二 - f.
2017 / 03 / 08 ( Wed )
「さすがだよエラン。主役が遅れて参上するとはイイご身分だね」
 アストファン公子の冷やかしをものともせず、青年はパヴィリオンの階段を上がるなり唇を開いた。

「ヌンディーク公国第五公子、エランディーク・ユオンです。公位継承権は、三位となります」
 練習でもしていたのか、完成された口上だった。一句ずつ丁寧に発音されていて聞き取りやすく、間の取り方もほど良い。
 けれどもそれ以上に気になる点がある。

(……顔が半分しか見えないのに、なんて鮮やかな作り笑いなの)
 意外にも、仲間意識のようなものが芽生えかけた。セリカも愛想笑いばかりしていて口周りの筋肉が痛いのだからか、親近感が沸いてしまう。
「お会いできて光栄ですわ、エランディーク公子」
 こちらも自然を装った笑顔で応じる。

「何かあったのか? こうして皆が遠方から集まってきたのに、断りもなく晩餐の席に遅れるのは……感心しないな」
 第一公子ベネフォーリが眉根を寄せて、第五公子に弁明を求めた。しかしそこでも第二公子が横槍を入れた。
「見え透いた嘘こそ感心しませんね、ベネ兄上。我々が帰ってきたのは何も、可愛い弟の結婚を祝う為ではないでしょうに」

「…………」
 絨毯を囲って座る五人の公子と三人の妃を包む空気が、どんよりと重苦しくなった。
(どういうことなの?)
 結婚式の為でないのだとしたら、この人たちは何の為にムゥダ=ヴァハナに帰ってきたと言うのか。
 嫌な空気の中で平然としている者が一人、それは遅れて登場した当本人であった。

「彼女には申し訳ないことをしました」
 第五公子は優美な身のこなしで身を屈めて石の床に膝をついた。お待たせしてしまってすみません、とこちらに向かって頭を下げる。
 内心では「まったくだわ。昼間の態度についても謝りなさいよ」と毒づきながらも、セリカは控えめに微笑して会釈を返した。

(憶えてなかったりしてね)
 改めて考えてみると、今のセリカは昼間とはかなり印象が違うはずだ。化粧を施した顔で儚げな表情を浮かべているし、一番目立つ特徴である、黒に近い赤紫色の髪は完全に被り物に隠れている。
 エランディーク公子はそのまま空いている席で胡坐をかいて、気だるそうに言葉を継いだ。

「公女殿下とお会いするのもご馳走を口にするのも楽しみにしていましたよ。ただ、そうですね。兄上たちと顔を合わせずに済むならそれに越したことはないと思い、つい足が重くなってしまいました」
 一瞬セリカは耳を疑った。左斜め前の青年をまじまじと見つめるが、ちょうど布で隠れている側なのでどんな表情をしているのかがうかがえない。

(面と向かって凄いことを……)
 肝が据わっているのかただの馬鹿なのか。
 これでまた空気が重くなるのかと思えば、膝を叩いて大笑いをする者がいた。

「あははは! お前は清々しいほど協調性の無い子だね」
「アスト兄上。協調性って、あなたがそれを言いますか」
 と、ハティルが呆れたように頭を振っている。
 見かねたベネフォーリ公子が青ざめた顔で額を押さえた。

「公女殿下……弟たちが何度も失礼を……至らぬ点が多くて、申し訳ありません」
「いいえ。皆さま、とても溌剌としていて微笑ましいですわ。いずれはわたくしもこの輪に加われるのかと思うと胸が躍ります」
 むしろ変にかしこまられるよりは、多少失礼な方が人間味を感じる。だからと言って、自分が輪に加わっても同じように振る舞えないのが暗黙のルールだが。

「そう仰っていただけると救われます」
 裏の無さそうな笑顔でベネ公子が応じた。やはりまともに話ができるのはこの人だけだ。
 彼の勧めでアダレム公子が食前の祈祷を唱える。そうして正式に食事会を開始し、いつの間にか庭に集まっていた楽師が演奏で場を華やがせた。

 ここでは食器を使わず、手で食べるらしい。掴みにくそうなものはパンで包んで口に運んだ。
 お口に合いますかと第一公子が問えば、美味しいですわとセリカが答える。刺激的な味や香りは慣れないが、基本的に料理は美味だった。

(これからずっとこういうのを食べるんだから、早目に慣れないとね)
 スプーンがあればいいのにと思うが、わざわざ使用人に持って来させようものなら、自尊心に関わる。
「時に姫殿下。君は、気になってるんじゃないかい」
 余計なことしか言わない男としてすっかりセリカの中でイメージが定着しつつある第二公子が、ふいに話しかけてきた。

「はい?」
「エランは諸事情により、いつも顔の右半分を覆っていなければならないのだよ」
 アストファンが楽しそうに告げる。
 セリカの薄笑いが引きつった。

(そりゃあ気になってるわよ。でもその言い方は無神経じゃないの)
 本人が話題にするならともかく。いくら家族でも、この切り出し方は大いに問題があるだろう。
 座席の位置関係により、当のエランディーク公子がどんな反応を示しているのかが知れない。反論するわけでもなく、彼はもしゃもしゃと咀嚼音だけを発している。

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二 - e.
2017 / 03 / 07 ( Tue )
「おいアストファン! おまえはまた適当なことを! ナジュ州に残してきた三人の妻が泣くぞ」
 ――三人!?
 二度目の不覚、セリカは表情筋を驚愕に歪めた。すぐに我に返って微笑を戻したが、既に誰かに見られたかもしれない。

「でもベネ兄上、私まだ子供産まれてないですし、保険の為にあと三人は娶ってもいいと思うわけですよ」
 彼がそう抗議すると、叱った側の男性は目に見えて怯んだ。
「それはまあ……子が産まれないのは気がかりだが……」
 怒る勢いが萎えたのか、ベネと呼ばれる男性が居心地悪そうに座り直した。

(なんなのこいつら、調子狂うわ)
 頑張ってお行儀良くしようとしていた自分が滑稽に思えてくる。
 しかし、今のやり取りで察せたことが幾つかあった。
 第三の前に第五公子まで飛ばされたのだから、先ほどの「揃ってないのは料理だけじゃない」発言の意味するところがハッキリわかる。

