五 - d.
2017 / 05 / 15 ( Mon ) 「元から、突然体調が崩れることがあった。今回が特に危険かはわからない」
無感動に彼は語る。「常時この城に専属医が居るように、聖人聖女もひとり雇いたかったようだが……彼らはそういう依頼を受けないらしい」 「そうでしょうね」 聖人または聖女とは――このアルシュント大陸の中北部に拠点を置く唯一にして最大の宗教機関、ヴィールヴ=ハイス教団が育て上げている特殊な聖職者の称号だ。傷や病を不思議な力で治せる貴重な人材であり、いくつか他にも重要な役割がある。セリカも一度や二度は会ったことがある。 天性の素質と厳しい訓練の両方が欠かせないため、その数は極端に少ない。「人類の宝」とも称される彼らは、その特殊能力を大陸の民になるべく平等に――時には最もそれを必要としている地域に――もたらす為に常に旅をしているらしい。為政者だからと優先的に治すことは、教団の道徳観にそぐわないのだろう。 (怪我と比べて病気への効力はムラがあるのよね、確か) であれば、どのみち常駐の者がいたからと言って助かるとも限らない。 難儀ね――とセリカは小さく感想を漏らした。隣の公子は何も反応しない。 (病だけじゃなくて人間関係も難儀みたい) 正面を向き直り、果実酒を更に喉に流し込む。初めはまろやかに感じていた喉越しも、量を経る内に次第に辛いような気がしてきた。 空の色合いが翳ってきて魅惑的だなあ、などとぼんやり思い始めた頃。ふいに空気が動き、蝋燭の炎が揺らめいた。 エランが立ち上がって寝床の脇を漁りに行ったのである。しばらくして、見覚えの無い道具を持って戻ってきた。 奇妙な形の器だった。黄銅でできた管のようだが、最下部と最上部は幅広くて丸い。最下部の丸みからは細長い管が枝分かれて突き出ている。 天辺の蓋をパカッと開けて、エランがこちらを一瞥する。 「吸ってもいいか」 「構わないわ。ていうか喫煙具だったのね、それ」 ゼテミアン公国で見てきた煙管の類とは大分違う――彼がその器具を準備する手順を、興味深く眺めた。 「ここではガリヤーンと呼ぶ。濡れたタバコを用いた吸い方だ。まあ、人が集まれば大抵誰かが引っ張り出してくる」 各部位は取り外し可能らしい。最下部に水を入れ、上の方にはぬちゃっとした、おそらくタバコである塊を詰めている。 「昨夜は見なかったけど」 「女子供の比率が高かったからだろう。そういう場では、あまり褒められたものじゃない」 「どうして?」 「知らん。かつて誰かが言い始めたからそうなったんじゃないか」 「伝統って時々いい加減よね……」 「吸ってみたいのか」 「ううん、興味ないわ」 エランが一個の石炭に火を点けた。トングで挟んでガリヤーンの最上部にのせ、蓋をする。それから数秒ほどして、枝分かれしている方の管に口を付ける。 「あんたは好きなの?」 長い息を吸って、吐いて、やがて青年は答えた。 「それなりには」 「ふうん」 喫煙している時の音や臭いに不快感は無く、ただなんとなくエランは今くつろいでいるのだという印象を受けるだけだった。片膝を立てて空を仰いでいる姿勢からも、気が緩んでいるのがわかる。 先ほどまでにこの屋根上を満たしていた緊張感はいずこへと消えていた。セリカも幾分くつろげた気分になっている。酒の効果もあって、ふわふわとした温かさが手足を駆け巡っていた。 目を細めて夜の風を頬に感じる。被り物をしていなければもっと気持ちよかったのかな、でも寒かったかも、と緩やかに思考を巡らせ―― 「何か喋ってくれ」 その一言は、ともすればせっかくのくつろぎ空間を台無しにしかねなかった。無意識に口を尖らせる。 「無理して会話を続けなくてもいいでしょ。静かに座ってるだけの時間も、あたしは嫌じゃないわ。気になるならこの前みたいに笛を……って、吸ってるんだからダメか」 「私も別に、静寂が嫌ということはない」 「じゃあ何が」 「静寂は好きだが、お前の声も話も結構好きだから、もっと話してくれないだろうかと思って」 遮ってまで被せられた言葉は、意外なものだった。 もやぁっと水蒸気が辺りに広がる。セリカは靄を見つめたまま絶句した。 (公子サマ、それはどういうアレですか。口説いてるんですか) 相手の表情が見えないので、ひたすらに悶々と考える。 |
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