20.f.
2013 / 02 / 06 ( Wed ) ぽたっ、とどこかで水滴が天井の鍾乳石から滴っては、地面で弾けた。 アズリの形のいい鼻が頬をかすめた。 「旅の道中、何を見て、聞いて、体験したのかしら? 誰かの生き方に感化でもされた?」 右耳のすぐ近くに放たれたその一言をきっかけに、今までに関わった面々が脳を流れ過ぎた。 迷いながらも何か目に見えないモノに立ち向かおうとする小さな聖女。目的を達成する為に、進むべき道を模索し続ける聖人。夢を抱いて命尽きた赤毛の少女と、その遺志を汲もうとする、魔物狩り師を志す少年。高みを目指して飽くことなく進むオルトや、奴に心酔して付き従う元・女騎士。或いは、己の目指す場所を見失って迷走した司祭でさえ、ゲズゥに影響を与えたというのだろうか。 「心当たりがあるのね」 ゲズゥは無言で瞬いた。アズリの指の背が、頬を撫でる。 ――わからない。 誰も彼もが理解しがたく、自分とは異質な世界に生きているのだと割り切っていた。 割り切っていた、が。他人の在り様を眺めつつ「何故?」と疑問に思う頻度は、近頃上がっているように思えた。ことミスリアに関しては特にそうだ。 「波紋が広がってるわ」 主語が省かれたので、どういう意味か想像した。――「風無き日の水面が如く揺らぎを知らなかった心に、波紋が広がってる」――? サファイア色の双眸に慈しみの色が過ぎったように見えたが、次の瞬間には消えていた。 「それがアナタの今後の人生をもっと豊かにするのか、それとも辛くするだけなのか、私にはそこまで予想がつかないけれど、ね。好きなだけもがけばいいわ」 しゃらん、と腰回りのアクセサリーを鳴らしてアズリが身を翻した。 すっかりゲズゥへの興味が失せたかのように、すたすたと歩き去ってゆく。十ヤード先で止まり、こちらに手招きしてきた。呼ばれるがままに、ミスリアを両手に抱えたまま、ゲズゥは歩み寄った。 「そろそろお邪魔するわよ」 布で仕切られた入口に向けて、アズリが声をかける。 「おう、ヴィーナか。入っていいぞ」 あの頭領の野太い声が、カーテンの向こうから響いた。 優雅な仕草でカーテンをどけて、アズリは部屋に入った。ゲズゥが一歩遅れて続いた。 会議室の役割を担う部屋なのだろう。長方形に削られた、大きな石造りのテーブルが空間をほとんど占めている。 テーブルの中心に高価そうな蝋燭立てが置いてあった。樹木みたいに大元から枝分かれした形で、十本もの蝋燭が使われている。 長方形テーブルの両端に――頭領は胡坐をかき、エンは片膝を立てて、それぞれ座している。 どちらも微妙な笑顔を面(おもて)に張り付けていた。エンは先程の状態が納まったのか、模様が左頬だけになっている。 闘技場で勃発した乱闘が収まってからも諸々の後始末があったらしいが、ゲズゥ自身は傷の手当や着替えを済ませて、遅い朝食を摂っていた。 山賊団の問題に関与する気は毛頭なかった。誰かが絡んできても、丸きり無視してやった。 そうしてミスリアの様子を見つつ通路の隅に座り込んでいた時に、アズリの取り巻きに呼ばれたのである。あの二人の「取引」の結末を見に来い、と。 「気は変わらないのか。イトゥ=エンキ」 何か落ち込むことがあるのか、頭領の声音は重苦しかった。 「無理。今更だと思うかもしんねーけど、オレはココにいられないんだよ。理由は、知ってんだろ」 これまで頭領には丁寧な口調を使っていたエンが今は砕けた言葉で、答える。 どうやらエンの離脱が会話の論点らしい。 |
20.e.
2013 / 02 / 04 ( Mon ) 腕の中の少女を見下ろした。一見眠っているようで、実際は力尽きてぐったりとしている。 ゲズゥは左手を肩、右手を彼女の膝裏に回してそれぞれ支えていた。ミスリアの栗色の髪が幾筋か顔にかかっていて、口元を覆い隠している。 頭領との交渉が落ち着いた直後に、ミスリアは倒れた。 おそらくは聖気を使ったことに関係ありそうだが、あの決闘から数時間経っても、一向に意識が戻る兆しはない。 果たしてこれが深刻な問題に展開するかどうか、気がかりである。 ふいに顎をつままれた。 「どこ見てるの。目の前にこんなイイ女が居るのに、無視するなんてひどいわ」 ずいと顔を近付けたアズリが、すぼめた唇で文句を垂らした。日頃の冗談よりも真実味のある言葉に、ゲズゥは違和感を覚えた。 熱い吐息から香る、甘酸っぱさに混じった独特な匂い。それを嗅いだ途端、察した。底なしに酒に強いアズリが酔いを表す程、グラスの中身は濃い酒といえよう。 アズリの右手がゲズゥの頬にそっと触れた。 柔らかい指の温かさが、背に触れている硬い壁の冷たさと対照的だ。 「アナタは初めて会った時から、不思議で、面白い子だったわ。一緒に生きることは無いでしょうけど、それでも一時でも私たちの道が交差して、楽しかった」 うっとりと、懐かしむ目だった。これも、真実味を帯びた物言いに思える。 ゲズゥは特に返す言葉を持っていなかった。あの思い出はあまり楽しいと形容できるものではなかったし、もう一度戻って選び直せと言われたら、今度は関り合いにならない方を選ぶかもしれない。どちらでも大して変わらない気もする。 そしてこの絶世の美女が自分をどう思っていたか、前々から感じ取っていた。 「……私は自分の生き方が気に入ってるわ。変えるつもりは無いし、その必要も無いと思ってる」 そう言ってアズリの美貌が更に接近してきた。 背後が壁なので後退ることはできない。左右にアズリの取り巻きが佇立してるので横へ逃れることもできない。ミスリアを抱きかかえたまま飛び上がるのも楽にできない。 が、次に起きることを逃れたり拒まなかったりした一番の理由は、意識のどこかでそれを求めていたからだろうか。 首を屈めて瞼を下ろした。 押し寄せてくる、女の微香。 頬を撫でる手よりも柔らかい感触が、唇をかすめた。次いで湿った舌が上唇をなぞってきた。応じて舌を絡め取ると、酸味がした。少し遅れて甘い後味が口の中に残る。 四年前――つまらない世界を漂って生きていただけの自分に、アズリの存在はやけに鮮明に焼き付いたのだった。 ――この女も、漂って生きているから? 自分と違って、やたらと楽しそうにではあるが。 熱情に憑かれていなかった時はこの包み込まれるような心地良さを求め、強く惹かれた。 総て錯覚だったと後になって理解したが、甘美な錯覚であると、今でも認めざるをえない。 こうしている間もアズリの取り巻きは何一つ干渉して来なかった。しばらく、無心に唇を重ねた。 ようやく少し隙間を開けると、まだ大分顔を近付けたまま、アズリはくすりと笑った。 「昔からアナタはどこか空虚な印象があった。その場その場で生きていた感じかしら。生に執着があったとしても、生きる上での選択肢に対しては、無かったのでしょう」 的を射た指摘だ。 「効率がよければ、どんな生き方でもいいと思っている節があった。でも再会したアナタは少し違う。雰囲気そのものは変わらないけれど、潜在的な場所で、執着が芽生えた。それか、長く諦めていた何かにまた手を伸ばそうとしているのかしら」 笑顔で囁いたアズリを、ゲズゥは片眉を吊り上げて見つめ返す。 よく人を観察している女だ、と思った。 ゲズゥ自身ですらほんやりとしか認識できなかった感情を、次々と言い当てている。 |
20.d.