 待ってやらなくていいのかとも思うが、それはこの際忘れよう。
 成人している左から三人の公子たちは、普段は己の管轄する区域で暮らしていると考えられる。妻と子供を州に残して、自分たちだけで都に帰省したのだ。

「いけませんよ、アスト兄上。此度の縁談はエラン兄上でないと成り立ちません。我が国の属領であるルシャンフ領を通る行路を、姫君の国が欲しがっているんですから」
 おかしくなった空気を修正するのは、またしても第六公子のハティルだ。
「そうか、そういえばそうだったね。ああ、政略の絡む結婚は面倒だ」
 第二公子は大袈裟に嘆いてみせた。
 よもやあんたは政略の絡まない結婚ばかりしてきたのか――と訊き返してやりたいが、我慢する。

(ふーん。第五公子はエランっていうのね)
 耳に入った僅かな情報を拾って、吟味する。名前の響きは嫌いじゃない。だからどうということはないが。
 そうしてようやく、最初に応対してくれた男性の番となった。

「私が第一公子、長兄のベネフォーリ・ザハイルです。ベネと呼んでくださって構いません。これからは実の兄弟と思って接してください、公女殿下」
「ありがとうございます」
 ベネフォーリが会釈してきたので、セリカも会釈を返した。
 この人は故郷の兄を彷彿させる。どことなく暑苦しいが、頼りになりそうな雰囲気。それがよく知っている人間に似ているためか、話していると安心できた。

 男性全員の名前がわかって、料理も出揃ったように思えた。残るは女性の紹介か、と右に視線をやる。
 すぐに彼女たちも奥から順に自己紹介していった。これが驚くほどに流れ作業だった。

「わたくしが第六と第七公子並びに第二公女の母です」
「わたくしは第一、第四公女とウドゥアル公子の母です」
「わたくしはベネフォーリとアストファンと、第三公女の母です」
 静かに一言ずつ述べて、妃たちは再び押し黙る。

(名前までは名乗らないのね)
 息子と比較して、まるで自己主張をしない女たちだった。これがしきたりなのか、それとも彼女たちがそういう性格であるからなのかは、判断しかねる。
 よろしくお願いしますと定型の挨拶を返す間、セリカはひとつのことが気になっていた。
 第五公子の母親と名乗り出た妃が居なかった。
 どんな事情があるのだろうかと考え出したところで――

 いきなり「ぎゃあ」と叫んで、パヴィリオンの床に寝そべっていたウドゥアルが跳ね起きた。全員の注意がそちらに向く。
「お、おまえ、いるならいるってなんとか言え!」
 ウドゥアルはわなわなと震える指を差して庭の中の何者かを非難している。人差し指の数フィート先に、いつの間にか現れていたのか、いかにも屈強そうな戦士風の男が佇んでいた。

「タバンヌス。お前の主も来ているのだな?」
 第一公子ベネフォーリがその男に問いかけた。
 戦士は無言で一歩横に移動した。彼の背後から、体付きの細い青年が進み出る。

 ターバンから外套に至るまで、青年は深みのある紫色を身に纏っていた。
 そこでセリカは、図らずも自身が与えられた衣装も紫を基調としたものだと思い出す。もし作為的に合わせられたのだとしたら――自ずと知れよう。この青年こそが、明後日には結婚せねばならない相手――

(ええええ!?)
 驚きすぎて転げそうになるも、絨毯を両手で掴んで必死に堪えた。
 青年は、初めて会う人間ではない。服装は全く違うが見間違えようがなかった。
 相変わらず顔の右半分を被り物から余った布で覆い隠していて、左耳からは涙滴型の青い耳飾を垂らしているからだ。

(こいつ、昼間の――!)
 唖然としてセリカは青年の一挙一動に釘付けになった。

 森で会ったのはごく短い時間のことで、相手にそれほど関心があったわけでもないので、顔立ちなどの細かい特徴はほとんど記憶していない。だが一致した特徴の特異性により、同一人物であると確信が持てた。背格好も記憶の通りだ。

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二 - d.
2017 / 03 / 05 ( Sun )
「アスト兄上、おやめください。見苦しいですよ。他国の姫君の前でこれ以上僕たちに恥をかかせるおつもりですか」
 まだ声変わりも済んでいないような、耳に優しい声音は、それでいて毒を孕んでいた。

「ハティルの言う通りだ。確かに揃ってないが、公女殿下の時間をいたずらに浪費するのもいけない」――ベネと呼ばれた男は楕円の最奥へと首を巡らせた――「アダレム、任せたぞ」
 つられて全員の視線が、幼児の元へと集まった。
 五、六歳くらいの男児はびくりと大きく肩を震わせる。それから目を泳がせること数秒、やっとのことで口を開いた。

「えっと……よ、ようこそ、おこ……おこしください、ました。ぼくは、ぬんでぃーく公国、だいなな、公子。あ、あだれむ……アダレム、ナーガフ、です」
 何度もどもりながら彼は名乗りを上げた。
 幼児、第七公子、アダレム。セリカは要点だけをかいつまんで脳内で復唱し、より効率的に情報を覚えようとする。ちなみに顔は、席が離れているのであまりよく見えない。

「セリカラーサ・エイラクスですわ。よろしくお願いします、アダレム公子」
 ふわりと微笑んでそう返すと、アダレムは萎縮するように身を引いた。この幼児は恥ずかしがっているだけなのか、それとも笑いかけたのは間違った作法だっただろうか。セリカは本気で悩みかける。
 先ほどハティルと呼ばれた少年が、また嘆息した。

「大事なことが抜けているぞ、アダレム」
「え、え、ぼくなにか、まちがえた」
 アダレムは泣きそうな顔になっている。それを、彼の隣のハティル少年はきつい声音で責め立てた。
「お前が第一公位継承者、つまり父上の跡継ぎだってことも言わないと」
「あ、あ」
 いよいよ泣き出す寸前の第七公子。そのやり取りを眺めながら、セリカは失念していた事実を思い出した。

