57.c.
2016 / 05 / 21 ( Sat ) 目を開けると、悲しげに歪んだ聖女ミスリアの顔が見えた。 「会う、と言うのは…………いいえ。わかりました、右を行きましょう」外套を翻し、彼女は踵を返した。これ以上どうこう言うよりも行動をすることを優先したのだろう。青年たちは異論を唱えなかった。 一行は組み合わせを替えて馬に乗り直す。体重のバランス、それによる馬の最高速度を考慮してのことだ。エザレイはちゃんと鞍の上で座す形になり、残りは男女二組となって騎乗した。 だが、進行は二十分後にまた停止することになった。その頃には降雨の勢いも収まりつつあったが、新たな障害物が立ち塞がったのである。 行く手を阻む、うねっては重なる細々とした影。記憶に沿った姿を見渡し、エザレイはぼそりと呟いた。 「来たな、藪の迷路」 最も身長の高い箇所では、八フィート(約2.4m)をゆうに超えるだろう。それは視界一杯に広がり、しかもみっしりと詰まっていて、馬の体躯ではとてもではないが通れない。 「『迷路』だったら、頑張ればいつかは出口に辿り着けるのかな」 「ああ、運が良ければ一時間以内には通り抜けられるだろ」 かつての経験ではそうだった。 銀髪の青年はその答えに不満があったのか、馬から飛び降りて、藪に顔を近付けた。 「めんどくさいなあ。兄さん、こう、剣でズバッとなんとかできない?」 話を振られた黒髪の兄の方も、地上に降りて藪を確かめる。 「幅」 しばらくして、この質問が自分に向けられていたのだと気付いた。あまりに端的な言葉であったため、質問だとはすぐにわからなかったのである。 「真っ直ぐ突っ切れるなら、二マイルと無いはずだ」 曖昧ばかりな記憶の中でも割と的確と引き出せる情報があった。どうやら、かつての自分は空間認識能力に長けていたようだ。その一方でカタリアは極度の方向音痴だったな、と一人で思い出し笑いをしそうになる。 「……かかる時間と労力で言えば、迷路の道を使うのと大差なさそうだ」 黒髪の青年はそのような結論を出した。 「本当に道があるならねー。ま、どうしても行き詰まった時はザックリと道作ればいいか。ところでオニーサン、君はこの迷路を通ったことあるの」 銀髪がこちらを振り返って訊ねる。エザレイは返事に躊躇した。是か非かしか選択肢の無い質問に、何故かうまく答えられない。 「あ――……る、けど……ない……」 いけない。焦ってはいけない。馬の背から降りて、息を整える。足首の枷は外してもらった。 (そういえばこの藪、俺の記憶と微妙に違う) もう一度よく見渡した。匂いや音からは何も感じない。主に見た目が――後ろを振り返り、これまで通ってきた景色を確認する――相違しているのだ。数年経ったのだから植物が成長しているのは当然だろうが、それが原因ではない。 枝が伸びる方向が渦巻いて見える。 ふと記憶の糸が引っ張られる感覚があった。 「思い出した。俺はこの藪の迷路を通ったことはあったけど、こっちから聖地に行ったんじゃなくて、聖地からこっち側に戻る時に通った」 「どういうこと? 行きの時には無かったのに帰りにはあったとでも言うの」 鋭い。流石に銀髪は察しが良かった。 「その通りだ。これは、聖地が穢された後に発生した、怪異みたいなもんだ」 「怪異ですか。でも何か……微かな気配が……」 小さな聖女が、黒髪の護衛の手を借りて地上に降り立った。枝に手を伸ばしているが、触れる寸前に何を思ったのか、瞑目した。 「拒む、想いを感じられます。この場所は瘴気に覆われているようにも見えたんですが、実際は瘴気を弾き出そうとしているから濃く覆われているように見えるのですね」 聖女が抽象的な話をしている隣で、その青年は何を思ったのか。ガチャリと大剣を解放した音がしたかと思えば、突風が生じる。 エザレイは呆然と彼を見やった。振り下ろされた剣は、ただ空を切っただけだった。藪に切りかかったように見えたのに、どうしてこの結果だったのか。誰しもが不思議そうな顔をした。 「認識のズレだ」 当人は何でもなさそうに剣を収めた。 「それではまるで、封印された土地のようですね」 「ん~、なんかわかんないけど、本当に出口まで行けるのこれ」 彼らの疑念が膨らむ。こうしている間にも、敵の足は近付いてきているかもしれないというのに―― エザレイは瞼をすうっと下ろして、打開策を求めた。 現在目に見えるものが、触れられるものがまやかしだと言うのなら、かつて通った道ならばどうだ。脳内地図を再現し、逆さに当てはめたなら。 (入り口の位置は……左端になるはずだ) こっちだ、と声をかけるほどの自信が持てなかった。何も言わずに歩き出したら、四人は何も言わずに馬を放ってついてきた。 想定していた場所では、肩までの高さの枝がぎっしりと詰まっている。 足を一歩踏み出した。それだけで額に冷や汗が浮かんでしまう。 ふいに右手に柔らかくて温かいものが触れた。すみません、と少女の澄んだ声がする。 「貴方を連れてくるべきではなかったと、私は――」 「やめろ。やめてくれ。そこまで、カタリアと同じことを言うな」 |
57.b.