2013 / 01 / 31 ( Thu ) 恐怖の類を感じないゲズゥでも思わず静止してしまうような、悪意の溢れる凄艶な笑みだった。 反射的に警戒してしまうが、悪意が向けられている相手が自分ではないと熟知しているので、すぐに解いた。 「……そう。アナタたちの関係が一言で言い表せないのは、よくわかったわ」 アズリが僅かに肩を引くのを、ゲズゥは見逃さなかった。アズリでさえ反応する程ならば、ミスリアの方はどうだろうか。ゲズゥは少しだけ首を傾け、ミスリアの表情を窺い――眉をひそめた。 彼女はどこか焦点の合わなそうな目で、襲い掛かろうとする連中の方をぼんやり見つめている。ついさっきまで普通に怯えや不安などの感情を表していたのに、今は心ここに非ず、といった風だ。 様子がおかしい――。 ゲズゥが呼びかけようか迷っている内に、エンが呟いた。 「さて、と。どうやって起こすかな。おねだりしたいことは、無くもないんだな」 頭領の傍にしゃがんで、頬を叩いたりしている。 「でもお前、容赦なくやったからなー。簡単には起きないかもなー」 エンがちらりと、こちらに視線を送った。それを機に、ゲズゥは口火を切った。 「方法ならある」 そう言って、ゲズゥは肩に触れたままの小さい手を握った。反応が無いので、次いで名を呼んだ。 「ミスリア」 呼んでからも数秒ほど反応が無かったが、やがて少女は振り返った。 「……はい?」 茶色の瞳が揺れた。 ゲズゥは目配せで、頭領を起こすように促した。察しの良いミスリアのことだ、これまでの会話を耳に入れていたならば、それだけで意図を読み取れるはずだ。 反応速度が普段より遅いのが気になるが、ミスリアが頷いたので、握った手を放してやった。 「イトゥ=エンキさん、私は『聖女』です。その方を、気付かせることはできると思います」 「嬢ちゃんが聖女だって? あー……道理で……。ちょっと待ってくれ」 エンは首をやや後ろへ傾け、思考を巡らせるためか、目を閉じた。 小麦色の肌に、アザみたいに色素の濃い箇所が、薄っすら浮かび上がっている。それらの形状は、いつも露わになっている左頬の模様に酷似していた。 「じゃあ、頼むぜ」 しばらくしてからエンは目を開け、体を傾けてミスリアに細かい指示を耳打ちした。わかりました、とミスリアが返事をし、頭領の真上に手をかざした。 外傷が治る様子が無い。あくまで、意識を取り戻させる程度の治癒を施しているのだろう。 「おはようございます、頭。じゃなくて……オヤジ、かな」 頭領の目が開いたのと同時に、エンがその腹に片足を乗せた。折り曲げられた自らの膝の上に肘を乗せ、微笑んでいる。 「取引しようぜ」 いつの間にかエンの皮膚が所狭しと黒い模様に覆われていた。 感情の起伏に合わせて全身にも模様が浮かび上がるのは、紋様の一族のもう一つの特性だ。 それは美しいのか恐ろしいのか、多分どちらでもあってどちらとも言えない、姿であった。 _______ 頭領が起きた後の怒涛の展開を、ゲズゥはあまり覚えていない。 奴が起き上がり、雄叫びを上げ、それで時間が止まったかのように会場が静まった所まではちゃんと注意していた。 直後、先に硬直が解けた連中はそれでも諦めずに頭領を攻撃しようとしたが、あまりに一方的に襲撃者どもがやられるもので、観察する気も失せたのだった。 「アンタも飲む?」 ふわりと、女の声と、甘酸っぱい香りがした。ゲズゥは洞窟の天井に向けていた視線を、下へ落とした。壁の炎だけが明かりなので少し目を凝らす必要があった。 アズリがグラスを差し出している。香りの発生源はグラスの中のクリーム色の液体らしい。確か、特種な樹液を発酵させて作った酒だ。 グラスの細い足に巻き付いた白い指が、闇の中では妙に艶めかしく見えた。 「まあ、でも、両手が塞がっているものね」 ゲズゥが答えないからか、アズリはひとりでに納得して手を引いた。唇にグラスを引き寄せ、微笑んでいる。 手が塞がっているというのは、先刻気を失ったミスリアを抱えていることを指しているのだろう。 |
20.c.