(そうだった! ヌンディークは末子相続の国だったわ)
 長子相続の国が大多数のこの大陸では珍しく、最年少の公子が後継者となる構図である。確かこの国のシステムの下(もと)では、上の兄弟たちは成人したら巣立って、採掘場を任されたり、州や領地を治めていく。富をもたらし発展を促し、見聞を広めて末弟に伝えたりと、色々な利点はあると言われている。

 こうして考えると、この場に大公の兄弟が居ないのは皆それぞれの州に残っているからだろう。
 物理的な距離を置けば公子同士で争うことも少なくなり、円満に国は回っていくらしい。加えて、後継者が若いということは、大公と大公の即位までの間隔が長いということ。

 頻繁な代替わりを避けることで政の混乱も避けられる。反面、劣った為政者に当たれば長く国は苦しむことになりかねないが、そうならないように他の人間が色々と支援するものだ。

 要するに、年が若いほどに身分が高いのだ。
 だから兄たちが何かと場を仕切ることがあっても、最後には第七公子の顔を立てているのか。席も、パヴィリオンの奥から入り口に向かって幼い順に座っていると推測できる。
 ――女性側の序列はどうなっているのかよくわからないが。

「アダレム殿下が次の大公陛下となられるのですね」
 相槌を打って、なんとかその場を収めようとする。アダレムは鼻を啜りながらも点頭した。
 紹介は次に進んだ。

「……では続きまして、僕は第六公子のハティル・ナーガフです」
「初めまして、ハティル公子」
 先ほどから何度か発言している彼は、十二か十三歳くらいの生意気そうな――もとい利発そうな少年である。隙の無い姿勢や吊り上がった形の両目も相まって、鋭い性格を思わせた。

(第六、ハティル。手厳しい感じ)
 この少年は、どこか近寄りがたい雰囲気である。今後もあまり関わり合いにならない方がいいのかもしれない。
「おれは第四のウドゥアル。ウドゥアル・ヤジャット。なあ、まだ食べちゃダメかー? 腹減ったー。宴だろ、踊り子はいつ来るんだ」
 ハティルの隣の青年が言い終わらない内にだらしなく寝そべった。セリカを一瞥した後、使用人を急かすことにばかり気を取られている。

(わあ、ひどい)
 口では適当な挨拶を返しながら、セリカは脳内でまた要点を復唱した。
 肥満怠慢、第四公子のウドゥアル。この男は二十歳くらいだろうか、ゴブレットを手に持ち、顎鬚を撫でては出っ張った腹をかいている。似たような服装の人物が並ぶ中、この男は横幅が際立っているので覚えやすそうだ。

 否。どうにも全員が濃い人格を有しているためか、案外早く覚えられそうな気がする。公太子となるアダレムを除いて、公子たちはどれも自己主張が激しい。
 ついでに言うと、ハティルが汚いものを見る目で隣の兄を見下ろしている。上の二人に至っては、ウドゥアルの動向を完全に無視していた。

「はいはい、病で死んだ第三を飛ばして、次は私だね。さっきも言ったけれど、第二公子のアストファン・ザハイルです」
 長髪の美形が妖艶に笑ってこちらを見つめた。かと思えば、おもむろに彼は下唇を舐めて身を乗り出した。

「それにしてもゼテミアンの姫殿下、君は実にきれいな眼をしているね。第五なんてやめて、私の妃にならない?」



誰も覚えてないかもしれませんが、アルシュント大陸では母違いの兄弟がいる場合は母の苗字をも名乗る風習があります。

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二 - c
2017 / 03 / 03 ( Fri )
 すると人影が一斉に立ち上がった。席はわかりやすく男女に分かれている――入り口から向かって右側に女性が三人、左側に男性が四人。
 更に奥に一人。セリカの立ち位置から最も離れている、楕円の対極に居る人影は、妙に小さかった。

(幼児……?)
 身長の低さといい肩の細さといい、子供で間違いないだろう。不思議に思ったものの、すぐに思考は遮られてしまう。
「ようこそ、殿下」
 一番手前に居た長身の男が代表して迎えてくれた。彼は膝に手を置き、腰を直角に折り曲げた。この国の旧い方式での礼だ。

「こんばんは。今宵はお招きいただき、ありがたき幸せにございます」
 セリカも同様に深く腰を折り曲げて礼をする。
「長旅でお疲れでしょう。さあ、お席へどうぞ。すぐに料理を運ばせます」
 長身の男はにこやかに言って、セリカの座るべき位置を掌で示した。女性側で、ちょうど一番手前の辺りがくっきりと空いている。
 その言葉を機に、他の六人も腰を下ろしていった。

「ありがとうございます」
 条件反射で微笑を返した。自らの席へと足を運びながら、さりげなく他の女たちの座り方を目に入れた。彼女たちは一様に膝を揃えてはいるが、踵を各々好みの角度で斜め横にずらしているようだった。
(踵の上に腰かけなくていいのなら、座って食事をしても足が痺れなくて済むわね)
 納得して、皆に倣う。乱れた衣服の裾を丁寧に拾い上げて揃えたりもした。

 ――さてどうしたものか。
 絨毯に施された美しい刺繍を視界に収めながら、この場で守るべき作法を幾つか思い起こす。視界の端で、燭台の炎がちらついた。
 きょろきょろしてはならない。必要以上に異性と目を合わせてはならない。

(無茶な話よね。向かい側に居るのが異性だけだってのに)
 集まっている面々がどんな人間なのか、じっくりと観察したい。好奇心が疼いて仕方がないのに、セリカは膝上で組み合わせた自身の指先を見つめることしかできない。
 背後で使用人たちが動き回っている気配がする。彼らはよく訓練されているのだろう、音を一切立てずに馳走を盛った容器を運んでくる。セリカの侍女たるバルバも、手伝っているはずだ。
 このようなぎこちない時間は、幸いと長く続かなかった。

「では料理が揃うまで、我々から殿下に順に自己紹介をいたしましょう」
 最初に迎えてくれた男がそう提案したのである。
(よしきた!)
 意識して、なるべくゆっくりと顔を上げた。

 真正面には言い出しっぺの彼が座している。二十代後半だろうか、立派な髭を生やし、威風堂々としていていかにも公族然とした風貌だ。頭には布を巻いているが、女性のそれとは違って布をより立体的に分厚く巻いている。これは確か「ターバン」と呼ばれる代物であった。