2016 / 05 / 19 ( Thu ) 「で、君は理性的な時間に入ったみたいだし、右に行くべきという根拠を聞かせてもらおうか」
喉の筋肉の収縮が収まったのと時を同じくして、銀髪がハンカチを差し出してきた。素直に受け取る。 エザレイには目の前の胡散臭い美青年の笑顔よりも、言われたことの方が気になった。 ――理性的な時間? とは、どういう意味か。考えるのが大儀なため、涙やら鼻水やら唾液やらを拭うことに専念した。拭き終わると、呼吸を整え、答える。 「それは右の道が……聖地に向かってるからだ」 「前言撤回、君の理性は綱渡りみたいなものなのかな。で、左の分かれ道には何があるの? 口では『右に行こう』って言ってる割には目がそっち睨んでるけど?」 「……は?」 ここに鏡は無く、自分の表情が見えないが、目に力が入ってしまっているとしたらそれは体調が悪いからであって、何かを睨んでいるからではない。反論しようとして立ち上がると、足首が引っ張られたような感覚があった。足がもつれかけて、咄嗟に馬の鞍を掴んだ。 何と、左の足首に縄が掛かっているではないか。繋がれた先は馬首である。色々と言いたいことが浮かぶも、しばし黙り込んでしまった。結局「あんたがやったのかコレ」の質問が口をついた。 「うん。うちのお姫さまの要望でね」 銀髪の青年が親指でくいっと指さす先を振り返る。お姫さまと呼ばれた聖女ミスリアが肩を小さく跳ねさせた。仕草こそは萎縮しているようだが、茶色の双眸には揺るがぬ決意が垣間見えた。 「貴方がまたいきなり走って行きそうで、心配だったんです。すみません」 「話が見えない」 抗議した。が、なかなか答えてもらえないどころか目を逸らされた。 (なんなんだ) 何故彼らによそよそしくされるのか、その原因を思い出そうとしても、要所要所で記憶に穴が開いている。これまでの霧に隠された感じとはまた別の、記憶障害の形。 (俺は一体いつまで、欠陥を抱えていなければならないんだ) 苛立たしい。足元の土を蹴ったが、それはなんとも意味の無い行為だった。むしろ、周りの目を更に冷めさせることだろう。自己嫌悪の波が押し寄せる。 ところが、項垂れていたエザレイの視界の中に、ずいっと見慣れた棒状の物が現れた。 顔を上げると、黒髪の青年が何かを差し出しているのだとわかった。エザレイが使っていたグレイヴだ。 「何か言いたそうだな」 「…………」 声をかけてやるも、返事は無い。その男は無表情に手元のグレイヴに視線を落とした。一緒になって柄部分に目をやると、直線が直線でなくなっていることに驚いた。 「なんで折れて――」 ぐらりと、世界が歪む。五感に蘇る手応えに震撼した。 「はは、はははは。そうか。生き残りが、居たんだな」 喉から不気味な笑いが漏れていることに、エザレイは自分では気が付かない。 「一人残らずぶっ潰してやらないとな。今度は邪魔してくれるなよ」 折れてしまった愛用の武器に、手を伸ばす。指先が柄に触れそうな距離で、いきなりそれは地面に落ちた。 「……?」 不愛想な青年が、掌を大きく広げて取り落としたらしい。 「骨を折り、胴から首を切り離すのは、面白いか」 青年の言葉に侮蔑の響きは無い。純粋に知りたがっているように思えた。 「まさか。人を殺すことには当然、生理的な抵抗がある。仕方ない状況だったとしてもあとあと嫌悪感を――……おぼえていた、はず、なんだけど」 答える最中に我に返った。掌に残る手応えを思い浮かべれば胸の内に広がるのは嫌厭(けんえん)ではなく、カタルシスのような興奮だった。 乖離している。精神と肉体が、だろうか。本来の人格と今の人格が、だろうか。 「だって、あいつらは……」言いかけて、エザレイはいつの間にか自分が左の分かれ道を睨んでいるのだと自覚する。無理やり首を方向転換させ、ミスリア一行とちゃんと目を合わせた。「悪い。順番が、違ったな」 「順番ですか?」 聖女ミスリアが訊き返したのに対し、ゆっくりと頷く。 「聖地に行こう。カタリアに、会いに」 吐く息のひとつひとつが、まるで最期の息になりそうなほどに重い。それだけ、自制するのに膨大な精神力をかけていた。雨を吸って重くなった服が、枷以上に枷に感じられる。 (まだだ。もう少しだけ踏ん張れば、会える) 瞼を下ろして、深呼吸する。 春の日差しのように笑った少女を想った。栗色の髪に編み込まれた左右の三つ編み、そこに結ばれていた灰銀色のリボン。彼女はいつからあれをつけるようになったのだったか――それさえも忘れてしまった。 |
57.a.
2016 / 05 / 17 ( Tue ) 夢を見ていた――分類するならば極めて悲惨、世界の四隅(よすみ)から叫声が響き渡ってくる悪夢であった。 最も悲惨なのは、この場面が現実にあったのだと、思い出してしまったことだ。記憶の奥深いところでいつまでもその自覚が眠っていてくれたならよかった。呼び覚まされた以上は、骨髄から湧き出た蛆に内から食い破られるような気分だ。 一体いつまで、絶叫は続くのだろう。 そこには自身の悲鳴も入っており、そして大切な者たちのそれも交じっていた。 苦痛は何重にもなってこの身を襲う。同時に一人、また二人、絶叫が水っぽい喘鳴に替わり、重々しい咳となるのを聞き届けることとなった。 命乞いをする。無駄だとわかっていても、助けを乞う。 聴覚に返る、自分の声に激しい失望を覚えた。何故、耐え抜いて潔く死ねなかったのか。 飽きるほど繰り返し味わってきた拷問。その都度、こみ上げる異物感や絶望に慣れるわけでもなし、夢は夢らしくあらゆる原理を撥ね退けて、苦しみばかりを延々強要する。 ただ肉体と意識が再び結び付く頃には必ず、きれいさっぱりこの場面を忘れ去っているのが救いだった。 ――きっと今度は、忘れない。 予感がした。覚めたくない。この夢に留まりたくもない。情けなく泣き喚きながら全てを拒絶する。 間もなく最後の一人になってしまいそうで。彼女の為にも、命乞いする。 どこからか黄金色に煌く雨が降り注ぎ、悪夢は突然、霧散した。 まっさらな世界には永劫の孤独が残る。ああそうだ、仲間たちには二度と顔向けできそうにない。 やはり、絶望した。 _______ 追憶の旅の終着点が近いと、瞬時にそう悟った。 ここ数年――五、六年くらいか――の中で、かつてないほどに頭が冴え渡っていた。こうもクリアな寝覚めは、何かの予兆に違いない。 恐れていたモノに立ち向かう勇気が、血流と一緒になって循環している気がした。 「……この大雨なら猛獣も棲家から出て来ないだろうし、町民の松明も消されて、追跡が難しくなりそうだね」 「不幸中の幸いです」 「あ、やば。前の方、枝分かれしてるね。どうしようか」 「聖地の気配が瘴気に隠されているみたいで、よくわかりません……」 近くの話し声にエザレイは黙って耳を傾けた。暗い景色が流れる速さから察するに、移動している。馬の早足(トロット)程度だ。 それ以上の状況確認をするよりも先に、彼はあることに気付いた。 (……――あれは) 探し求めて身をよじる。 積み荷が如く、馬の背に縛り付けられていることをついでに知るが、どうでもよかった。 (どこだ) 手首に食い込む圧力をもどかしく感じ、そこに目を凝らしてみる。複雑な結び目で、両手が馬の首を抱くようにして縛されていた。 「ふーん、目が覚めたの」 隣の青年が一切の優しさを伴わぬ声で問いかけてくる。 「リボンは。どこ行った」 せっかく冴えた頭が、撹拌されたようにかき乱される。吐きそうだ。果たして吐き出せるようなものが体内に残っているのかは不明だが。 青年は答えずに、行路にばかり注意している。代わりに、逆側から遠慮がちな声が言う。 「すみません。私が預かってます」 縛り付けられている状態で馬上で寝返りを打つのは困難だったが、エザレイは軋む身体に鞭を打った。 少女が差し出す小さな手の中に、確かに灰色の見慣れたそれが握られていた。 「……そうか。ならいい」 安堵のため息が鼻先で白い湯気を立てる。気が抜けたら、ますます衝動が大きくなってきた。 「ちょっ、止め……吐き――」 「うん? 吐きそうだから止まれって? 前から思ってたけど、オニーサンって胃が弱いよね。そんなんじゃ長生きできないよ」 そもそもこの体勢でずっと馬に揺らされて平気な方がどうかしている。と、言い返す余力は無い。 嫌味っぽい言い草はともかくして、一行は確かに止まってくれたし、縄も解いてくれた。 「なんとでも、言え……。あと、そこの枝分かれは、右、だ」 とりあえずそこまで伝えられたが、逆流が始まったので詳しい説明は数分待たせることとなった。 |
おもいだす
2016 / 05 / 16 ( Mon ) この話前にしたかもしれないので知ってるよ~!となりましたらすみませんw
* コンゴに住んでた頃は、ホテルの蛇口からお湯がちゃんと出たのは大体三割以下の確率でした。 水圧が低くてシャワーヘッドがほぼ無意味。ついでに水すら出ない日も多く。 ゆえに朝風呂は(前の晩に)盥に貯めた冷水浴びてたんですが、ごく稀にお湯がちゃんと出ると、「今日はいい日だ」と一日上機嫌で過ごしました。仕事中にいやなことがあっても「いや、今朝はお湯が出たのを思い出せ」と自分に言い聞かせて無理やり気分を上昇させ。 そんな日々を過ごした若かりし自分(笑・約四年前だよ)を思うと、今の生活ってとてもとても恵まれてるんだなと実感できる。 そんなことを考えながら今朝、シャワーから思いっきり熱湯を浴びた。 世の中の人々がみんな、小さな幸せを積み重ねながら人生送られますように。大きな不幸が長続きしませんように。 ってな具合に頭がカッと冴えたので本編執筆も進みそうな気がします。 多分数時間後くらいに57の投稿を始めます。お付き合いいただけると嬉しいです~★ |
56 短くあとがき
2016 / 05 / 14 ( Sat ) |
56.h.