2013 / 01 / 26 ( Sat ) エンが訝しげに腕を組み、しかし黙して一連の展開を見守っている。 ゲズゥはゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる女を見上げた。 「ねえ、私も絶対、死んだと思ったんだけど。どんな手を使ったのよ?」 顔は笑いの形になっているが、アズリはじっとりと絡みつく、追求する目をしていた。サファイア色の瞳がミスリアに移った時、少女は僅かにひるんだ。 「気にするな」 それはアズリに言っているように聴こえて、その実、ミスリアに向けた言葉だった。 彼女はおそらく聖気を使ったことを気にしているのだろうが、それはゲズゥにとっては些事だった。 これは公平性を重んじる純粋な闘技ではなかったし、誰がどの賭けで大損害していようが、こちらの知ったことではない。無事に生き残って山脈を抜けることが第一の目的で、それに至るまでの過程はどうでもよかった。 その時、言い合いながら会場に降りてきていた数人の人間が、しびれを切らしたようにこちらに向けて走り出していた。ミスリアが不安そうにそれを見つめている。 アズリは唐突にエンの方へ向き直った。困ったわね、と呟いて頬に片手を添えた。 「この事態を招いたのは、アナタでしょ? どうする気」 どんな時も、アズリは急がずに話す。 「この事態ですか」 対するエンは曖昧に笑った。「さあ、どうしましょうね」 客席の至るところで乱闘が勃発していた。そのほとんどは賭け事で揉めているのだろう。 だがこちらに走ってくる人間の目は、もっとぎらぎらと欲や謀に光っていた。 奴らの目的はおそらく――この隙を利用し、敗して倒れた山賊団頭領の首を持ち帰ることだ。 「私たちの取引相手たちをはじめとした外部の人間に文を飛ばして呼び寄せたのは、イトゥ=エンキ、アナタね。こうやって、かき乱す為……あわよくば、ユリャンに巣くうこの山賊団を壊滅させるか、どこかに乗っ取られるか、したいの? それとも、この人を追い込んで、何かをおねだりするのかしら」 この人、と発音した時にだけ、地面に仰向けに横たわる巨漢に視線を落とした。アズリは悪戯っぽく笑って、指で髪を梳いた。 ――なるほど、あんなに客が多い理由はそれだったのか。 ゲズゥは心の内で納得した。 「気付いていたなら止めれば良かったでしょうに」 エンが肩をすくめた。 「そうね。正直言うとゲズゥが勝つとは思わなかったから……」 前触れなく、矢が飛んできた。 元々何(または誰)が狙いだったのか定かではないが、軌道を辿り切れば矢はアズリの太腿当たりに止まるはずだ。ミスリアが小さく息を呑むのが聴こえた。 「姐さん!」 横から誰かが飛んできて、円形の盾を振りかざした。矢は軌道を逸れ、地面に刺さる。その勢いで砂利が飛ぶ。 「あら、ありがとう」 「いえ。アニキも危ないっす、ココはおれらが!」 わらわらと現れた団員が、襲撃者の前に立ちはだかる。 「おー、悪いな」 エンが片手をポケットに突っこんだまま、軽やかな足取りで下がった。 「貴女が挙げた理由も全部あながち外れちゃいませんが、本当はもう一つあります」 「ふぅん? 何かしら」 こともなげにエンとアズリの会話が再開した。 エンが言うもう一つの理由に心当たりは無いが、この事態がゲズゥらに取って都合の良い結果を導くであろうと、何故か予感していた。が、動機を占める大部分は個人的な感情や理由だろうと、それもなんとなく察しがついていた。 「こんなカンジで、頭が居ないと絶対収拾つかないような状況を作ってさ。オレは、チャンスに乗じてうっかり自分が頭を殺しちまわないように、わざとこの事態を招いたのかもしれない」 そう言って、「紋様の一族」の生き残りの男は、鮮やかに笑った。 |
そわそわそわ
2013 / 01 / 24 ( Thu ) そういえばおばま大統領これからの四年もがんばってください。
更新遅れててすみません~
気温が低すぎるとか風邪ひきそうだとかリアルがごちゃごちゃしてるとか筆のノリにムラがあったりと原因は色々ありますが、忘れているわけではないのです。
続きは21の途中ぐらいまで練ってありますのよ。
が、がんばる!
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20.b.
2013 / 01 / 19 ( Sat ) 自分が組み敷いている巨漢がいつ目覚めても問題ないように、ゲズゥはずっと身構えていた。 だが、砂利に血だまりが広がるだけで、奴はついに起き上がらなかった。 「……にじゅうろく! 勝者決定――」 その後にエンが何かを言ったとしても、それは誰の耳にも届かなかっただろう。 闘技場全体が熱気を帯び、ブーイングと歓声が嵐のように降ってきた。どっちの声がより多いのかは、正直わからない。 ゲズゥはとりあえず馬乗りの姿勢を解いて地面に座した。視線を落とせば、腹からの出血が増えていた。動いたのだから当然だ。シャツの袖を破いて、斧が深く刺さっている患部回りを押さえるように巻いた。 そこへ、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべるエンがやってきた。その顔は一瞬で険しくなった。 「傷、なかなかヤバそうだな。医療に詳しい奴呼んでやろうか? 来客の中にも何人か居るだろうし」 エンは自分の背後のスタンドの方を親指で指した。 「いや、いい」 慣れない足取りで手すりを飛び越える小さな人影を目の端で捉え、ゲズゥは頭を振った。「それには及ばない」 「そうか? 何か当てがあるんか」 そんなようなものだ、とゲズゥは心の中で答えた。人影が何とか無事に着地し、こちらへ向かって走って来るのが見えた。 ――そうだ、ミスリアの身分が聖女であることをこの男に明かすべきか、まだ隠して置くべきか……。 ゲズゥは無意識に頭を押さえた。どうにも考えがまとまらない。出血が多すぎたのだ、まるで脳味噌が溶けているみたいな感覚だ。実際に頭を殴られたわけだが、多分、倒れた時にもう一度打っている。 「おい、ホントに大丈夫か?」 「……お前は自分たちの頭領の心配はしないのか」 「別にこんくらいじゃあ死なねーだろ。知ってたか? 頭はもう十年以上負け知らずだったんだよ。お前やっぱスゲーな」 けろっと答え、また、エンはどうしようもなく嬉しそうな表情に戻りかけている。子供っぽい無邪気な笑顔の裏に、個人的な恨みのようなものが見え隠れした。 「ネックレスか。開始時に身に着けていたものなら何でも武器にしていい、ってルールにぴったりな決着だったな」 エンは頭を少し傾け、頭領の目に刺さっている小物に視線をやった。十字に似た形の銀細工のペンダントと、それについている細いチェーンを。 その時、何か返事をしようと口を開いたゲズゥの顔に、温かいものが衝突してきた。次いで視界の右半分が緑色になり、残った視界の中で、エンが目を丸くしたのが見えた。 何が起きたのかわからずに、呆気に取られた。 「よ、かった……!」 息も切れ切れに、少女の声と熱い吐息が頭に降りかかった。 