「お願いします」
 短く答えて、男の次の言葉を待った。
 ところが横合いから、正確には右に一席ずれたところから、別の声が上がった。
「いいんですか? 揃ってないのは料理だけじゃないでしょう、兄上」
 セリカは思わず言葉を発した者に視線を移した。

 艶っぽい声で話した男は、これまた艶っぽく微笑んでいる。歳の頃はそう変わらないだろうに、彼が兄と呼んだ隣の男との対比がまず目に付いた。
 同じ伝統的な衣装であっても、弟の方は詰襟のシャツをはだけさせている。かけ外されたボタンの間から胸板が覗くが、その着崩しようはだらしないというよりは、色香をうまく演出していた。

 長い髪は高く結い上げられ、そして何故かターバンは解かれて肩にかかっているように見えた。
 髭を生やしていないからか中性的な印象を受ける。
 彼はこちらの眼差しに気付いて、満面に笑みを浮かべた。

「ああどうも。私はアストファンと申します、麗しい姫殿下」
 不覚にもセリカは返答に窮した。建てた片膝の上で頬杖をつき、流し目を送る美形の男がそこに居るのだ。客観だけでなく主観で見てもたいそう色っぽいとは思うが、この場合はどう反応するのが正解だろうか。
 とりあえず「うふふ」と笑っておいた。

「アストファン、おまえ……! 順番を守れ! それと、ターバンはちゃんと頭に巻けと何度言わせれば気が済むのか!」
「ああ、耳元で叫ばないでください、ベネ兄上。そんなに形式を重んじる必要があります? これから家族になるというのに」

 煙たそうな目で、長髪の美形――アストファンというらしい――がのんびりと仰け反った。
 自由な男だ。おそらくは場の流れをつっかえさせる類の自由さである。
 それを制したのは、アストファンから二つ右の席の少年の特大なため息だった。

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二 - b
2017 / 03 / 02 ( Thu )
 現在は病床に臥せっているらしいヌンディーク大公からいただいた、豪華なネックレスだ。ガーネットとカーネリアンのビーズを何列にも連ね、時には大きく平らな石で花弁や葉を模している。離れて眺めれば満開の花と成るそれは、セリカの首の根元から胸を覆うまでに広がった。
 公女として生きてきて日が浅くないが、これほどの代物は初めて見る。一目で虜になるような素晴らしい一品だった。

「そういえば姫さま、わたし他の女官から聞いたんですけど」留め具をかけてくれているバルバが、セリカの肩越しに呼びかけてきた。「ここでは、床に座って食事をするそうで」
「えっ、床?」
「椅子を使わずに、専用の絨毯を敷くそうですよ」

「なんだか食べ辛そうね」
 体勢が辛くないだろうか。しかしなるほど床に座るのならば、この衣服の重装ぶりも頷ける。膝丈のチュニックの下にスカートを、踝(くるぶし)丈のスカートの下にもズボンを履かされているのだから。

「お行儀よくしていられる自信がないわ」
「がんばってください」
 苦笑してバルバが手を放した。
 ネックレスのずっしりとした重みを鎖骨や胸元に感じながら、セリカは姿見の前で回転した。裾の長いスカートは広がりようも緩慢だが、それがまた心地良い。
 そこにバルバが「完璧です!」との声援を添える。

「何があっても、どんなに派手に失敗してもわたしは姫さまの味方です! 泣き付く胸が必要になったら、このバルバティアがいつでもお貸しします!」
「あたしが失敗するのが当たり前みたいに言うわね」
 くすくす笑って、セリカは自分よりやや背が高くて肉付きの良い侍女を抱擁した。

「バルバの胸があれば、安心だわ。ありがとう」
「いいえ……わたしにできることなんてこれくらいですから。後はお願いします、公女さま」
「!」
 驚きに彼女を見上げる。最後の一言を反芻して、頭の奥が冴えていった。
 それは、ゼテミアン公国の一国民としての頼みだったのだろう。

「我が国の更なる発展の為、新しい貿易ルート開通の為に。任せなさい。ヘマなんてしないわ」
 ――縁談は商談、全ての段取りには意味がある。
 ヌンディーク公子との婚姻をもって本国が富を得るのならば、価値のあることだと言えよう。

 左手首に肌身離さず付けている、貴金属の細い腕輪に口付けを落とした。これは代々のゼテミアン大公家の人間が与えられる、身分の証だ。外側にはセリカの名と祖国を讃える一文が、内側には父母の名が刻まれていた。

「――行きましょうか」
 それからピンと背筋を伸ばし、ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクスは不敵に微笑んでみせた。

_______

 香炉の煙が夜風に乗って舞い上がるさなか、出来立ての料理の芳香が微かに混じっているのがわかる。
 なんて美味しそうな匂いだろう、と喉が反射的に伸縮した。次いで呼応するが如く腹の虫が鳴りそうになるのを、セリカは腹筋に力を入れて阻止した。

(あぶない、あぶない)
 ここは大いに人目がある。刹那の焦りは微塵も面に出してはならない。
 回廊を滑るようにして進み、先を行く案内役の者の背中を見つめた。やがて回廊の果てにて彼はぴたりと足を止め、左を回り向いた。

「公女殿下のご到着です」
 良く通る声で、案内役が宣言した。北の共通語だった。
 このアルシュント大陸はおおまかに北半分と南半分に分けてそれぞれに定められた共通語がある。故郷では南の共通語が使われているのに対し、ヌンディーク公国では北の共通語が使われる。ゆえにあまり生活の中では聞かないが、公女ほどの身分ともなれば、幼少の頃から両方とも学ばされてきたので何ら問題はない。

 案内役が横に退いてつくってくれた隙間を、セリカは恭しく通過する。回廊からいくつかの段差を下りた先は、中庭へと連なる石畳の道だ。
 石造りの広大なパヴィリオンの方へと、真っ直ぐに向かう。半月を高く掲げる晴天の下、静かな庭を横切っていった。

 パヴィリオンの中には、楕円形の絨毯を囲んで待ち受ける人影が見える。
 今度は段差を上がっていく。一歩、また一歩、ゆっくりと。
 柱の合間をくぐって、セリカは屋根に守られた空間に足を踏み入れた。