2016 / 05 / 14 ( Sat ) 唖然としていても時間は止まってくれない。 予期せぬ変化に対処できる迅速さは、いつだってゲズゥたちの方が上だ。天秤がこちらに傾き始めたことを感じ取った護衛らは、突風が如く敵を薙ぎ倒している男を援護した。イマリナに放された後、ミスリアのすべきことは避難だった。這い上がって、走った。 雨滴(あましただり)が降りしきる。 乱戦に振動していた丘は、徐々に落ち着きを取り戻してゆく。 ふいに、稲妻が天上を駆けた。地上に広がる惨状に目を向けようとして――木陰からはみ出る平べったく長い物に気付いた。まさしく、白髪の男性が常に武器の柄に結び付けているリボンの片割れである。 (あんなに大事にしてるのに) これが外れて落ちてしまったことに気付かないほどに我を忘れている。 (どうして。やめて、酷いことしないで) 呼びかける声を形にできずに、空しく口を開閉させる。喉がカラカラに渇いていた。 何度も何度も繰り返される短い「死ね」の一言が、聞くに堪えない。顔は見えないけれど、この日までに見せてきたどの変貌よりも今の彼は恐ろしい。地に倒れた敵の息の根を止めに戻る入念さに、ミスリアは慄いた。 どうすればいいのかわからず、リボンに向かって手を伸ばす。濡れた土からそっとそれをかき上げた。 今回は、突然意識が遠くに飛ぶなんてことは起こらなかった。 (お姉さま……貴女がここに居たなら、どうしたかな……) 左の掌にリボンをのせ、右手の指でそっと表面をなぞり。すぐに指を止めた。 微かな凹凸を感じる。 (本体と同じ色の糸で刺繍が施されてる?) そのように連想して、先端から撫でてみた。 形状はまるで、文字。しかし何かが違う。逆さなのだと思い至り、翻して、確認し直す。これは元々筆記システムを持たなかった言語を、南の共通語の文字に半ば無理やり当てはめたもの。 故郷のファイヌィ列島の母語だ。 ミスリアは逸(はや)る気持ちを必死に抑えつつ、刺繍に込められた想いを指先で読み取った。 ――尊き聖獣と天上におわします神々よ 出だしだけで、すぐにわかった。祈りの言辞だ。 その先を急いで読み解く―― 「止めてくださいっ!」 気が付けばゲズゥの上着にしがみ付いていた。夢中で動いたため、間の意識が瞬きのように通り過ぎていた。「ゲズゥ、お願いです。あの人を止めてください」 珍しく、ぎょっとした表情で彼は振り返る。何を頼まれているのか理解し、目を細めた。 「………………それが最優先事項か」 カラーコンタクトを落としてしまったのか、不揃いの双眸がじっと見つめ返してきた。 「はい。手荒くても構いません。絶対に止めてください」 「わかった」 前を向き直っての返事だった。湾曲した大剣を、両手に構え直している。 思えばゲズゥが父親の形見である剣を人相手に振るう頻度は、段々と減っているように感じる。 その理由は、剣そのものが重く、薙ぐに必要な予備動作や遅れがあるため「扱いにくい」からかもしれない。或いは「対象を一刀両断できる」道具であるからかもしれない。 魔物であれば願ったりな結果でも、生き物を殺傷してしまうのは避けたいはずだ。他ならぬミスリア自身が、そうして欲しいと嘆願したのだ。 心が痛んだ。左胸の上に手を置いても、ちっとも気分は晴れない。 あまり時間が無い。町民の追っ手はすぐそこまで来ている。彼らこそ、殺さずに凌ぐのが難しい相手ではないか。かろうじて生き延びた馬たちが、坂下に向かって逃げ惑っている。それが多少の時間稼ぎになるだろう。 逃げそびれた三頭ほどを、リーデンとイマリナが確保していた。ミスリアは彼らの隣に駆け寄った。 まだ倒れない森の民はたったの三人。いずれも、狂戦士と化したエザレイに応戦している。 グレイヴの先端が閃いた。それを軌道の途中で食い止めたのは、横合いから割り込んだ大剣。 火花が散った。 隙を得た三人は、迷わずにその機会を掴んだ。灰銀色の瞳は恨みがましそうに逃げる者たちを一瞥し、すぐにゲズゥの方に注目した。 邪魔をされて気が立っている風だ。エザレイはグレイヴを引き戻して、無言で再び攻撃に出た。 グレイヴが次に振り下ろされた時、ゲズゥは刃を下向きに構えて受け流し――切れずに、たたらを踏む。それほどまでにエザレイの一撃は重い。心なしか、先ほどの魔物と押し合った際よりもゲズゥは苦戦しているように見えた。 何合か刃はぶつかり合い、ゲズゥは最初こそは間合いを詰めようとしていたが、やがて何かを思いついたように足を止めた。 切り付けんとするグレイヴを見上げ――刃先ではなく、柄部分に向けて剣をしならせる。 木がひび割れるような音。切られることがなくても、柄は目に見えて折れ曲がった。 「聖女さん、提案」 「なんでしょうかリーデンさん」 「オニーサンが最初に人格っていうか正気を取り戻したのってさ、君が怪我を治癒してあげた直後じゃない? もしかしたら君の力が一番、有効、なのかも」 あ、とミスリアは唇を驚きの形に開いた。 「やってみます」 「オーケー、マリちゃんの後ろに乗って。兄さんたち拾い上げに行くから、さっさと進もう」 「はい」 頷き、言われた通りにイマリナと同じ馬に騎乗する。 リーデンも馬上の人となりながら、鞍の空いた三頭目を引いて走り出す。 (……伝えなきゃ) ミスリアは急速に近付く男性の後ろ姿を見据え、聖気を展開する。 (手遅れになる前に……ううん、もう手遅れでもいいから、伝えなきゃ) 黄金色の光の帯が、熱望を代弁した。 |
56.g.
