10.d.
2012 / 03 / 14 ( Wed )
雨がほんの少し勢いを増した。晴れかけた霧がまた濃くなりつつある。
――ポツリ。
手を伸ばせば届く距離の花に一滴、また一滴と雨が当たる。外側の花びらが震え、雨水は重なった花びらの間をすり抜けて消えた。
ゲズゥが斜め後ろへと左腕を差し出した。肩をそのままに、頭だけ振り返って聖女を一瞥する。
察して、聖女はぴくっと身体を震わせては目を泳がせた。ゲズゥの腕を見やり、百は超えた数の薔薇の魔物の群を見やり、最終的にため息をついてから歩み寄ってきた。
少女を抱え上げて間もなく、薔薇が何本か、二人に噛み付こうと身を乗り出す。
ゲズゥは右腕だけで大剣を振るった。斜め横に薙いで、一度にいくつかの花を棘だらけの茎から切り離した。実はこの剣は見た目ほど重くないのだが、それでも重力に合わせて振り下ろすのが一番やりやすい。
他の花たちが頭を左右に揺らしている。植物らしく地面に根付いているためか、傍目にはそれほどの脅威に見えない。とはいえ、これらがある限りは白髪の娘に近づけないのが厄介だ。走り抜けようと思っても、文字通り茨の道だ。
ここは道を切り開くのが適切だろう。
ゲズゥは剣を振り下ろした。生じた圧力が大気を切り裂き、剣から一直線に伸びて魍魎たちを裂いた。大量の花びらが宙を舞う。
すぐさま走り出し、何度か剣で周りを一掃した。核たる魔物との距離を半分ほど縮めた途端、娘が立ち上がった。ゲズゥは反射的に動きを止めた。
娘がゆったりと白い手を持ち上げる。曲がった手首を優雅に起こし、手のひらを地面に平行に広げた。おそらくはあの糸が来る。聖女もそう直感したのか、ゲズゥの首に回した腕に力を込めた。
予想通り、娘の爪の下から無数の糸が伸びた。まだ50フィート(15.2m)以上は離れているのに、糸は重力に屈することなく、鉄線みたくピンと張った状態で攻めてくる。
跳んで避けようにも茨でまともな足場が無い。先ずはしゃがんでかわした。次にタイミングを見計らって横へ回り、剣で糸を切り落とした。的への軌道から外れて、糸の先がバラバラに散る。たとえ糸が己の身体から伸びた物でも、流石に一本一本を先端まで細かく操作できないらしい。
――再び前へ進もうと、一歩踏み出した瞬間。
右のふくらはぎに激痛が走り、思わずゲズゥは鋭く息を吸った。
見れば、薔薇の魔物の一匹がしっかりと噛み付いている。簡単に振り落とせそうに無い。
「その魔物の唾液も酸性です!」
一瞬、聖女が何を叫んだのかわからなかった。が、花の牙に触れている部分のズボンが溶け、最初の痛みとまた別の――皮膚が焼け落ちるような――感覚から、理解した。
理解したからには剣を構えた。膝を曲げて脚を上げ、柄近くの鋸歯部分を使って、花を削ぎ落とす。自分の皮膚も多少巻き込んで削いでしまったが、この際知ったことではない。
切り落とされた花はしばらく痛がるように暴れた。
「……糸が……」
呟きに、ゲズゥは顔を上げた。横顔だけからでも聖女が青ざめているのがわかる。
聖女の視線を辿ると、白い糸に巻きつかれたいくつかの薔薇があった。それらは見る間にどんどん大きくなっている。まるで糸を通じて、核の魔物から養分を注いでもらっているかのようだ。この糸はさっき襲ってきた同じ物が的を変えた結果であろう。
人間と同じ大きさに達した五匹の薔薇の先を見据えると、静かに緑色の涙を流しながら笑う、全裸の娘が目に入った。
「聖女」
「……? はい?」
意外そうな返事が返ってきた。呼ばれたことに対して驚いているのだろう。
「あの女を救ってやってくれ」
ゲズゥは左腕の中の少女を見上げて、頼んだ。
改めて頼まなくても、聖女は最初からそのつもりだったろう。それでも言わずにいられないのは、同胞であった者に対する、情からだ。
聖女がゲズゥを見下ろす。
大きな茶色の瞳と目が合った。聖女は何度か瞬いた。
「わかりました」
少女の目からは既に怯えの色が完全に消え失せ、代わりに確固たる決意が浮き上がっていた。
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