驚きで忘れかけていた痛みが戻ると、ゲズゥは自分がミスリアに抱き着かれたのだと理解した。 「ひっく……死んだ、かと……思っ……」 加えて、しゃくり上げるような声が聴こえる気がする。 「…………確かに、俺も死んだとは思ったが」 どこか気の抜けた言葉が、口をついて転げ出た。 そこでミスリアは手を放し、半歩下がった。ゲズゥは新たな驚きを覚えることになった。 少女のくしゃくしゃに歪んだ顔に幾筋もの涙の跡があった。多分、鼻水の跡も。 しかし不思議とそれは醜く感じられず、むしろ美しい――? というより、嬉しい? ような、奇妙な感想が沸いた。 そういえば以前、攫われた聖人を助けに行った時も、ミスリアは無事に再会できたあの男に泣いて抱き着いていたが、まさかそれが自分にも向けられる日が来るとは思わなかった。 そうだ、誰かが心配して涙してくれることが、嬉しい。 何年も前に置き忘れていた感情の欠片を、ふいに取り戻した気がした。 「……助かった。礼を言う」 この少女には既に幾度となく救われているため、どこか今更な気もしたが、ゲズゥは感謝の言葉を述べた。 ミスリアは頷いてゲズゥの肩にそっと片手を置いた。温かい、と思った次の瞬間、体中を駆け巡る感覚に気付いた。 誰にもわからないように聖気を流し込まれている。晴天であるのも好都合で、太陽光に紛れてミスリアの発する金色の光は目立たなかった。 ついでに、ゲズゥは腹に刺さったままの異物を慎重に抜いた。 |
着せ替えミスリア01
2013 / 01 / 16 ( Wed ) ミスリアのもっとファンタジーっぽい服描いてあげたいなー
しかしどうすればー と悶々していたら、着せ替えしようか!ってなりました。 こちらが海老に提供されました線画です。 勿論、お客様方もいつでも参加してくださいね ♪ 今回は平民が着そうな、シンプルかつ可愛いデザインを選びました(つもり)(別にファッション通じゃないのであくまで素人意見)。 ちょうど今のシーンもこんな感じの格好だと思います。作中はもうちょっと袖がファンシーかもしれんがw |
20.a.
2013 / 01 / 15 ( Tue )
まだ三人だった頃の旅の道中、時たま休憩がてらに、ミスリア・ノイラートは友人であるカイルサィート・デューセの話を聞いた。
その多くは教団の他の同期の近況など他愛も無い話だったが、聖人・聖女者同士、専門的な会話を交わすこともあった。大抵そんな時はミスリアの護衛であるゲズゥ・スディルはいつも不参加か、席を外している。
「――と、このように、教団に教わった聖気の扱い方を応用すればこんな事もできると思う。理論上はね」
二人はそこら辺に転がっていた丸太に腰掛けている。カイルが白い紙を一枚、ミスリアに手渡した。いつもカイルは紙に図式を書くなどして、こと細かく説明してくれた。
木々の間から差し込む陽の光が照らす紙には、彼が組み上げた三つの応用方法が描かれていた。
「確かにできると思います」
ミスリアは図式を凝視しながら、心底感心していた。学んだ術を元に新しい力の使い方を生み出すなんて、誰にでもできることではない。
「教団の人間も、これくらい考え付いたことはあるはずだけどね」
「そうなんですか? ではどうして、修行で教えてくれないんでしょうか」
意外に思って、ミスリアは問い質した。
「あまり実用的じゃないからだよ。例えば無機物に聖気を纏わせるには、身体に直接触れている物でなければならないって教えられたでしょ? 理論上は離れた物でも可能だけれど、それを実現できる人間は数少ない」
カイルが三つ目の応用方法を例に挙げて、即答する。
(でもこの前、村の跡地で……)
以前、魔物に捕らわれたゲズゥを助ける為に、ミスリアは遠くから剣に聖気を纏わせたことがあった。いつもより精神への負担は重く、成功するまでに密かに二、三度はやり直した。でも、確かに実現できた。
「君は高い集中力とイメージ力と、生まれ持った素質を兼ね備えてるから、どれも実現できるよ。あまり勧められないけどね。高度な術は反動も大きい……意識を保てなくなるほど憔悴したら、覚めない眠りにつくかもしれない」
神妙な面持ちでカイルがそう続けたので、ミスリアも頷きを返した。
「難しい術は使わずに済むのが一番です。きっと、この応用方法も理論だけに終わります、よね?」
「さあ……。君らの旅はまだこれからだから、どこか思わぬ所で役に立つかもね。余程の事態になればだけど」
カイルはいつもの爽やかな笑顔で、そう言った。
_______
目が覚めた瞬間、全身のあらゆる痛みが洪水のように脳を満たした。
動かなければならないのに、また意識を手放しそうになる。ゲズゥは反射的に目を瞑った。浸っている場合では無いが、「聖気」の余韻がまだ残っている。
おかげで、斧を生やしたままの腹はともかく、破裂した内臓がいくらか修復されていた。
「にじゅうにー」
エンの数える声がまだ続いている。敗北が決定するまで、残り四秒。
問題は、半端に起きようとしたら頭領に気付かれることだ。
今目を開いた一瞬で見た限り、奴の視線はこちらに向いていなかった。一気に起き上がれば、不意打ちできる。
何か使える武器が手近にあれば、と考えを巡らせる。
「にじゅうさーん」
流石に斧を抜くのは気が引けた。乱暴に引き抜けば傷口が開くし、かといって長く放置しても悪化するだろう。
速やかに勝負を決めて、一刻も早くちゃんとした手当をしなければならない。
ふと、思い出した。
――もしお邪魔でなければ、これを身に着けて行ってください。
そういえば今朝、ミスリアに渡された物があった。
闘いの途中で無くなっていなければまだあるはずだ。ゲズゥは首辺りをまさぐった。それは、期待通りにまだ首回りにあった。
「にじゅうよんー」
もう猶予は無い。
目を見開き、飛び上がり、握り締めた拳を振り上げる――と、滑らかな行動の連鎖を紡いだ。
客席を向いていた頭領が気配に気付き、目を丸くして振り向いた。
その左目に、ゲズゥは拳の中の物を刺した。ずぷ、と濡れた音がした。
「ぐああああああああああああ!」
苦痛に叫ぶ頭領を、ゲズゥは飛び掛った勢いで転倒させ、その上にのしかかった。
奴の目元から手を放し、両手で頭を挟むと、それを持ち上げては地に叩き付けた。
抵抗がなくなるまで――何度も、何度も、何度も。
やがて会場が静まり返る。
ひゅう、と誰かが口笛を吹いた。
顔を上げたら、ポケットに片手を突っ込んだ、物凄く楽しそうな顔のエンがいた。
そうしてカウントが始まった。
――今までの人生を顧みても、これほど長く感じた二十六秒は他に無い。
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19 あとがき
2013 / 01 / 12 ( Sat ) 試行錯誤の結果、19は一度もミスリア視点が出なかったですねこんばんわ。
ちょっと影薄くなってますがノープロブレム。環境のせいです。教会につけば今度はげっさんが浮きまくるだろう……(でも存在感が薄くなることはない) えーと、いつもながら続きは19読み終わった人向けー。 |
19.f.