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00:34:50 | 小説 | コメント(0) | page top↑
二 - a
2017 / 03 / 01 ( Wed )
 己が思い描く「理想の姫君」像が実は陳腐な虚像だとセリカは感じていた。そう感じていながらも、今夜はその虚像に少しでも近付こうと思って、柄にもない工夫に勤しむ。
 たとえば、うなじや手首の内側に香油を塗ってみる。
 たとえば、窓際に立って優雅な仕草で頬杖を付き、夜空に向かってため息をついてみる。

「これ何の香りだったかしら、バルバ」
「プリムローズですよ。姫さま」
「ふうん、いい匂い」
 名残惜しいような気持ちで、香油のビンをそっと閉めた。プリムローズ、先駆けて咲く春の花。

 ――馬鹿みたいだと思う。
 上辺だけ着飾っても、根底が変わるものではない。ほとんど宮殿に閉じ込められて育った身でも、自分はやはりそこらの深窓の姫君とは違うのだった。うまく説明できないが――仕草や立ち居振る舞いが問題なのではなく、思考や感性が別物なのである。

(男の兄弟と気兼ねなく接することが許された時点で、あたしの窓は開け放たれてたものね)
 そういう意味では、ずっと家族に甘やかされてきた。
 大公妃たる母の気品を正しく受け継いだ姉と妹に挟まれていたからか、 セリカは跳ねっ返り娘でいても大目に見てもらえた。こちらの不足を補ってありあまるほど、二人は模範の公女だったのだ。

(甘やかされたツケを払う時か)
 わかっているからこそ、常よりも着飾る努力をする。身支度のみにこんなに時間と手間をかけたのは、十四歳の頃に迎えた成人式以来ではないだろうか。
 姿見で全身を見直した。なるほど、立派な貴婦人に見えなくもない。

 先方が用意した衣装にほとんど着替え終わって、残すところはベールだ。何故頭髪を布で隠さなければならないのかが理解できないが、しきたりだと言うので、従う。とはいえ、セリカやバルバティアでは巻き方がわからない。
 そこで他の女官に手伝ってもらった。
 さまざまな色合いの紫に彩られた衣装に薄紫のベールはよく映え、額にかかるレース模様もなかなかに美しい。

(宮殿内の女性って、みんなこんな格好なのかしら)
 何もかもが新鮮に感じる。女官たちに至っては目元以外の全身を覆っているくらいである。
 これが祖国ゼテミアンであれば、女性は髪を盛って見せびらかすのが基本だ。どんなに布を重ねたとしても、肩や首周りの曲線を隠さないどころか、なるべく強調する。

「こんなに髪も肌も入念に隠して……あたし、無個性じゃない?」
「大丈夫ですよ、姫さまは顔(かんばせ)だけで十分に魅力的です。きめ細かな肌、長い睫毛、甘やかなオレンジヘーゼルの瞳。一度お目にかかれば二度と忘れられないような美貌ですもの」
 そう言いながらも有能な侍女はセリカの化粧の具合を隅々まで確かめてくれる。

 セリカは普段あまり進んで化粧をしないため、それが必要になった際には自分ひとりでうまくできない。側仕えの力が無ければどうなっていたか。その為の侍女なのだと言えば確かにそうなのだが、他人に何かを頼り切るのはどうにも落ち着かない。
 相手がバルバでよかった。信頼できる者が側に居てくれるのは凄く幸せなことなのだと、改めて再確認する。

「やめてよ、褒めたって何も出ないからね」
「あら、何も? おやつくらいくださってもいいのですよ。そうですね、晩餐会からくすねてみるとか!」
 悪戯っぽく笑って、妙案とばかりに彼女は人差し指を立てる。バルバティアは甘味に目が無い。それでいて太りにくい体質なのか、出るべきところは出て引っ込んでいるべきところはちゃんと引っ込んでいる。羨ましい限りだ。

「でもこの服、袖がぴっちり手首にくっついてるから、ものをこっそり詰めて持ち出すのが難しそう」
「何の為のパルラですか!」
 バルバは大袈裟に仰け反って、セリカが自国から持参した衣類を指差した。寝台の上で山積みになっているそれらの頂には、青緑色の外套がある。肩や腰を接点にして巻く長方形の一枚布で、祖国の旧い言葉でパルラと呼ぶ。なんでもこの一点物は、絹という高価で貴重な生地を使ったものらしい。

 それゆえに、正装をする時のみに併せてこれを着ることにしている――断じて、人目を忍んで菓子類を持ち出す為に用いているのではない。
 セリカは腕を組んで考え込んだ。

「うーん、今回はやめとくわ。デザインの相性も問題だけど、色が合わないのよね」
 そもそも頭と首に既に布を巻いているのに、胴体にも何かを巻いたら、やり過ぎのように思える。
「残念。さて、装飾品が最後ですね」
 そう言ってバルバは壁際のサイドテーブルに向かった。そこには大きな丸い箱が置いてある。

 指先の脂が移らないように手袋を嵌めてから、彼女は慎重に箱の中身を取り出した。
 宰相経由で渡されたこの「贈り物」を身に着ければ、仕上げである。


ゼテミアンの服は古代ローマをゆるーくイメージしてます。

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零&一 あとがき
2017 / 02 / 27 ( Mon )
いけませんね。ストックをつくってから投稿しているからか、どうもあとがきを失念してしまいます。

ツイッターでも呟きましたけど、黒赤のコンセプトは大分前に考えました。詳しく言うと、ミスリア26話を書いて間もない頃ですね。

大賞に出せそうな恋愛モノ書きたいなー、ベタな材料ないかなー、と考えたのが始まりだったと思います。

いえーい、政略結婚だぜ☆彡

気が付けば通算2万字超えていますが、まだまだ話は序盤ってところですね。三話くらいになってから、色々とわかってくるかと思います。私にも。ええもう、たとえば、これが恋愛大賞に出して一次通れそうなものになっているかどうかとか。

なってなくても、一向に構いませんケドもw

私はあくまで私の萌えの研究者ですから。世間の需要なんて知らぬ!!

あ、そういえばサイトの方にも零話一話を掲載してみました。長くなってまとめ読みしたくなりましたら、是非そちらをお試しください。黒い背景が苦手なお方もそちらを(ry


ではこれからも(そして他の作品も)ご愛読のほどをお願いしますー!

