六 - f.
2017 / 06 / 28 ( Wed ) 「立って! お願い」
懇願しながらエランの腕を引っ張ってみた。抵抗しているのかと疑うほどにその腕は重かった。しかも袖が汗で湿っているらしく、もっと力を入れて引っ張ろうとしても、手の中から滑り抜けそうになる。 「生きたいでしょ、あんたも!? 立ってよ!」 セリカは荒く囁いた。返ったのは咳だった。 「こんなところで朽ちていいの!? 立ちなさい! 生きがいとか心残りのひとつやふたつ、あんたにもあるわよね」 「……か」 やっと彼はこちらを見上げた。名を呼んでくれたのかもしれないし、「わかっている」と言おうとしたのかもしれないが、重要なのは内容よりも反応があったという事実だ。 「そうそう、その調子。頑張って」 まずは起き上がるのを手伝って、それから肩を貸してやる。夢中で励ました甲斐あってか、数分後には独房の外に一歩踏み出すことができた。 (けどやっぱり重い) 踏ん張っているからか額に大粒の汗が噴き出て気持ち悪いが、致し方ない。身長は同じくらいなのに、これが男と女の差か――気を抜けば一緒に地面に引きずりおろされる。 出口がとてつもなく遠く感じられた。本当にセリカの思う方向に出口があるのかどうかすら、定かではないのに。 (やってやるわ。素顔を見せてもらうまでは死なせたりしないんだから) この緊迫した場面において、それは雑念の類に入るだろう――今なら、ターバンから流れるこの布をめくってしまえないか、なんて。 気になってしまったものは仕方がない。けれどもそれをやるのは、人の寝室に土足で駆け上がるのと同じことだ。緊張に紛れて、とんだ好奇心が鎌首をもたげてしまったものだ。 ズルや近道を選んではいけない。 これまでに受け取ったのと同等の誠意で応え、真心を伝えたいのだ。 「ま、ごっこっろー、まーごこーろー、つーたわれー」 即席でつくった鼻歌を歌い、気を紛らわせてみる。案外それで歩が軽くなった気がした。 「おひさまのーしたにでられたらー、まずは、なにがしたいですかー? たべたいものーはありますかー」 「…………サンボサ」 適当に歌っていただけだったのに。耳元で答える声があって、セリカはぎょっとした。何か言ったのかと訊き返しても、青年は沈黙したまま浅い息だけを繰り返す。 (どの問いに対してだったのかしら。さむぼさ、って食べ物?) これもまた気を紛らわせるいいきっかけとなった。「さむぼさ」の正体に想いを馳せている内に、手探りで地上への階段と出口を探り当てられたのである。 セリカは空いた手の指先だけでかんぬきを外した。手先が器用な人間でよかった、ありがとう神々――と変な方向性の感謝をしながら。 ガコッ、と古びた戸を外向けに開く。地上から漏れ込む光の刺激が強すぎて、思わず顔を逸らした。 けれどすぐに再び上を見据える。 澄んだ空気をもっと吸いたい、心休まる場所に行きたい。転がり出るようにして戸をくぐった。さすがに二人同時に通れるほどの広さは無かったので、まずはセリカが出た。 それから振り返って、エランに手を伸ばす―― 「ン!?」 急に呼吸ができなくなった。無骨な大きな手によって、鼻や口を封じられたのである。 瞬間、謎の人物の手に噛みつこうと口を開ける。 「お静かに」 北の共通語だ。セリカはピンと来るものを感じた。この場合「暴れるな」ではなく「静かにしろ」と注意するのは、まるでこちらの身を案じているようにも解釈できる。 口を覆っていた手が離れた。 恐々と振り返ると、歳は二十代前半くらいの、逞しい骨格の男と目が合った。その顔付きは強面と精悍の間くらいに属している。途端に、強張っていたセリカの身体から力が抜けた。 「……タバンヌス。あんた今までどこに? ううん、それより、いいところに来てくれたわね」 寡黙な戦士は頷いて、地下に残っていた青年を楽々と引きずり出して片腕で支えた。 「昨夜、よからぬ企みに走った者が居たことに気付いてから、身を隠して機を窺っていました」 「機を窺ってたって……何それ。あたしが動くのを待ってたって意味じゃないでしょうね」 つい語調が厳しくなる。 「己はエラン公子との関係性ゆえ、一度でも姿を現せばその場で始末されます。この身だけで救い出すことは不可能でした」 ご容赦ください、と大男は頭を下げた。 「貴女の行動力を測りかねていましたし、ここまでするお方だとわかっていれば、もっと早くに協力を仰いでいました。敵も、他国の公女を下手に扱えません」 「へえ。あんたには嫌われていると思ってたわ」 「主に害を成す者ではないかと危惧しただけです。今は考えを改めています」 全くの無表情でタバンヌスは懐から紐のついたポーチを取り出し、それをセリカの右手に握らせた。ずしりと重い。感触や音からして、硬貨が入っているのだと直感した。 |
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