2013 / 01 / 12 ( Sat )
**注意喚起**
ここから勝負の決着までは流血・暴力描写が次々出ますので、苦手な方はご注意ください。 ゲズゥは大剣を横薙ぎに振るった。勿論止められたが、急な展開とその勢いに捕らえられて、頭領の斧を持つ手がぶれた。チャンスだ。
続けざまに、回し蹴りを入れる。奴の横腹の、岩のような腹筋に当たった。
皮肉にも考えるのを辞めた途端に閃いたのだ。緩慢なペースに慣れさせて油断を誘う、という方法を。
存外うまく行った。しかし、おそらくは大したダメージにならないだろう。むしろこっちの脛が痛い。
ゲズゥは一回転して更に斬りつけた。
首筋を狙ったのだが、頭領は腕を上げて阻んだ。斬られた前腕からぶわっと血飛沫が飛び、おおっ、と観客がどよめく。
急に奴の顔が近付いてきた。
飛び退こうとしたが、がっしり肩を掴まれて逃げられない。なんて力だ――
額にとんでもない衝撃があり、反動で後ろへスナップした首が鋭く痛んだ。
視界が揺らぎ、耳が何かおかしな音を訴えている。思わず立ち止まって頭を抱えたい衝動を抑え、ゲズゥは剣の柄で奴の胸を突いた。呻き声が聴こえたが、これも大したダメージにならなかったはずだ。
何とか離れねば、そう思って跳んだ瞬間、棒状の物が頭部にぶつかってきた。戦斧の柄だ。
とにかく跳んで後退した。何とか息を整える。
今までの過程の何処かでやられたのか、生温かいモノが鼻腔から滴っていた。髪もぬるっと湿っている。尋常ならぬ力で殴られたのだから当然だろう。
拭っている余裕は無い。今にも遠のきそうな意識を奮い立て、ゲズゥはまた攻撃に出た。
あろうことか、頭領もその時、前に出た。
――まずい。
瞬くような焦燥が過ぎった。間合いが外れるからではない。
奴の手に、短い方の斧が握られていた。いつの間にか長い戦斧を捨てたのだ。確か、こっちは鋭利だ。
ゲズゥは振り上げかけていた腕を引き、ちょうど大剣の鍔(つば)近くの鋸歯(きょし)で、斧を受け流した。じゃりりりり、と嫌な音がした。次の瞬間、剣を振り下ろした。
頭領が仰け反ったためいくらか勢いはそがれるも、顎に向けて奴の頬の肉がぱかっと開いた。
大したこと無いように引きつった笑みを浮かべ、頭領は斧を振るった。咄嗟にゲズゥは下がった。
それにしてもこの男は、一体どうすれば怯むのだろうか。
痛みを意識から切り離す能力に関してはゲズゥも優れているが、目の前の男のそれは異常とすら呼べる。
既にゲズゥは肩で息をしていた。だが立ち止まっていられない。
反射神経に頼って、次々と繰り出される斧の攻撃をかわし続けた。
奴が特に大振りした時を見極め、ゲズゥは剣を放して宙を跳んだ。敵の背後に着地すれば狙い打ちされる可能性が高いが、今なら――。
案の定、巨漢はすぐには体の向きを変えられない。その隙に、ゲズゥは頭領の岩のような肉体を掴んで投げ飛ばした。
抵抗されたのと重量がありすぎたのが原因で、奴はそれほど遠くへ飛ばなかった。三ヤード先でうつ伏せになっている。
それでも十分、体勢を立て直す時間ができた――と思ったのだが、体に力が入らない。視界が霞んでいる。ゲズゥは膝に手を付いた。
目の焦点が合った僅か数秒の内に彼はそれを見た。うつ伏せていたはずの男が顔を上げ、何か動いているのを。
見ただけでどうすることもできなかった。
ごっ、みたいな鈍い音と共に腹部に激痛が走った。
誰かの甲高い悲鳴が耳をついた。
ますます視界が揺らいだが、何が起きたのかは、見なくてもわかった。
――あの男、あんな姿勢から投擲したのか。
こうなっては感嘆するほかない。これほどの人間に出逢うことなど、人生でそうそう無いのではないか。
熱が内に広がるような感覚がして、ああ、これは打ち所が悪い、致命傷だな、と直感的に察知した。
察知したら、一気に視界が黒く染まった。
黒い海の中を急速に沈んでいるような感覚だった。
頭上の水面の方からはエンの数える声がするが、みるみる内に遠ざかっていく。試しに泳ごうとしてみたが、そもそも手足を持たない空間なので無意味だった。
底の方からは……呻き声? 泣き声? のようなものがした。
ゲズゥは海底の方を見やって――四方八方が真っ暗で何も見えないため、そして身体が具現化されていないため、実際に下を向いていたのかは定かではない――相変わらず暗闇しか見えないが、声の正体に気付いた。どうしてそれに気付いたかはこの際どうでもいい、ただ、根拠無く確信が持てた。
海の底に居るのは、自分が今までの人生で害してきた人間達の怨念だ。或いは魂そのもの。
なんとなく、あの中には生きた人間のものと死んだ人間のものが混同しているのだと思った。
このまま沈み切れば、間違いなく絡め取られる。そうしてきっと、自分は魔物に転じるだろう。
前にミスリアに聞かされた話が本当ならそうなるわけだが、裏付けなど無くても、何故だかこれも確信できた。
今日までに死にそうな目に遭ったのは数え切れない程にあったが、こんな感覚は初めてだった。
恐怖は感じないが、処刑される寸前のあの時に比べて、いくらか気になることがあった。例えば、自分の死を悲しんでくれる人間が居るかどうか。
――アレは、気付きはするだろうが、泣いてはくれないだろう。アズリは……期待しても無駄。エン辺りは悼んでくれるだろうか、それにオルトも。ミスリアは?
