煩いほどだった。

 明るい黄色と黒、薄紫色と白、桃色、オレンジ色――しかし一際目に付いて回るのは渋い紫色の花と、インディゴ。中心の黄色い一点を囲む濃いインディゴ色の花びらが、透き通る青に縁取られている。

 まるで色合いそのものが神秘を孕んでいるようで、異様に美しい。ゲズゥにはその美しさが普通の生き物の気配とかけ離れているように感じられた。かといって、魔物の類でもない気がする。
 元より建物全体は結界に守られていて、魔物は近寄れない仕掛けとなっているらしい。

 ――リィイイイイン――

 ふいに耳鳴りがした。
 最初は何かの虫だろうかと思って辺りを見渡した。何も見つからないので今度は数歩後ろに立つ弟と顔を見合わせた。リーデンは神妙な顔つきで顎をしゃくり上げる。弾みで、しゃりん、と大きな耳輪が襟巻に引っかかって音を立てた。

 視線の先を辿ると、ちょうどミスリアが右手をゆっくりと天に差し伸べている所だった。その仕草はたとえるなら、初めて経験する雨の粒を掌で堪能する子供と似ていた。

 十秒も経てば耳鳴りは消えた。
 ミスリアは一度頭(こうべ)を垂れ、また顔を上げた。横顔は栗色の髪にほとんど隠れている。唯一見える鼻の頭は、ほんのり赤みを帯びていた。

「――――――――――」
 ほっ、と白い息を零した後、少女の唇が耳慣れぬ言葉を綴った。
 共通語ではなかった。或いはコイツならわかるだろうか、と思ってゲズゥはリーデンを一瞥した。

「ザンネンながら僕も知らない言語だったよ」
 リーデンは小声で応じる。
「そうか」
 ならば仕方がない。二人はそれからはしばらく無言でミスリアの行動を見守った。

 当のミスリアは十分ほど微動だにせずに、ただ空を見上げたままその場に立留まっていた。

 ――雪が降り出しても良いような静かな夜だ。
 ゲズゥもなんとなしに空を見上げた。

 去年の今頃は自分は何をしていたのか――思いを馳せるも、不思議とまるで思い出せなかった。やはり聖女ミスリア・ノイラートと出会う以前の人生が、遠い昔に感じられる。靄の中ででも生活していたのだろうか。

 ふわり、緩やかな風が庭園を吹き抜けた。
 鼻の奥をツンとさせる冷風は、微かな花の残り香をも運んでくる。時を同じくして、聖女ミスリアが踵を返す。

「お疲れ様ー」
 リーデンがにこやかに声をかけた。
「はい、お待たせしました」
 ミスリアも微笑みを返す。急に寒さを思い出したのか、上着のフードを被り直している。

 今回は倒れたりしなかったな、とゲズゥは脳内に記録して置いた。

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