57.b.
2016 / 05 / 19 ( Thu )
「で、君は理性的な時間に入ったみたいだし、右に行くべきという根拠を聞かせてもらおうか」
 喉の筋肉の収縮が収まったのと時を同じくして、銀髪がハンカチを差し出してきた。素直に受け取る。
 エザレイには目の前の胡散臭い美青年の笑顔よりも、言われたことの方が気になった。

 ――理性的な時間?
 とは、どういう意味か。考えるのが大儀なため、涙やら鼻水やら唾液やらを拭うことに専念した。拭き終わると、呼吸を整え、答える。

「それは右の道が……聖地に向かってるからだ」
「前言撤回、君の理性は綱渡りみたいなものなのかな。で、左の分かれ道には何があるの? 口では『右に行こう』って言ってる割には目がそっち睨んでるけど?」
「……は?」

 ここに鏡は無く、自分の表情が見えないが、目に力が入ってしまっているとしたらそれは体調が悪いからであって、何かを睨んでいるからではない。反論しようとして立ち上がると、足首が引っ張られたような感覚があった。足がもつれかけて、咄嗟に馬の鞍を掴んだ。
 何と、左の足首に縄が掛かっているではないか。繋がれた先は馬首である。色々と言いたいことが浮かぶも、しばし黙り込んでしまった。結局「あんたがやったのかコレ」の質問が口をついた。

「うん。うちのお姫さまの要望でね」
 銀髪の青年が親指でくいっと指さす先を振り返る。お姫さまと呼ばれた聖女ミスリアが肩を小さく跳ねさせた。仕草こそは萎縮しているようだが、茶色の双眸には揺るがぬ決意が垣間見えた。
「貴方がまたいきなり走って行きそうで、心配だったんです。すみません」
「話が見えない」
 抗議した。が、なかなか答えてもらえないどころか目を逸らされた。

(なんなんだ)
 何故彼らによそよそしくされるのか、その原因を思い出そうとしても、要所要所で記憶に穴が開いている。これまでの霧に隠された感じとはまた別の、記憶障害の形。
(俺は一体いつまで、欠陥を抱えていなければならないんだ)
 苛立たしい。足元の土を蹴ったが、それはなんとも意味の無い行為だった。むしろ、周りの目を更に冷めさせることだろう。自己嫌悪の波が押し寄せる。
 ところが、項垂れていたエザレイの視界の中に、ずいっと見慣れた棒状の物が現れた。
 顔を上げると、黒髪の青年が何かを差し出しているのだとわかった。エザレイが使っていたグレイヴだ。

「何か言いたそうだな」
「…………」
 声をかけてやるも、返事は無い。その男は無表情に手元のグレイヴに視線を落とした。一緒になって柄部分に目をやると、直線が直線でなくなっていることに驚いた。
「なんで折れて――」
 ぐらりと、世界が歪む。五感に蘇る手応えに震撼した。

「はは、はははは。そうか。生き残りが、居たんだな」
 喉から不気味な笑いが漏れていることに、エザレイは自分では気が付かない。
「一人残らずぶっ潰してやらないとな。今度は邪魔してくれるなよ」
 折れてしまった愛用の武器に、手を伸ばす。指先が柄に触れそうな距離で、いきなりそれは地面に落ちた。
「……?」
 不愛想な青年が、掌を大きく広げて取り落としたらしい。

「骨を折り、胴から首を切り離すのは、面白いか」
 青年の言葉に侮蔑の響きは無い。純粋に知りたがっているように思えた。
「まさか。人を殺すことには当然、生理的な抵抗がある。仕方ない状況だったとしてもあとあと嫌悪感を――……おぼえていた、はず、なんだけど」

 答える最中に我に返った。掌に残る手応えを思い浮かべれば胸の内に広がるのは嫌厭(けんえん)ではなく、カタルシスのような興奮だった。
 乖離している。精神と肉体が、だろうか。本来の人格と今の人格が、だろうか。

「だって、あいつらは……」言いかけて、エザレイはいつの間にか自分が左の分かれ道を睨んでいるのだと自覚する。無理やり首を方向転換させ、ミスリア一行とちゃんと目を合わせた。「悪い。順番が、違ったな」
「順番ですか?」
 聖女ミスリアが訊き返したのに対し、ゆっくりと頷く。

「聖地に行こう。カタリアに、会いに」
 吐く息のひとつひとつが、まるで最期の息になりそうなほどに重い。それだけ、自制するのに膨大な精神力をかけていた。雨を吸って重くなった服が、枷以上に枷に感じられる。

(まだだ。もう少しだけ踏ん張れば、会える)
 瞼を下ろして、深呼吸する。
 春の日差しのように笑った少女を想った。栗色の髪に編み込まれた左右の三つ編み、そこに結ばれていた灰銀色のリボン。彼女はいつからあれをつけるようになったのだったか――それさえも忘れてしまった。

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