ミスリアは――そうだ、あの人の好い娘のことだ、この場でゲズゥが魔物に転じたなら、きっと浄化してくれる。魔物になって味わう苦しみもそれなら長引かずに済む。
更に運が良ければ、先に亡くなった同胞の元に還れるかもしれない。「神々へと続く道」、だったか? そんなものがあるなら、その真偽を確かめる機会ともいえよう。
母の「長生きしなさい」という言葉を守れないのは残念に思う。従兄との約束とて、結局果たせていない。でももう、実現不能だから諦めるしかない。
まどろみながら、ゲズゥの意識はどんどん沈んでいく。底から伸びる、恨めしそうな声が大分近くなっている。
魔物として存在するのはどんな気分だろうか、知能が無くて誰とも通じ合えないというのは――いよいよそんな事を考え始めていた。
刹那、水面の方で何かが光った。
見間違いかと思って注意したら、今度は力強く、光が海に潜り込んできた。
自分は深く沈んだはずなのに、光は触れられそうなぐらいに、まるで追い付こうとしているように、迫る。
淡い金色の、温かい帯。母の無償の愛のような、大らかに包み込むような温もりがあった。
――知っている。
普通の光などにこんな性質は伴わない。何故、どうやって、どうすれば、と疑問が一斉に沸いたが、捨て置いた。
それ以上考える必要は無かった。
ゲズゥは光の帯に縋るように、意識を集中させた。
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19.e.
2013 / 01 / 10 ( Thu )
およそ人間とは思えないスピードで、ゲズゥがあの人に斬りかかっている。
応酬が速すぎて肉眼で捉えるのがもう無理だった。観衆のほとんどは何が起こっているのかわからないながらもひたすら拳を振り上げて叫んでいる。
(そうこなくちゃね)
今日のヴィーナキラトラは見渡しが良くて高いスタンド席よりも、より緊張感の伝わる最前列の席を選んでいた。
目下には、腕を組んで戦闘を見守っている、長身の男の背中があった。
「ねえ、イトゥ=エンキ」
ヴィーナは手すりに両肘を乗せ、重ね合わせた手の上に顎を乗せた。客が会場に飛び出さないよう、そして選手が吹き飛ばされても簡単には観客に当たらないように立てられた壁と手すりだ。
「何でしょう姐さん」
彼は振り向かずに返事した。
「アンタは、どっちが勝つと思う?」
「難問ですね」
「私には、ゲズゥが慎重になりすぎてるように見えるわ。少なくともさっきまでは」
「あー、だってアイツ鎧とか着けてないし。慎重にもなりますよって。下手したら一撃入喰らっただけで終わりますから」
「それはそうね」
イトゥ=エンキの言葉で腑に落ちた。昔からゲズゥは、動きが鈍る、という理由で絶対に防具の類を着けたがらなかった。
「今は頭の方が押されてます。時々受け切れなくて掠ってるけど、胴体をチェインメイルで覆ってるんでまだ斬られてはいませんね」
鉄同士がぶつかり合う音が頻繁に聴こえる。イトゥ=エンキにはあの応酬が視認できているということになる。
「やっぱ頭の方が何枚か上手に見えるなー。もうゲズゥは岩と戦ってる気分になってんじゃないかな。オレにはその気持ちがよーくわかるぜ。年季が違うんだよ。そりゃー底力だけなら大差ないだろうけど」
イトゥ=エンキが独り言のように漏らした。
「こういう、戦況を操りにくい一対一の決闘でなければアイツももっと抗えたかなー」
「でもこういう公の場で、公平そうな勝負でなければあの人は条件を呑まなかったわ。アンタの目論見はどっちかといえば成功した方だと思うわよ?」
ヴィーナがそう指摘すると、イトゥ=エンキは首を少し仰け反らせた。
「そう思います?」
紫水晶色の瞳がどんな感情を隠しているのか、正直読めない。
(食えない男……カマかけても簡単には乗らないのね)
やがてヴィーナはにっこり笑って話題を変えた。
「勝ったらきっとあの人はゲズゥを遠くへ売り飛ばすか、殺すわ。近くに置こうとは思わないはずよ」
「でしょうね」
再び会場を見つめるイトゥ=エンキは、抑揚のない声で答えた。頑として己の考えをあらわにしない男だ。手強い。
しばし思案してから、右隣に座る少女に向かって、ヴィーナは問いかけた。
「そういうわけだからちゃんとお別れした? ミスリアちゃん」
今日のミスリアは薄緑色の単調なワンピースに身を包み、栗色のウェーブがかった髪を下ろしている。化粧も一切していない。この格好に特別に可愛らしいポイントがあるとすれば、肩の袖口の部分にフリルが付いているぐらいだ。
今朝ヴィーナがどんなにおめかしを勧めても一向に乗ってくれなかったのが、少しつまらない。
ミスリアはこちらを見上げはしたが、何も言わない。むしろ戦闘が開始してから今までにも、彼女は一言も発していない。
昨夜のような笑顔の仮面を被るのかと思っていたが、その予想は外れた。
(きっと、心配で胸が押し潰れそうになっているのね)
と、勝手にヴィーナは想像している。何せミスリアは、ずっと唇を真一文字に引き結んで真剣な目で観戦していたのだから、そうに違いない。
(かわいいわ)
茶色の大きな瞳が、ただ無言でじっとこちらを見上げてくるのが段々可笑しくなってきた。
「そういう反応ってゲズゥっぽいわね。一緒に居すぎてうつったんじゃない?」
無言で見つめ返してくる辺りがそっくりである。
「……はい?」
ようやく桃色の小さな唇が開いたかと思えば、疑問符だった。
「なんでもないわ。ねえ、不安でしょう。何もできない自分が悔しい?」
ふと気が付けば、そんな言葉を囁いていた。
「それ、は…………」
消え入りそうな声が返ってきた。
「私は、受け入れることにしているわ。この世の中には自分にどうにか変えられる状況と、そうでない状況がある。自分が本当に無力な時は、受け入れるのよ。でもそんな状態はいつまでも続かないし、自分に変えられなくても他に変えられる人間が居るかもしれない。見極めればいいの」
――己の動くべき時と、取るべき行動を。
「……強いんですね。そういう考え方ができるなんて」
ミスリアは感心したように、少しだけ笑った。
「ありがとう。ミスリアちゃんが何を抱えているのか知らないけど、頑張ってね。私、頑張る女の子は凄く好きなのよ――」
これは本心からだった。ヴィーナが己の信念を誰かに語るなど滅多に無いことだが、今はそんな気分だった。
――ギィイイイン!