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08:24:18 | 挨拶 | コメント(0) | page top↑
一 - f
2017 / 02 / 27 ( Mon )
 ヌンディーク公国首都ムゥダ=ヴァハナは、公宮に近付くほどに上品そうな空気感を湛えるようになった。
 道中に見てきた下町とはまるで違う。ちなみにこれまでに通り過ぎた地区の建物の密集ぶりや路の賑やかさはどこか祖国ゼテミアンの首都を彷彿させたが、斜面に建てられている分、妙な開放感があった。

 宮殿周りの建築物は、本当にこの大陸の人間が建てたのかと疑問に思うほどに異様な外観をしている。現代の主流であるはずの四角い外壁が見当たらない。どうやってあの形になるのか、屋根は丸かったり変な針が伸びたりしている。焼きレンガではなく干しレンガを使えばああなるのだろうか。
 大公の周辺は別世界――そういった部分もやはり祖国と同じに思えた。ゼテミアン公国の首都も、玄関を飾る巨大円柱などが特徴的な、旧い建築物がひしめき合うような場所だ。
 願わくば一度じっくりと町を観光してみたい。

(願ったところで、叶わないか……)
 夜の翼に追いつかれないように、御者は急いで馬車を走らせていた。最初こそ「あれは何?」の質問に答えてくれていた彼は、目的地に近付いた頃には相槌すらしてくれなくなっていた。
 緊張感が伝わってくる。遅れたのはセリカの所為なのだが、自分が咎められるのを怖れているのだろう。

(悪いことをしたな)
 門を通って少しすると馬車を降りた。
 燭台を持った初老の男性が、広大な前庭を彩る噴水の前に佇んでいる。ゼテミアン大使だ。彼の後ろに使用人らしき人影が数人控えていた。
 まずは挨拶を交わし、荷物を預けたり馬を休ませる手配などを済ませた。

「全く、すっかり暗くなっているではないか。何をちんたらやっていたのか。こちらは会談も終わったというに」
 大使が御者を責め立てる。二人の間に、セリカがサッと立ち入った。
「遅くなったのはあたしが寄り道をしたがったからよ。他の皆を責めないであげて」
「公女殿下……相変わらず、貴女は困ったひとです」
 初老の男性はあからさまなため息を吐いた。

「結果としては無事に着けたんだから、別にいいじゃない」
「無事に着けなかったら、誰かの首が撥ねられたかもしれませんぞ。以後、ご自分の振る舞いにもっと責任をお持ちください」
 ――あんたなんかに言われなくてもそれくらいわかってるわ!
 腹の奥から湧き上がる怒りを飲み込んで、代わりにセリカは顔に薄笑いを張り付けた。

「ご忠告どうも。善処するわ」
 ふん、と大使は鼻で笑ったようだった。いくら生まれが上だからとこちらが粋がっても、父の側近である彼にしてみれば、セリカなど単なる世間知らずな小娘に過ぎない。
 悔しいが、この力関係は揺るぎない。

「先方と話も付きましたし、私はもう休みますぞ」
「そうなの、ご苦労だったわね」
 労いの言葉をかけつつ、依然として薄笑い。
 大使は踵を返しかけたが、途中で立ち止まった。伝え忘れた何かを思い出した様子である。

「ああそうです、ヌンディークの宰相殿が迎えに来ています。なんでも、殿下の為に晩餐会を催すそうですよ」
「……晩餐会?」
 セリカの笑みが僅かばかり崩れた。
「どうぞ、良い夜をお過ごしくだされ」
 大使は曖昧に笑ってから、それきり口を噤んだ。その背中を、セリカと侍女のバルバティアが追う。

(誰が何を催すって? あたしの為に?)
 正直のところ、結婚式までに誰とも会わせてもらえないものと予想していたので、それまでの時間を独りで自室で過ごすのだと勝手に思い込んでいた。
 それが、初日で晩餐会。そうと知っていればもっと急いで来たのに――。

 旅の疲れがあるのに今から猫被らなければならないなんて面倒だ、という気持ちが半分。残り半分は、どんな顔ぶれが来るのだろうか、と楽しみな気持ちがあった。更に言えば――許婚も来るのだろうか。
 十九歳のセリカラーサ公女は、夢見がちな乙女ではない。まだ見ぬ夫と運よく素敵な絆を築けるなどと、夢想したりしない。

(でも自分の人生だもの。何でもいいから楽しめる要素を見つけてこそ、生き甲斐があるってものよね)
 たとえば武術の特訓を付けてくれそうな義理の兄弟とか、親友同士になれそうな義理の姉妹とか。
(せめて婚約者があたしより腕の立つ男だといいな)
 そうであれば、仲良くなれずとも尊敬の念を抱ける。
 期待したい、けれども期待しすぎるのが怖い。逸る気持ちを抑えて、セリカは静かに歩を進める。

「公女殿下。ご存じですか」
 正殿に続く階段を上る間、大使がまた声をかけてきた。
「何を?」
「貴女の夫となられるのは、ヌンディーク公国第五公子です」
「…………そう」
 唐突に開示された情報を噛み締めんとして、その場で立ち尽くした。

(大公の五番目の息子。五番目か……ビミョーそうな立ち位置ね)
 その心境、果たしていかがなものであろうか。公位継承権を持たないのだから、男児にとっては張り合いの無い人生になりそうな気はする。
 きっとこの辺りの境遇は人格にも反映されていよう。
 ――やはり期待しすぎない方がいいのだろうか。

 セリカは目を伏せて心を落ち着けた。
 次に顔を上げた時には極上の微笑を浮かべて、階段の上で待ち受ける大使と宰相の元へと歩み寄った。

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00:00:53 | 小説 | コメント(0) | page top↑
一 - e
2017 / 02 / 24 ( Fri )
「できないって言うの? 結局口先だけなのね」
「片目だと遠近感がずれるから、私に飛び道具は扱えない」
 ――至極ごもっともな理由があった。
 それでも納得し切れずに、食い下がる。

