六 - g.
2017 / 07 / 02 ( Sun ) 「ちょっと、このお金」
「見つかった場合は十枚も渡せば口封じにこと足りるでしょう。荷馬車に忍び込んで西門から脱出してください」 「くちふうじ……? え?」 疑問符を飛ばしている間にタバンヌスがまた何かを渡してきた。硬貨の入ったポーチなどよりもずっと重くて冷たいものだ。見下ろせば、セリカの弓矢とエランがいつも持ち歩いていた剣が両手の中にあった。 嫌でも察してしまう。 「あんたはどうするの。見つかったら始末されるんでしょ」 声が震えていると自覚したのは、言い終わってからだった。戦士風の男は首を横に振った。 「お二人が逃げおおせるように時間を稼ぎます」 「そんなっ」 抗議する間もなく、遠くから喚声が聴こえた。目を凝らすと――彼方の果樹園から、槍を持った兵士らしき人影がわらわらと出てきた。 「待ってよ! 首謀者は誰なの? 何でエランがこんな目に、っていうか様子が変なんだけどどうしちゃったのかわかる!?」 焦り、矢継ぎ早に質問をぶつけてしまう。 「誰が何故企んだのかは公子が一番よく知っています。後でご本人にお聞きください。それからこの状態……ヌンディークで手に入る薬物の中で、人を放心させられるものがあります。命に別状はありませんが毒が完全に抜けるまで数日かかるかと。態勢を立て直す時間が必要です」 疑問のことごとくをタバンヌスは丁寧にさばいてくれた。 「後で意識が元に戻ったら、エランはあんたの自己犠牲を怒るんじゃないの」 「ご心配なく。そういう契約です」 「そういうってどういう……」 しかしタバンヌスはその質問にだけは答えず、ふいにエランの両肩をガシッと掴んで何かを言った。それまでぼうっとどこを見ていたのかもわからなかった青灰色の目が、視線を定めるように何度か瞬いた。そして青年もまた、ヤシュレの言葉で何かしら応じた。 「――エラン。どうか達者で」主の肩をまたトンと叩いてから、タバンヌスはこちらを一瞥した。「頼みましたよ、公女殿下」 「まかせて、って豪語できるほどの力も人生経験もあたしには無いけど。できる限りのことはすると、約束するわ」 「はい。お気を付けて」 彼は自らの外套を脱いでセリカに差し出した。目立たないように、特徴を隠せと言っているのだろう。 ありがたく借りることにする。有り余る布の面積で派手なドレスを隠し、フードを被って赤い髪も隠した。 振り返ると、いつの間にか大男は両手にそれぞれ抜き身の曲剣を握って、喧噪のする方へと颯爽と走り去っていた。 死闘が始まるのを見届けずに、背を向ける。 (尊き聖獣と天上におわす神々よ、どうかあの者にご加護を) 大いなる存在に向けて短い祈りを捧げる。今日の内に別れを告げた二人に、バルバティアにもタバンヌスにも生きてまた会えればいいと、切に願った。 「ほら、行くわよ」 セリカは随分と増えてしまった荷物を抱え直した。それから、依然として地面に座り込んでいる青年の手首を引っ掴む。 _______ 居眠りをしていたらしい。唐突に揺り起こされて、セリカは身震いした。 道がでこぼこしているのか――車輪の立てる騒音が荒々しく、数秒ごとにお尻を打ち付ける衝撃は強まる一方だ。 (公都を出たのかしら) この荷馬車に忍び込んでからというもの、道がこんなにも険しかったのは初めてだ。道路が整備されていない、つまり都市部を離れているのだ。わかるのはそれだけで、荷馬車が何処へ向かっているのかなんて、皆目見当もつかない。 (むしろ何処で降りればいいのよ) まさに未知の世界に旅立っている。孤独感に潰れそうで、何度も拳を握りしめては開いた。 セリカラーサ・エイラクスはゼテミアン公国の公女だ。外出時には常に数人の供が、護衛が付いて回った。自分の命を背負って立つ重圧をほとんど知らずに生きて来たのである。他の誰かの命をまるごと預かったことなんて、あるわけがなかった。 肩が小刻みに震えている。心労からだ。寒さは、別に感じていない。 「ねえエラン……自由って、怖いね」 膝の上で頭を休める人間に向かってぼんやりと呟く。何を口走っているかなんて意識していない。どうせ聞こえていない、返事が無いのだから。 「寝すぎて脳がとけるんじゃない? 人がせっかく、こんなガッタガタの道でも安眠を守ってやってるってのに、ありがとうの一言もないの」 ここ数時間、独り言ばかりで心細かった。けれどもこうして温もりを近くに感じられると安心できた。その点に関しては、感謝の気持ちを抱いている。 (何時だろう。お腹空いた……) 荷馬車には布を張った屋根がかかっているため、外の景色が遮断されていて見えない。多少の明暗は伝わるが、夕方かもしれない、と感じ取れる程度だ。 突然、膝が妙にくすぐったくなった。エランが寝返りを打って咳をし出したのである。焦燥した。 (やばっ、御者にばれる!) これまで静かにしていたのに急にどうしたというのか。咳と言っても、彼が無意識に取った行動は、口元ではなく腹を押さえることだった。 その理由が気になって、セリカはエランの帯に手を伸ばす。他人の召し物を、ましてや異性のそれを強引に脱がせるなど言語道断だが、恥じらいならどこかに置き忘れていた。 (え、痣……?) めくれた衣服の下から、数えきれないほどの黒い痕が現れた。この暗がりでも確かに痣と見受けられる。色濃い暴力の痕跡に、ぞっとした。 「なんだ!? 誰かいるのか!」 前方から響く怒号でセリカは我に返った。口封じ、お金、と囁きながら懐に仕舞ったポーチを探る。 「聞き間違いだろ。大した荷でもねえのに神経質になりすぎだ」 用心棒の声に続いて、馬の嘶きが聞こえた。停める気なのだ―― ――しかし想像していたよりもずっと乱暴に、停車する。 轟音が耳朶を殴りつける。尻が浮き上がった。 (浮き上がって、え? 何で!?) 思考する間にも身体は何かに叩きつけられ。 衝撃、激痛、そして眩暈がした。急に寒くなった気もする。 上体を起こせるようになって、知る。もはや天井がなくなり、頭上に広がるのは透き通った夜空のみであるということ――馬車が破壊されたのだ。 その夜空に、誰かの悲鳴が響き渡った。 続いた咀嚼音と異臭が全てを物語っていた。泣き喚く御者に覆い被さるナニカ、少し離れた場所で別のナニカに斬りかかる用心棒。 (魔物…………!) 緊張に、セリカはガッチリと歯を噛み合わせた。 |
|