2016 / 05 / 12 ( Thu ) (あの人は私たちを貶めたりしない)
自発的に彼が此処に来ようとしたのではなく、サエドラに行こうと誘ったのはこちらだ。などといくら疑念をどこかへ押しやろうとしても、引っかかりは拭い去れない。 「まあどっちでもいいよね。まずはこのピンチを切り抜けないと」 気遣ってくれたのか、リーデンが話を畳んだ。 既に護衛らは行動に移っていた。どうやら、進むべき方向を「前」と定めたらしい。 町はもう安全ではないだろうし、目的にかすりもしないで逃げるよりは目的地に向かって逃げるのが得策だと、ミスリアも思う。 気がかりなのは――魔物の気配がそちらに近付くに連れて強くなっていることだ。 住民が魔物を使役している? 不安が、渦となって胸の内を占めていった。 疎らに上って来る松明の群れがどんどん小さくなっていく。 ミスリアが身体を捻って森の民の方を振り返ると、横一列に並ぶ馬上の人影が奇観を呈していた。こちらからは横一列に見えてしまうだけで、実際は特攻に適した陣形かもしれない。例えば、V字型陣形。 口笛のような音の応酬があった。中央付近の人が吹けば、列の左端右端がそれぞれ応答する。 夜盗と思しき者たちに襲われたあの夜と、どことなく状況が似ている。彼らはありきたりな夜盗ではなかったのだと、察するほかない。 列の横幅は二十人程度。 (こんなの、抜けられるの) 焦ったところで自分にはどうしようもない。仲間たちを信じて、掴まる腕に力を込めた。 稲妻が再び周囲を明るく照らす。瞬間、すぐ後ろを走る二人の姿が目に入った。まるで照らし合わせたかのように二人は足を止め、左右に跳んだ。銀髪の青年の指の間から、直径十インチ(約20.5cm)ほどの特大の鉄輪が飛び立つ。同様に、イマリナも何かの凶器を続けざまに投擲した。 「ぐあっ!」 ミスリアにとっての背後から、呻き声が幾つか上がる。 「まだ通り抜ける隙間が無い、ね!」 言っている傍からリーデンはまた何かを投げ飛ばしている。そのいくらか切迫した叫びに、別の声が重なった。 「下ろすぞ」 「え!?」 すかさず落とされた。尻餅をついた姿勢から地面に両手をつき、這うようにして前後反転した。 するとミスリアを庇い、立ちはだかるゲズゥの全身がよく見えた。何故よく見えたのかと言うと、光源があったからだ。頭上高く跳んで顎から唾を垂らす、異形の巨体が―― 「きゃあっ」 呪いのような青白いゆらめきを網膜に焼き付けたまま、ミスリアは地に伏せた。衝突の余波が髪を乱すのを感じる。 舌打ちが聴こえた。顔を上げれば、巨大な狼に似た影に圧されるゲズゥの姿を認めた。狼の大きな顎は、長身の青年のそれとちょうど同じ高さに位置していた。彼に襲いかかろうとした牙は全く噛み合っていない。 斜めの角度で挿し挟まれた剣の刃が、ギリギリと牙と擦れる。 濁った色の唾液が、汚臭を放ちながら刀身を伝っていく。 森の住民たちの居る方から、場に不似合いな音が上がった。拍手喝采、歓声、手拍子。狼に似た魔物はまるでその声を応援としたかのように、激しく頭を振り始めた。 迫りくる馬蹄の勢いが落ちている。列が少し開けた。けれどもそれは求めていた好機ではなく。 ――また狼が現れた! こうしてはいられない。ミスリアは、聖女である己にしかできない戦い方をした。 聖気の流れを作り出し、一直線に伸びるよう制御して、新手の魔物に集中させる。狙う先は――頭蓋。がくがくと震える手でも楽に当てられる、大きな的であった。 ぼ、と余韻すら残さない短い効果音と銀色の素粒子の発散が、試みの成功を報せてくれる。胴体だけとなった異形は、それでも俊敏に駆け寄ってくる。迎え撃ったのはチャクラムの連撃。魔物の前足は切断され、元の半分の長さになった。巨体はついにくずおれた。 (もう一体は!?) 確かめようと視界を探るも、そちらは危機ではなくなっていた。魔物はゲズゥの剣先によって容赦なく分解されつつある。 だがもう、騎乗した軍団が攻撃の有効範囲までに到達している。端の人影が斧を振り上げて投擲しようとしている。落雷によって、その姿はひどく鮮明に目に映った。 「――!」 庇ってくれたのはイマリナだった。肩から抱き寄せられ、頭を押さえ付けられる。 かろうじて片目からの視界はまだ活きていた。 怖いもの見たさだろうか。ミスリアの視線は筋骨隆々とした男性の輪郭に釘付けになった。 息を呑んだ。 次の瞬間、輪郭が激変した。 (……な) 人の首とは、あんな風に回転して放物線を描くものだったかしら。あんな風に宙を飛んで地面に転がっていいものだったかしら。衝撃のあまりに、思考回路が追いつかない。 斧を片手で振り上げたまま、首を失った身体がゆっくりと前倒れになる。 列が崩れた。リーデンたちが仕掛けていた攻撃で倒れた人たちとは異なり、死角から起こっている別の何かによって倒れていっている。人も、馬も。 彼らが驚いて振り返る間にも、次々と数が減った。鉄が鉄を打ち、肉が裂かれ、そして―― 「死ね。おまえら、全員死ねよ」 聞き覚えのある声が呪詛のように吐く。 それに対する森の民の反応が、印象深かった。 「こやつ、まさか!」 「この手口!」 「あの時の奴ではないかっ」 「間違いない、赤い悪魔……!」 絶望と怨嗟の言葉に被せるように、一頭の馬が最期の嘶きを上げる。 唐突に理解した。 赤い髪が厭われる原因こそが、エザレイその人なのか―― エザレイは、敵ではなかった。 敵ではないが、だからと言って、正常でも、ない。 |
56.f.