「だって、あんたのブラインドじゃないの」
「別に私のではない。この建物は多分、季節が移ろう前からここにあった」
「あ、そう……」
 それじゃあ自分では狩りができないくせに、得意げに知識だけひけらかしたの――と突っ込みたいところだったが、思い直した。元から片目だったとは限らないし、誰かに付き添うだけでも知識は身に着く。この人は普段、弓ではなく罠担当をしている可能性もある。

 かくいうセリカもこれまでの狩りの経験は、兄弟について行った数回だけだった。それも公都内にある狩り場だ。的を当てる練習ばかりしていたのも図星だし、あまり人のことをあれこれ言えない。

(なんだか、やる気失くしたわ)
 ――ひとつくらい獲物を手にしてから馬車に帰りたかったのに。
 だからと言って、粘る気力が無い。
 道具を仕舞って背負い直し、帰り道を確認する。御者に伝えた二時間よりもずっと早く戻れそうだし、これでいいのだろうと自分に言い聞かせた。

 それにしても、とふいに青年が口を開いた。こちらをじっと眺める青年の青灰色の瞳は、どこか冷たい印象を与える。

「さくらんぼみたいな頭だな」
 瞬間、セリカはこめかみに青筋が浮かぶのを感じた。
「……初対面の人間をまず見た目から侮辱するのが、この国の礼儀なのかしら」
 努めて平静を保とうとする。が、その試みはすぐに失敗に終わった。

「美味しそうだと褒めたつもりだが。赤黒いさくらんぼは見た目の渋さに反して果肉が甘く、好きだな」
「あんたの食べ物の好き嫌いなんて心底どうでもいいのよッ!」
 ――いけない。
 唾が飛ぶ勢いで怒鳴ってしまった。いくら淑(しと)やかさに欠けることを自覚しているセリカでも、これには反省した。

 確かにこの髪は、母譲りの、滅多にない色合いではある。黒光りする深い赤紫――そう表現するのが一番シャレているのではないかと、自分ではこっそり思っていた。
 今までに果物と比べられたことはない。というより、食べ物に似ていると感じていても誰も面と向かって言っては来ないだろう。
 収まらぬ苛立ちをどうすれば吐き出せるか。紺色の帽子の下からうかがえる茶みがかった黒を見やり、その答えを思い付いた。

「そっちは泥みたいな髪色ね」
「よく言われる。淀んだ川底の土とそっくりだと」
 仕返しのつもりだったのだが、思いのほか青年は平然としていた。それどころか、同情を誘う返しだった。
「け、結構心ないこと言う人と知り合いなのね……」

「そんなものだ。お前もたった今、泥みたいだと言っただろうに」
「あんなの腹いせよ、本気でけなしたいわけじゃないわ。ん、気品に紛れた遊び心っていうか? 野性的でいい色じゃない」
「…………無理して褒めなくても。泥でいい、私は気にしていない」
 呆れたような顔をする青年に対して、セリカはバツが悪くなって小さく舌を出した。適当に思いついたことを口にしただったのを見透かされてしまった。気まずいので、さっさと話題を変える。

「そんなことより、いきなり出てきて何なのよ? 物凄く吃驚したわ。助言を乞うた覚えは無いし。誰よあんた、何様のつもり」
 青年の鼻先に人差し指を突き指して、大袈裟に非難した。否、決して大袈裟ではない。
(乙女を尻餅つかせて驚かせたんだから、弁明くらいするべきよ!)
 改めて強気になり、相手を睨みつける。
 青年は全く怯まないどころか、意外そうに目を見開き、眉を上げた。

「わからないのか」
「はあ? わからないから訊いてるんでしょ。間抜けなこと言わないで」
 激しく言い返してくるのかと思ったら、青年はただつまらなそうな顔をした。何なのだ、一体。何故そんな顔をされねばならないのか。セリカには心当たりがまるでなかった。

「――すぐにわかる」
 それだけ言い捨てると青年はこちらに背を向けた。淀みない足取りで、速やかに木々の間に消えて行く。
 後を追おうだなどとは、勿論セリカは考えなかった。

「変なヤツ」
 嘆息混じりにひとりごちる。変な男、変な国、変な日。無人となった森は、セリカの独り言をことごとく吸収する。
 日が傾きかけている。周囲の大樹の影がいつしか長くなっていた。極め付けは、長々と響くカラスの鳴き声だ。
 胸の内に得も言われぬ物寂しさが広がっていった。
(はあ、帰ろう。受け入れたくない未来から目を背けるのは、もう止めにしよう)
 運命の呼び寄せる方へ――彼女は一歩ずつ、重い足を進めていく。

_______

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00:00:20 | 小説 | コメント(0) | page top↑
YY 2/21 12/2 人人
2017 / 02 / 22 ( Wed )
冷蔵庫に入れた食べ物に「YY 2/21」と書いたら逆さにして「12/2 人人」って読めた。
(甲はイニシャルがYYなのです)



どうでもいい。




黒赤も連載開始から一週間。いかがでしょうか。

もうお気付きのことかと思いますが、これは色々な意味でミスリアの妹作品です。メインの女子と男子がそれぞれミスリアとゲズゥとどう似ていてどう違うのか、ぜひ比べて楽しんでみてください。物語の進展のし方とかも。

まず、セリカはミスリアよりずっとバイタリティがありますねww
走るし怒鳴るし飛び蹴りとかもしそうな勢いです(ぁ

小動物並みにびくびく生きてたミスリアとは違った可愛さがあります。あと勝手に暴走してくれるのが、いやあ、楽しいっす。


さて、地名はしつこいくらいにリピートしてるので覚えられましたでしょうか。
 ゼテミアン→セリカの故郷
 ヌンディーク→嫁ぎ先
 ムゥダ=ヴァハナ→目的地


……OK?