一際大きな音が響いて、二人の会話は中断された。視線を前へ戻すと、ちょうど、一合打ち合った直後の二人は距離を離していた。すぐにまた、打ち合いは再開した。
武器がかち合う間隔は次第と長くなり、二人の動きがまた目に見えるスピードに落ちていた。
ふいに、ゲズゥが剣を逆手に持ち替え――
(何か仕掛ける気ね)
――再び、目に留まらないスピードで彼は動いた。
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19.d.
2013 / 01 / 09 ( Wed )
開始の合図が過ぎても数瞬の間、何の動きもなかった。ゲズゥは剣の柄を掴むだけで、自分からは仕掛けなかった。
頭領の真っ黒の両目を見ればわかる。表面では野獣に見えても、知能を内包した人間だ。
「かしらぁああ! 行けー! そんな奴ぶっ潰せー!」
「フルボッコ! フルボッコ!」
「おい若造、おれはお前に賭けてんだよ、一泡吹かせてやれ!」
観客は思い思いに声援をあげている。その間、ゲズゥは視線を逸らさなかった。
奴は大きな口を広げ、黄ばんだ歯が剥き出しになるほどに笑い――次の瞬間にはこちらに向かって突進していた。エンの言った通り、予想を超えるスピードで。
対するゲズゥは右から緩やかな弧を描くように走り出した。回り込めれば儲けものだが、そう簡単には行かない。
巨体を楽々と駆使して頭領は体の向きを調整し、長い戦斧を薙いだ。
ゲズゥは横に跳んでその一撃をかわした。
今度は正面からの強力な一突き。これを、ゲズゥは剣で横へ払った。
奴の右脇が空く――。
蹴りを入れようと一瞬脳裏を過ぎったが、それは叶わなかった。頭領は斧を構えたまま素早く両肘を引き、脇をしめたのである。かと思えば足を踏み出し、また斧を横に薙いだ。
受けずにゲズゥは後退した。あの攻撃を何度も受けていてはこっちの腕がもたない。必要でなければ避けるべきだ。
誰かの、逃げてばっかりじゃつまんないぞー、みたいな声が聴こえたかもしれないが、どうでもいい。
やはり奴は己の弱点を熟知している。隙を狙って打ち込むことは困難。
もう一つだけ試したいことがあるので、ゲズゥは攻めに入った。
こちらの速さにさほど押されずに、頭領は最小限の動きを使って一撃ずつ受け止めた。余裕を持っているからか、無駄が無い。ゆえに速さではゲズゥに多少劣っていても対応し切れている。
ゲズゥは攻撃を止め、一歩引いた。これは誘いだ。
「そういえばてめぇ、ヴィーナに手ェ出したらしいじゃねーか」
笑顔のままだが声色から怒りが滲み出ていた。
誘われているとわかっているのかいないのか、頭領はこちらが待ち望んだ正面の一突きを再び繰り出した。
奴の右腕が真っ直ぐ伸び切るより早く、ゲズゥは宙を跳んでいた。
剣を振り上げた。左肩めがけて振り下ろす。
が、またしてもそれは叶わなかった。上体を捻り、頭領は斧を斜め左上へ振り上げて大剣を打った。その威力に巻き込まれ、ゲズゥも飛ばされる。
両足で着地はできたものの、勢いが余っている。ゲズゥは剣を地に立てて体勢を保った。ギリリ、と鉄が砂利を掻く音が響く。
誘いを誘いで返された。
観客が嬉しそうに騒いでいる。
「人様の女に、いい度胸だなぁ」
歓声のためか、この会話はゲズゥにしか聴こえていないらしい。会話と言っても自分は答えないので一方通行ではあるが。
――誰に聞いた?
ついでに思考を巡らせてみる。知っているのは当事者のアズリと、偶然居合わせて状況を察したエン。ミスリアはそこまで考えが及ばなかっただろう。後の二人が頭領に話すことは考えにくいので、おそらく、教えたのはアズリ本人。
昔から、事態をかき乱してややこしくするのが好きな女だった。思い出して、ゲズゥは納得した。
そんなことより。
この男に隙が全く無いと確認できた以上、早くも次の手を考えねばなるまい。いっそ怒りで我を忘れてくれればいいのに、敵はそんなに容易ではなかった。
――走り回ったりして持久戦に持ち込み、疲れさせて隙を作る?
戦闘種族なら普通より持久力はあるだろうけど、こちらの血の濃さが本当に上ならば試す価値のある作戦――とはいえ血筋など、そんな不明瞭なものに頼るのは得策ではない。最悪、自分が疲れるだけだ。
――第三者を利用する?
これも頼れない手段。唯一手を貸してくれそうなエンは、審判として会場の端に陣取っていて動かない。そもそもこうも大勢の目に晒されていては誰の手を借りることも難しい。
――左目を使うか?