2016 / 05 / 10 ( Tue ) リボンの糸がほつれてますよ――前を歩く彼にそう声をかけたのは、ミスリアだった。 噛み切ってくれ、とエザレイは無機質に応じた。何もおかしな話ではなかった。服などからほつれた糸を手っ取り早く噛み切るのは日常の中でよくやることだ。だからその時も、ミスリアは深く考えずにグレイヴの柄に結ばれた灰色のリボンに手を伸ばしたのだった。 糸を歯に引っ掛けた先から何があったのか、よく思い出せない。 とりあえず件の糸に注目する。古びて汚れていて、ところどころ色が違っていた。灰色でないところは、敢えて言うなら灰銀色である。元の色が日に焼けて褪せたか、汚れを吸って濃くなってしまったのか。 (もしかして、残留思念) 白昼夢に出た青年は、ミスリアの知る「エザレイ・ロゥン」とは人物像が異なっていた。面影は濃かったものの、今よりもいくらか若々しく、生命力に溢れた顔つきだった。髪色も一致しない。けれど背中を覆い尽くす火傷の痕を思えば、同一人物で間違いないのではないか。 他の二人についても、彼らに関する記述は姉カタリアの報告書にあったものの、詳細な外見描写までは書かれていなかった。 (リボンに付着した、お姉さまの――――未練の欠片) 糸一本でこれでは、リボンそのものを検証したらどうなるのか。広がる未知の可能性に、震えた。 「あのっ、エザレイさんは何処に!?」 いつの間にかその姿が消えていたことに、やっとのこと気付く。すると護衛たちは顔を見合わせた。 「音が気になるから調べに行くって、走ってっちゃったよ。でも変だよね」 リーデンがゲズゥに目配せする。それを受けて、ゲズゥが小さく頷いた。 「何も聴こえなかった」 「そうなんだよ。僕も兄さんも結構な地獄耳なのに、何も音なんてしなかったよ。引き止める暇もなく疾走しちゃった」 「え……」 リーデンが指差した丘の向こうへと目を凝らすも、森が佇むだけだった。後は町の方から流れてくる祭の音楽や歌が微かにするくらいで、おかしな音なんてしない。 「戻って来ます……よね?」 「う~ん、あんまり期待しない方がいいんじゃないか――」 な、とまで言って、リーデンは素早く首を巡らせた。 どうしたんですか、とミスリアは訊こうとする。しかし言葉が喉から滑り出るより先に腹部が圧迫され、未然に息を吐かされた。 瞬く間に視界は一転し、地面ばかりとなっていた。 愕然としたのは一瞬。すぐに状況が飲み込めた。担ぎ上げてくれた肩を掴んで、振り返る。 「敵襲ですか!?」 「……ああ。問題は、数」 ぐっと眉間に皺を寄せたゲズゥが答えた。 「奥の森に向かう途中で邪魔されることは予想の範囲内だったけど、これは予想以上のお出迎えだね」 呆れたようにリーデンが言った。 町へと戻る坂の下から、じわじわと迫る松明の灯り。森へと続く丘の方からは、馬の蹄と――笛の音? 極め付けは胸に生じた冷ややかな手応え。つまり、魔物の気配が、近い。その予感を裏付けるのか否か、獣の咆哮が横手の木々の間から轟いた。 「最悪の事態だと思って臨もうか。その方が油断しないし」 「同感だ」 「一に魔物、二に森の住民、三に町民、四に熊。森と町の住民がグルで、魔物と熊を飼い慣らして使役してる、ってのがサイアクの事態かな」 町人たちは、祭の最中でありながらこっそりと抜け出す自分たちの姿を見咎めて不審に思ったかもしれない。 森の住民は――熊の縄張りに人が居たのは意外だけれど――踏み込んだ自分たちを敵視しても仕方ない。 猛獣と魔物は言わずもがな。 それぞれの勢力が襲って来ることは想像に難くなかったとはいえ、よもやこうして一斉に矛を向けてくるとは思わなかったのだ。リーデンの言葉に誘導されて、忽ち恐ろしい絵図が頭の中に出来上がる。 「さて問題は『五』に僕らが連れ回していた泡沫のオニーサン、もといエザレイ・ロゥンまでもが、グルだったのかなぁってとこ」 「そんなっ! ありえません! 違います、彼は」 森の民と町の人々と馴れ合うはずが無い! ミスリアは反射的に抗議した。何せ彼は厭われた赤い髪の持ち主で、そのことをちゃんと教えてくれた―― (……――どうして、エザレイさんは赤い髪が嫌われることを知っていたの) 出会って日の浅い人間の何がわかるかなんて、たかが知れている。それでも信じたい、信じなければならない。 |
56.e.
2016 / 05 / 09 ( Mon ) 何か言わなきゃ。別の提案をしなきゃ。時間に余裕があったなら、或いは他の作戦に辿り着けたかもしれない。そう思っても声は出ず、手のみが勝手に動いていた。 (代わってあげたい)いつも痛い思いを、苦しい思いをするのは彼らであって自分ではない。申し訳ない気持ちで一杯になったが、絶対に泣いてはいけない、とカタリアは呪文みたく脳内で繰り返した。 手ぬぐいをエザレイに噛ませた。 震える手で、端と端を後頭部にて寄せる。革の髪紐によって束ねられた、毛先に多少クセのある赤茶色の髪の下で。解けないように、しっかりと猿ぐつわ代わりの布を結んでやった。 次にエザレイはイリュサの手助けを得て袖から赤く染まったシャツを脱ぎ、泥の上に敷いた。それを寝床にしてうつ伏せになる。両手の指は、どっぷりと泥の中に食い込ませて。 応急処置として巻かれていた包帯を解いて、イリュサは縫合に使う道具を準備している。その間カタリアは、火傷に覆われた背中の上に膝立ちになった。これは確か彼が家族と死に別れた火事の際に負った、古傷であったはずだ。 ――二人も乗っていては流石に重くないだろうか、骨が軋んではいないだろうか。 行き場の無い迷いばかりが募った。 一方、イリュサはハサミと糸と針を手にする。患部をサッと確認し、エザレイが暴れるのを見越して、前腕を片膝で押さえつけた。 「では、手早く済ませます。それだけは約束できましてよ」 イリュサの宣言に、当然ながら返事は無かった。 針の煌めきが目に入る。カタリアの胸内で恐怖が膨れ上がったのも束の間、煌めきは躊躇なく動いた。 「――――――っ!」 くぐもった叫びが漏れた。同時に、膝の下で押さえつけたはずの四肢が激しくのたうった。 「ひっ」 つられて悲鳴を上げてしまいそうなのを、なんとかして飲み込む。 想像を絶する力だった。組み敷いた身体が発する痙攣によってカタリアはバランスを崩しかける。支えを求めて手を突き出し、土を掴んだ。 苦鳴は尚も続いている。 (早く、早く終われ。おねがい。早く終わって) 実際その時間はイリュサが約束した通り、短かったはずだった。ことの最中では、果てしなく長く感じられただけだ。 噎せ返るような血の臭いで、頭がくらくらした。目元が滲んで視界が歪む。カタリアは奥歯を食いしばった。 『あんた一人じゃ心もとないから、連合拠点まで案内してやるよ』 『よろしくしなくていい』 初めて出会った日の記憶が、何故か耳元に蘇った。 (ごめんなさい。ごめんなさいエザレイ。私が誘ったから) 激痛に抗い続ける肉体を見下ろし、思う。どうして、代わってやれないのか。 大した力も持たない右手で、彼の肩を精一杯押さえた。力を込めれば込めるほどに痛い。 手も、心も―― ――遥か遠くから、獣の咆哮と指笛のような音が響いた。 _______ ふわりと身体が軽くなったと同時に、雷鳴が轟いた。閃光が大空を照らしたものの、雨は降っていない。 引きつつある夢心地に驚き、浅い呼吸が彼女の唇から漏れた。 宵闇の中に浮かんだ三つの人影は、馴染みのあるものだ。最も近くに立っているのは、大剣を背負った黒ずくめの青年。際立った長身や濃い肌色と物静かな雰囲気などが印象的で、喋っていなくても大木のような存在感をたたえる人物である。 「どうした」 低く通る声が鼓膜を打った。ミスリアにとっては安心を誘う声である。やっと地に足が付いた心地になって、彼女は旅の護衛であるゲズゥ・スディルに笑いかけた。 「あの……私どのくらいぼーっとしてましたか」 「えー、二十秒くらいじゃない? 何かあったの」 答えたのは二番目に近くに居た、こちらもそれなりに長身の男性。ゲズゥの母親違いの弟であるため骨格や目元などに似通った箇所はあるものの、兄とは真逆に、徹底して色鮮やかで華やかな印象を放っている。イマリナ=タユスの町で出会い、旅の道連れとなった、リーデン・ユラスという名の銀髪の青年である。 彼の隣に控える三つ目の人影は、その町と名を同じくする、イマリナと呼ばれる女性。紅褐色の髪をいつも三つ編みにしてまとめているのだが、わけあって今は染め粉で色を変えて、念の為にフードの下に隠している。 「たったの、二十秒……」 誰にも聴こえないように呟く。 ミスリアは両手を見下ろし、そのまま視線を下へと落として、膝や足元までを眺めた。 肌や神経に残る感触はやけに真実味を帯びていた。それに加えて、深い悲しみと後悔が未だに心臓を締め付ける。 (何だったの――) 白昼夢だとして、とても二十秒で見るような夢とは思えない。 (この人たちこそが、私の仲間) 改めて傍らの人間を見回した。お揃いのヘアバンドとヘッドバンドを身に着けた兄妹は居ないし、ましてや腕から血を滴らせる青年も居ない。 どうしてか我が身に起きた出来事のように、おかしな名残がある。しかし一秒経つごとに認識が己の中にしっくりと沈み込んだ。あれは、自分の記憶ではない。 まさか姉の過去を妄想したのだろうか。 (なんか、納得行かない) こんなにも鮮烈な妄想ができるだろうか、自分に。聞いた話だけで? ふと舌に、か細い物が絡まったような違和感があった。 疑問符を飛ばす仲間たちが見守る中、ミスリアは人差し指と親指を口に含んで探ってみる。 「んっ」 指に何かが引っかかった。唾液に絡まって、灰色の糸が出て来た。 途端に、数分前の出来事が脳裏に蘇った。 すみません、赤茶色なのは「スターアニス」の種であって「アニス」は別物です。過去の文は一部修正します(読み直す必要はありません) |
56.d.
2016 / 05 / 08 ( Sun ) 「情報開示のお時間だよー。森にはこわーい熊さんが住んでるんだってさ。良い子のみなさんは行っちゃだめだよ」
銀髪の青年が何気なく南の共通語で話した。ここ一帯では北の共通語の方が重点的に使われており、南のを解する者が少ない。会話の内容を盗み聞かれる可能性は低い。 「く、熊ですか」 聖女ミスリアがびくりと怯んだ。 「でね、聖地のことはよくわからなかったよ。それ自体が森の向こうにあるのか森の中にあるのか。町民の演技じゃなくて、本当に知らない感じ。訊ねる相手を老若男女バラバラに五人選んでみたけど、誰もはっきりとは知らなかった」 話しながらも青年の切れ長な眼が、鮮やかな緑色の瞳が、サッとこちらを一瞥した。 他に有益な情報を持っていないのか、と責められているようだ。エザレイは曖昧に唇を斜に曲げた。 頑張って思い出そうとすれば何かしら沸き出て来そうな気がしないでもない。単に、やりたくないという気持ちが追憶を妨害していた。 動機は不明だ。彼らに非があるわけではない。 喉の奥に石が詰まっているとでも言うのか、妙な息苦しさがあった。 それにしても耳鳴りがひどい。 激烈な高音。鋭く、大気を突き刺すような。嫌な音だ。あらゆる神経がざわざわと不快感を訴えてくる。 (うるさい。うるさい、止めろ) 雨を吸って重くなってきた己の前髪を乱暴に引っ掴む。 (おまえら、―――ねよ――) 思考の結び目が引き締まらず、まともな糸を紡げない。 固く瞼を閉ざすと、暗闇の中に朱が弾けた。 _______ ――追いつかれる――! 走るのが困難な状況で、濡れた足場に足をもつれさせながらも、スカートの裾を踏み破いてしまいながらも、ただ走った。 一心不乱に走った。けれど元々あまり運動能力を鍛えて来なかった彼女は、既に全身で息をしていた。嗚咽のような呼吸をしつつ、腰を折り曲げて立ち止まる。仲間たちを振り返った。他の三人とは意外に距離が開いていた。 いつもなら必ず先頭を走りたがるディアクラ・ハリドが脚を負傷し、意識を手放しかけている。それゆえに彼はイリュサとエザレイにそれぞれ肩から支えられていた。エザレイの現在使われていない方の腕からは、夥しい量の鮮血が滴っていた。 カタリア・ノイラートは身を隠せる場所を探した。目と鼻の先にちょうどいい場所を見つけ、仲間たちの傍に駆け戻り、今度は歩を揃えた。 一行はひとまずは倒れた巨木の下に入って、息を潜めた。低いがそれなりに広い隙間であり、何より雨を凌げるのは有り難い。 それでも、このままでは追っ手に見つかるのは時間の問題だ。取るべき対策は一つだった。 「治させて下さい!」 負傷した両名に、カタリアはどちらともなく呼びかけた。 先に応じたのはスターアニスの種と同じ色の髪をした青年だった。ただでさえ苦渋に歪んでいた表情が、更に渋くなった。 「ディアクラの方が重傷だ、多分骨が砕けてる。俺は後回しでいい」 「でもその血の量も深刻では……」 「カタリア、あんたはもう限界じゃないのか。あと一回聖気を使えば昏睡する。どっちかしか治せないなら、わかるだろ! 腕と脚じゃあ優先すべきは明らかに脚の方」 「正論ですわね。かと言って、それも放って置いていい怪我ではありませんわ」 イリュサが口を挟んだ。エザレイはその指摘に対する答えを即座に捻出した。 「ああ。だから、お前が縫ってくれ」 それを聞いたカタリアは思わず息を呑んだ。 「……本気ですか、エザレイ・ロゥン」 話を振られたイリュサ・ハリド本人も、目を大きく見開く。 「本気じゃなきゃこんなこと頼めるかよ。道具は持ってるんだろ」 問いを返され、イリュサはしばしの間沈黙した。 理に適っている、その点は認めざるをえない。聖気で治してもディアクラがすぐに動けるようになるとは限らないし、直後にカタリアが動けなくなって、結局は全体の機動力の回復には多少なりとも時間がかかる。その間、深く切り裂かれたエザレイの腕の傷は、悪化する一方だろう。 それも本人では処置しにくいような上腕の裏側から後ろ肩を回っている。 「…………見くびらないで。道具と技量ならありますわ、兄さまの手当てで慣れてますもの。今のわたしの手元に無いのは、麻酔だけです」 「上等だ。二人で乗っかって押さえつけてくれ。それとカタリア、俺が叫ばないようにこの手ぬぐいを」 結んでくれよ、と一枚の布を差し出した彼の顔色は、彼女の目には青紫色に映った。 手ぬぐいの硬めの肌触りを掌に感じ、遅れてカタリアは指を布に巻き付けた。ただの布をこんなに重く感じるなんて――これが最善の選択なのか、幾度となく自問した。 |
56.c.