普段なら絶対に使わない手を思い、すぐに断念した。
リスクばかり高くて、事態が好転する可能性が低い。
こちらが距離を取り、考えあぐねている間にも頭領は自信満々に近づいてくる。
考えても答が出ないならば、仕方ない。
すうっ、と静かに息を吐いた。
ゲズゥは全身の筋肉に意識を集中し、強張らせるのとリラックスさせるのとの中間程度に、緊張感を満たした。大剣の刃が上を向くように両手で構え、踏み込む。
そうして己の直感と闘争本能と反射神経に、総て身を委ねた。
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言葉の間違いについてお詫び
2013 / 01 / 07 ( Mon ) 18で書いた「バルコニー」ですが。
多分私の頭の中でBleacher と Balconyを混乱したのだと思います。 そこはバルコニーでなくスタンドと書くべきでした。 バルコニーは壁の外側などに引っ付いているスペースなんですね。 野外のコロッセオみたいなのにどうやってバルコニーを付けるんだって感じですね。 気にしてた人は少ないと思いますが万一読んでて「なんだろうこれ」な気分になってたらすみません! 手の空いた時に直します! |
19.c.
2013 / 01 / 07 ( Mon ) ふいに温かい柔らかさに包まれた。 どうやら後ろから抱きつかれたらしい。 「じゃあね」 数秒後には甘い残り香だけを残して、温もりは離れていた。 「ああ」 これが今生の別れになるかもしれないが、特に悲しいとも寂しいとも思わなかった。 ゲズゥは父親の形見である湾曲した大剣を左脇に抱えなおして歩き出した。革の鞘を部分的に嵌めている。その内に父が使っていたような、全体を覆う鞘を用意した方がいいだろう。 通路を抜けた途端、目を背けた。そうしなければならないほどに外は明るんでいる。予想通りに空は晴れていた。 円状の観覧席は、人でひしめき合っている。山の上によくもこれだけ大きな建物を建てられたものだ、とも思うが、それよりもこれだけの人が一体どこから現れたのが謎だった。おそらくは山賊団の団員以外の知り合いも数時間の間に呼ばれたのだろう。 ――どいつもこいつも暇なのか? そう考えかけて、闘技場の中心にこちらに手招きするエンの姿を認めた。 「よっ。こっちこっち」 エンは麻ズボンと白いシャツの上に、上等そうな青みがかった黒のベストを着ていた。飄々と笑いつつ普段より僅かに気が引き締まったような姿勢を見せ、黒髪を頭の後ろでくくっている。腰回りに太い鎖がかかっているのは先刻と同じである。 「揃ったことだし、始めようぜ」 彼がそう言った途端、雄叫びのようなものが闘技場に響き渡った。 その音の波に打たれた観衆は直ちに静まり返り、至近距離でそれを聴いたゲズゥは無意識に半歩さがった。更に至近距離で聴いたであろうエンは、目を細めるだけで笑みを崩さない。 エンの背後に仁王立ちで構えていた大男が、閉じた口の端を吊り上げた。 「楽しみに待っていたぞ、ゲズゥ・スディル」 がはは、と大笑いしながら頭領は前へ出た。 改めて見上げると随分と独特な顔立ちだ。大きな鼻と耳と口に、主張の強い眉骨。世間がこういう顔をどう評するかはよくわからないが、肉食獣を連想させる、野性的で強そうな雰囲気を醸し出しているのは確かだった。 「そんじゃあルール説明しますよー」 都合よく訪れた静寂に乗じて、エンが両手を広げて喋り出した。 「時間は無制限、使用可能な武器は開始時に身に付けてたモノのみ。勿論、身に付けているモノなら靴でも服でもアクセサリーでも何でも使ってよし。ここまではいつもと同じな」 一拍置いて、彼はまた大きく息を吸って話を続けた。段々と口調が砕けてきている。 「ただし、勝敗の決まり方。いつもだと敗北の条件は勝者または観衆に任せてるわけで、気絶でも口での『参った』でも相手を殺してもいいけど、今日は事情が絡んでっからオレが審判だ。よって、気絶して二十六秒以内に起き上がらなかった方を負けとする!」 「二十六? どうせなら三十でいいだろ?」 観覧席の誰かが不思議そうに問う。 「何でそんな半端な数字かってーとオレの歳の数だからだ。そんだけ」 エンがあっけらかんと返事をすると、会場中に笑いが広がった。 「両者から何か質問は?」 「ねぇよ。さっさとやり合わせろ、イトゥ=エンキ」 「無い」 満足そうに顎を引いてから、エンは後ろへ数歩下がった。壁まで下がったところで、左右へそれぞれ人差し指を指した。 「先ずは、十ヤード以上離れてもらう」 ゲズゥは言われた通りにした。頭領もズシズシと砂利を踏みしめながら離れていく。 「さてココに木の実がある。皆おなじみの緑色の酸っぱい奴」 エンは指の間に、拳よりも小さい緑の球体を持っていた。 「オレがこれを上へ投げる。木の実が地面に落ちたら、開始だ」 わかりやすい合図だ。音が小さいのが難点だが、会場には当然のように静寂が落ちたので問題ない。 ゲズゥは大剣を包む革の鞘の留め金を外し、鞘のパーツを遠くへ投げた。 どんな武器も身に付くとはよく言ったもので、それは裏を返せば一つの武器を集中的に極めていないとも言う。旅の途中で手に入ったこの大剣は使い慣れただけで極めてなどいない。 ゲズゥは素手での肉弾戦が最も得意だったが、今日の相手に、素手では分が悪すぎた。 勝算があるとすれば、あの巨漢から戦斧を離すしかない。 「用意はいいかー」 エンは肘を曲げた腕を下ろしては上へ上げた。 鮮やかな緑色の木の実が宙に放たれる。 ゲズゥは己の敵手へと視線を降り戻した。 頭領の放つ殺気に当てられないように、心を鎮める。これが森の中で遭遇した野獣なら、選択肢はたった二つ――完全に静止してやり過ごすか、一目散に逃げるか。決して戦おうなどとは考えない。 しかしここは森の中ではなく、相手も野獣ではなく人間だ。 ――ボトッ。 待っていた音が、右横からハッキリと聴こえた。 |
気になるキャラあんけは今月末までで
2013 / 01 / 05 ( Sat ) ――閉じることにしまーす(・∀・)
色々と(?)参考になりました。 とりあえず主人公zが普通に愛されていてよかったよかった。 余談ですが今後は伊藤さんことイトゥ=エンキのバックストーリーが出てくる予定。この子はくだけた喋り方が扱いやすく楽しいわー。 |