2016 / 05 / 07 ( Sat ) 「よく、発つ気になったな」
――楽園のような島国。愛する家族や見知った隣人と、老いるまで共に、ただ平穏に生きればよかったものの。 安穏とした未来を敢えて捨てて、険しい人生を選んだのは何故か。 「それはですね……」 聖女ミスリアは懐かしむように目を細めた。 (そうか、俺は前にも同じことを) 背筋が既視感にぞわっとした。まるで学習しない、愚か者。 記憶が無いのは仕方のないこととはいえ、ここまで来れば呆れる。雪の中に作った自分の足跡を、同じ場所を踏んで通るようなものだ。二度目では初回のような感動は無く、前よりも深く雪に沈み込み、進むのが難しい。 ――カタリア・ノイラートには、生まれ付いて聖者となりうる素質があった。 それを知り、世界の危機を知った彼女は居てもたっても居られなくなり、大陸に出ることにした。きっと、妹も同じような経緯で―― 「私がお姉さまに憧れてたからです」 思考に割り込む少女の声は清廉そのものだった。エザレイは思わず瞠目した。想像していた回答とは違ったからだ。 「憧れ、同じ道を辿ろうとして、その中で私は自らの進みたい方向を見つけられました。故郷が恋しいとは思いますけれど、大陸に来てから出会った人々、得られた経験は……どんなに恐ろしくて悲しいものでも、全部私の宝物です」 刹那、再び花びらの嵐が視界を遮る。 小さな聖女に見惚れた僅かな数秒。エザレイ・ロゥンの中に芽生えたのは、一筋の薄暗い感情だった。だけど、それだけでは決してないはずだ。同情のような想いも、芽生えていたはずだ。 そう、自分に言い聞かせた。 「……カタリアの妹。あんたらは、ちゃんとわかっているのか」 エザレイの視線は、連れの者たちを巡っていった。向こうで町娘と雑談しているらしい派手な銀髪の男とその相方の女。それから、聖女ミスリアの背後で黙々と肉片を口に放り込む長身の青年。 無表情の青年と目が合った。底なし沼のように黒い瞳に、得体の知れない寒気を覚える。 「わかっているって、何をですか?」 「聖獣を蘇らせた後のことだ。偉業を果たした聖人聖女は、生きながら祭り上げられるんだ」 「そうですね。とても大事に、何一つ不自由なく、待遇の良い一生を約束させられると聞きました」 「いつだ」 「はい?」 エザレイの問いかけの意味がわからずに、聖女ミスリアは小首を傾げた。 「あんたがその話を聞いたのは、いつだった」 「えっと、まだ聖女になる為の研修をしていた頃だと思います」 予想通りの返答に、エザレイはため息をついた。 彼女はやはりわかっていない。これ以上言葉を重ねるのは酷かもしれないとわかっていながら、止められなかった。 「じゃあもっとよく考えてみろ。祭り上げられるってのはどういうことだったか。修道司祭みたいに、外界には簡単に降りられなくなるんだ。血の繋がった両親だろうと妹だろうと滅多に会えない。カタリアはそのことを気にしていた――俺はそう憶えている」 「お姉さまが……」 「旅に出る前なら、まだ重く捉えてなかったんだろうな。大聖者は、教皇や枢機卿とはまた違う。どれほど近しい間柄でも、聖職者でないなら年に何度と会えなくなるぞ。たとえ苦楽を共にした護衛だろうとな」 そこで、終始無言で咀嚼をしていただけの青年がぴたりと動きを止めた。嚥下に、喉仏がごくりと上下する。 「そう、ですね。せっかく仲良くなれたのに……皆さんには会えなく、なります、ね」 聖女ミスリアは小さな舌で唇を湿らせて、ぎこちなく答える。茶色の双眸は、ついぞ一度も黒髪の青年の方を振り返らなかった。 哀れだと思った。が、早めに理解すれば傷の治りも早まるものだ。 苦労して作り上げたつもりの居場所が、その実、砂上の城だと。 ――自分には、遅すぎた―― 気まずい空気が流れた。周囲がお祭り気分であるだけに、三人を囲う空間だけが湿っているのはどうにも滑稽であった。 残る二人の帰還で、その空気が壊された。 |
56.b.
2016 / 05 / 05 ( Thu ) 「大型肉食獣……では奥の森が立ち入り禁止なのって……」
血の気の失せた顔で聖女ミスリアが呟く。森が区切られているのは、臣民を獰猛な肉食獣から守る為だとでも推測したのだろう。 「立ち入り禁止なのはそんな親切な理由じゃないと思うなー。ね、兄さん」 「行けばわかる」 腹違いの兄弟らしい二人の青年のやり取りを、エザレイは横目で眺めた。目を合わせないように、一瞬だけだ。 一見まるで性格の似ない兄弟だが、上辺ではどれほど社交的に振る舞っていようがいまいが、根っこのところで疑り深く人を観察している点では同じだ。 素直で人の好い聖女が狂った世の中を生き延びるには、きっとこういう護衛が傍に居るべきなのだろう。 「行けばわかる、か。そうだな。どの道、夜が更けたら行くんだ」 エザレイは立ち止まって言った。周りの町人に音が漏れないよう、小声で。 言葉を形にすると、心臓に鉛が落とされたみたいに感じた。気が重い。ちっとも耳鳴りが収まらないというのに、「奥の森」のことを考えると、ますます苦しかった。 女神への讃美歌の合唱がふいに止んで、歓声に変わった。 視界一杯にごうっと色とりどりの花びらが舞う。息をすれば吸い込んでしまいそうだ。実際、何枚かが歯にくっついた。 それを剥がしている内に、隣に聖女ミスリアが立った。 「あの、エザレイさん。訊いてもいいですか」 「なんだ」 「そのリボンは、大切なものなんですか? 折りを見ては丁寧に洗ってますよね」 大きな茶色の瞳が、エザレイの腰に集中していた。正確にはメイスの柄に結びつけてある灰色のリボンに、だ。 「ああ、これは――」 答えかけて、一瞬だけ戸惑う。質問自体にではなく、ほぼ抵抗なく答えようとしている己にである。 かつての自分はもっと嫌々と他人と会話していた気がする。訊かれたことに答えるまでに、やたらと逡巡していたはずだ。 ――人格は統合されたのであって、完全な回帰をしたのではない。 そう考えると、納得した。いわゆる霧の中を彷徨っていた数年とて、確かに自分は生きていたのだ。その間に作られた「シュエギ」という在り様は、消えたのではない。 吸収されたのだ。 答えようとして、変な嗚咽が喉から漏れた。音にするなら「るっ」とでも発したのだろうか。聖女ミスリアが不思議そうな顔をした。 「……っ、悪いな。大事なものだった気はするけど、よく思い出せない」 言い直した。 常に持ち歩いている、否、手放そうとすると指先から激しい震えが始まるくらいには大切らしい。懐に仕舞って持ち歩けばいいものの、視界に入っていないと落ち着かない。それゆえにリボンは繰り返し汚され、エザレイは手間を取って繰り返し洗う羽目になる。 「女性ものに見えますね」 「女が着けるには色が渋す――」 頭痛がした。 息切れに、エザレイは不自然に言葉を切った。これも覚えがある。舌が、台詞を憶えている。 「だ、大丈夫ですか? 無理に思い出そうとしないで下さい」 隣の少女が泣きそうな顔で心配している。それがあまりに興味深いからか、つい苦しさを忘れられた。 「カタリアの妹、優しいところはあいつと一緒だな。あんたら姉妹からは、春の日差しみたいな匂いがする」 「そ、そうでしょうか」 聖女ミスリアは照れたように片手で耳を撫でた。 「故郷も、常春なんだったか」 「はい。ファイヌィ列島は、年中ぬくぬくしたところです。草木がよく茂って、虫や花や魚も、いつも元気そうでした」 |
56.a.
2016 / 04 / 30 ( Sat ) 耳鳴りがひどい。 小雨がぴたぴたと降りしきる音や、女神の祭に伴う騒がしさを抜けて、嫌に高い響きが頭蓋を満たしている。体外かそれとも体内より出でた事象であるのか、エザレイ・ロゥンには判断がつかなかった。「どうぞ」 正面に、大きな皿を持った女が現れた。何かの肉切れを配っているらしい。笑顔で皿を差し出されては、一枚だけでも手にせずにはいられない。 口に運ぶと、芳香がツンと広がった。燻製だ。 実に味わい深いそれを咀嚼している際に、電流のような悪寒が背筋を走った。 この肉の旨みに覚えがある。それに留まらず、籠から花びらを散らして走る子供たちの姿や、「燻製たまごどうぞー」と人込みの中から声を張る少年や、平和と豊穣への感謝を込めた合唱にも、覚えがあった。 かつて一度は見た景色だ、と潜在的に彼は感じ取った。 ――あの時に傍で笑っていた人物は、もう居ない。たぶん、どこにも―― 彼の中ではその事実に疑う余地など無かった。 ごくん、とエザレイは肉切れを飲み込んだ。 「すごく美味しいですね。何の肉でしょうか」 後ろに立っていた小柄な少女が、指先に付いた肉汁を舐めている。彼女の左右に立つ二人の若い男がそれぞれ、「わからん」「なんだろうねー」と答える。 「ロゥンさんにはわかりますか?」 「……エザレイでいい。地域の野生大型肉食獣だろ」 深く考えずに彼は答えを提示する。 突然、ハッとなった。サエドラの町で振舞われる燻製の施された食物の数々。その大部分を占めるのは、謎の四足歩行動物。町の中でそのような生き物は見ないし、外れの森に行ってもちらりとも姿を目にしたことは無い。最近の経験でも、過去の記憶の中でも、皆無だ。 それには何か特別な意味があったはずだ。だがどうにも、半端な具合でしか思い出せない。 エザレイは最後尾を歩く女を目の端で認めた。紅褐色であったはずの長い髪を黒い染め粉で隠している。 助言したのは自分だ。赤い髪はサエドラ付近では厭われるはずだから誤魔化した方が良い、と。女の保護者か何かであるらしい銀髪の青年は理由を求めたが、よく憶えていないの一点張りで通した。そうして当人は垂れ気味の黒い瞳を瞬かせて、従ってくれた。 実は自分も以前は赤茶色の髪だったのである。最初に会った日に、カタリアはスターアニスの種のようだと言った―― どういう風に厭われるのか、原因は何なのかまでは思い出せないが、間違いなく毛嫌いされている、それだけはわかっていた。 そして何故か、この者たちには濁してしまった。 |
いっときのやつ
2016 / 04 / 26 ( Tue ) みなさまいつもお世話になっとりますー(?
http://estar.jp/.pc/_ofcl_evt_outline?e=146752&_from=top_ann&_entpt=3656 なんか、ちょっとしたコンテストで大賞を取ってしまいました。 これ賞金どうやって受け取るよ…で… 親に相談することになりw 我が趣味の一端が身内バレしたわけだが、まだ反応はない。あ、やばい、そのうち身内はこのブログも読むのかw? ヤメテー ヤメテー ちなみに彼氏は知ってるが、奴は日本語が読めないのでセーフ( このブログに来てGoogle translateとかにかけない限りはセーフ( なんで私は身バレの話をしているんだっけ。 えーと、さまざまな形での甲姫作品への応援ありがとうございますw! うれしか! |
55.i.
2016 / 04 / 25 ( Mon ) 「カタリア…………? じゃない、か……似てるけど、幼すぎる」
「え」 「誰だ」 不可解な発言に続いて、男がミスリアに顔を近付けようとした。 一歩、二歩。ゲズゥは大股で近付いて、間に割って入る。 そこでシュエギは初めてミスリアの他にも人間が居ることに気付いたようだった。 パニックに彩られた視線があちこちを飛び跳ねて、他の面々を順次巡っていく。 「おまえは――おまえらは、誰だ!?」 物狂わしい叫びが嫌に煩く鼓膜に響く。思わず身じろぎをした隙に、ミスリアが背後から飛び出て、惑乱の真っ只中にある男の肩を小さな両手で掴んだ。 「落ち着いて下さい! 私は聖女ミスリア・ノイラートと申します。カタリア・ノイラートとは血の繋がった姉妹です! 似てるのはそのためです!」 びくりと男の筋肉が痙攣して、静止した。 「姉妹」 「はい、そうです」 「あー……あいつ、歳の離れた妹が居るって言ってたな」 感心して息をついたのも束の間、シュエギは表情を歪めて口元に手をやった。次いで上体を捻ってミスリアの縛を逃れ、後方の茂みに向かって反吐を出した。 極度のストレスか怪我の後遺症が原因か、生理現象はしばらく続いた。 この機にゲズゥは今一度状況を分析した。そして直感に従い、抜きかけていた短剣を鞘に戻した。 「はいはーい。ちょっと整理しようかー」 焚火から離れてこちらに来たリーデンが、男の隣で膝を揃えてしゃがむ。膝の上に組んだ腕をのせ、にっこりと笑った。 「記憶と人格の統合は済んだかな」 「……あんたは、いやあんたらは――……俺が道端で寝てた時に、出会った――んだったか」 胃の内容物を一通り大地に還したシュエギが、しわがれた声で答えた。 「正解だよ。とりあえずお湯飲むー?」 無音で現れた従者の女の手からリーデンの手へと、水筒が渡る。男は有り難そうにそれを受け取ってごくごくと飲み干した。空になった水筒は三者の間を、今度は逆の順に渡って戻る。 「君は、自分がダレなのか思い出したんだね」 リーデンが問いかけると、男はおもむろに胡坐をかいた。数度の咳払いを経て、答えを語る。 「俺は『エザレイ』って名だった。エザレイ・ロゥン。聖女カタリア・ノイラートに誘われて、大陸を旅してた……いや、旅するところだった……?」 取り戻したばかりの記憶が定着しないのか、実名をエザレイと名乗った男が、目を泳がせている。 これでは未知の「箱」の蓋はまだ開いていないのと同じだ。 「ロゥンさん。改めて、気分はどうですか」 ミスリアが恐る恐る問うた。 「ああ、さっきは怖がらせて悪かったな、カタリアの妹。気分は良くないが、一応生きてる。あんたのおかげだ。ありがとう」 男は座したまま、深く頭を下げた。 「礼には及びません――」 「そうじゃないでしょ、聖女さん。僕らが訊きたいのは体調のことじゃないよね」 裾をはためかせてリーデンが立ち上がる。男に目線を合わせたしゃがんだ体勢から、見下ろす体勢になった。 「ずばり、君は、全部思い出したの?」 容赦なく主点を探るリーデン。 蒼白な面に暗鬱とした笑みを浮かべ、その男は応じた。 「…………全部じゃない」 「ふうん?」 「全部じゃねえよ。一番肝心なトコだけ――あいつらと会えなくなった時期の、前後一か月くらいの記憶だけがまだ霧の向こうだ」 ――やはり箱の蓋は開き切っていなかった。 ゲズゥは何とも言えない心持ちでミスリアの反応を窺った。小さな聖女は拳を握り締めた以外には、これと言って動きを見せていない。 「使えない奴だって思ったか?」 「うんまあ、ぶっちゃけ思ったけど」 包み隠さずに答えたリーデンを見上げて、男は陰鬱に笑った。 「銀髪、あんた俺に怖いかって訊いたよな。そりゃ怖いに決まってる。忘れてないと生きてられない過去なんて、絶対ろくでもないだろ。取り戻したいわけあるか」 数度咳き込んでから、続ける。 「でもいつまでも大事なモノが欠如したままなのは、それはそれで、気持ち悪い。こうなったら腹括るしかない」 男の自嘲気味な嘆息が、先ほどの叫び声とは違った意味で鼓膜に長く残った――。 ん~~、あとがきはなしでいっかな? 次回でお会いしましょう! エザレイは「あんた」で他人を指します。混乱してた間だけ「おまえ」になってました。 |