来週の二話から、わちゃっと人が増える予定です。書き分けガンバリマス。
脳内キャパシティを少し用意して臨んでくださいねww

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04:30:41 | 挨拶 | コメント(0) | page top↑
一 - d
2017 / 02 / 22 ( Wed )
 黒染めの革の長靴を、眼差しでなぞる。膝当てまで付いているとは珍しいデザインだ、ちょっとかっこいいな、なんてぼんやり思った。
 視線は更に上った。裾を長靴に仕舞い込んだ黒いズボン。それを覆うのは、白く縁取られた紺色――膝丈の薄い羽織り物のようだが、左右のどちらかを上に重ねるのではなく身体の中央に緩く引き合わせる、見慣れないタイプだ。
 羽織り物を留める細いベルトは靴と同じ黒い革。そのベルトから細長いものが提げられている。美しい彫刻の施された鞘に見えた。

(あの大きさはナイフ、よね。股の上にこんな目立つモノをぶら下げる心理……)
 なんとも言えない気分になって、セリカは顔を上げた。
 半袖の羽織り物の下から覗くのは、ボタンをきっちりかけ合わせた詰襟の黒いシャツ。シャツは普通だが、羽織り物の仕様には稀なるものを感じた。ヌンディーク公国の人間はこんな服装ではなかった気がする――

「ぅわおっ」
 眼差しが交差した途端、喉から変な声が漏れ出た。ずっと片足立ちの体勢を保っていたことを身体が突然思い出したのか、腰から力が抜けた。
(スカートじゃなくてよかった!)
 開いた脚をすかさず閉じる。旅装として履いていた麻ズボンに感謝した。同時に、見知らぬ他人を随分とジロジロ見ていたのだと今更ながら思い出す。
 とりあえず謝ろうと思って、相手を見上げた。

 青灰色の瞳とまた目が合った。と言っても左目だけだ。浅い筒みたいな変わった形の帽子から流れる布に、顔の右半分が隠れている。
 青年はこちらを見下ろすだけで助け起こそうとしない。無関心そうな表情を浮かべている。

(こいつ、いつから居たの)
 何故話しかけもせずに突っ立っていたのか。理由もなく人を驚かせるのは、あまりに礼節に欠ける。不審者かと警戒しながらセリカは立ち上がった。青年はやはり微動だにしない。

 正面から見据えて、また驚くこととなる。
 なんと目線の高さが同じくらいだった。差は一インチ未満だろうか、首を曲げることなく対応できる。
 確か、ゼテミアンの女は大陸中の他の国よりも平均身長が高いと言われていた。

(本当だったのね)
 とはいえ、セリカは知り合いの女の中では背が決して高くない方だ。きっとこの青年こそ、平均より低いのだろう。
 立ち話をしながら人を見上げることはよくあっても、ありのままで目線が合うのは新鮮だった。そのせいか、いくらか毒気が抜ける。

「惜しかったな」
 やがて、気だるげに青年が言った。低めの声で、丁寧で聴き取りやすい発音の共通語だ。
「え、何がよ」
 一方、セリカはつい突っかかるような語調で応じた。

 すぐには答えず、青年が首を巡らせる。その弾みで、彼が左耳に着けている涙滴型の装飾品が目に入った。
 銀色のチェーンから垂れる大きな涙。暗めの群青色に、白い斑模様と金の斑点が浮かんでいる。
 こういった不純物の多い石はラピスラズリと呼ばれず、別の名があったはずだ。それが何だったのか、思い出せそうで思い出せない。

(流石は宝石大国、ヌンディーク公国ね)
 その辺を何気なくほっつき歩いている若者ですらこんなにも美しいアクセサリーを身に着けているものなのか、と感心せざるをえない。或いはそれなりの家柄の者なのだろうか。見慣れない服装だけれど、身なりは綺麗だ。

「……的を射る練習はしていても、生き物を狙ったことが無いだろう」
 青年の視線の先を一緒に辿った。先ほどヤマウズラを外して空しく地面に突き刺さった矢が、そこにある。
 馬鹿にされているのだと、遅れて理解した。
「あっ――る、わよ! 勝手に決めつけないでくれる!?」
 矜持が傷付けられた反動が頭の中で跳ね回る。セリカはずかずかと矢の傍まで歩いて、ひと思いに引っこ抜いてみせた。

「鳥は、頭を上げた時に人間(おまえ)の匂いを捉えていた。あの後また餌に夢中になったように見えたが、警戒心が残って、俊敏に避けることができた。風上に立ちながら匂いを十分に消さないのは、初心者のやりそうなミス――」
「初心者で悪かったわねえ!」
 腹立たしい。背後から淡々と理屈をこねていないで、いい加減に黙ってはくれないだろうか。

「そんなに言うならあんたが射止めてみなさいよ」
 セリカは青年の真正面まで戻って、ずいと弓矢を両手で押し付けた。
 瞬きひとつせずに彼はそれを見つめ、無理、と返した。

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00:03:31 | 小説 | コメント(0) | page top↑
一 - c
2017 / 02 / 19 ( Sun )
「でも日が暮れる前には確実にムゥダ=ヴァハナに着かないと! 夜道は危ないです!」
「最後に、好きなことをして過ごしたいのよ」
 低い声でそう返すと、窓から身を乗り出したバルバが怯んだのが見えた。その隙に一直線に走り出す。
 あっという間に馬車を後にした。

(せめて楽しい思い出を胸に抱えていれば……当分は頑張れる、わよね……)
 優しく澄んだ森の空気に包まれながら、セリカは滲み出す涙に気付かない振りをする。

_______

 数分ほど闇雲に走ったら、人工物に行き当たった。
 森の中の空き地の隅に建てられたそれは、物見やぐらより一回り小さく、地上から七フィート(約2.13m)ほど上げられた木製の小屋だ。

 狩猟用の隠れ場所――ハンティング・ブラインドだと、一目でわかった。
 セリカは傍らの梯子に近付いた。此処でなら獲物に気付かれずに長時間張り込める。誰のものかは知らないが、ちょうどいい。

(人の気配がしないし、いいわよね。借りますよ、っと!)
 片手で戸を開いて身を滑り込ませる。
 床が短く軋んだ。一人か、多くても二人が同時に使えるような強度と広さである。食べ残しくらい落ちているのではないかと思ったのに、案外清潔だった。しばらく誰も使っていないのか、それとも最後に使った人間が丁寧に片付けたのか。中にあるのは素朴な椅子ひとつである。

 戸を含めた四方の壁のどれもに、幅広い窓が開いている。好みの角度を見つけて、セリカはそこに椅子を寄せた。
 そして肩にかけている弓矢を下ろした。

(確か、大物を狩るには長時間居座った方がいいのよね。まあ、あんまり高望みしないでおこう)
 そもそもブラインドを見つけるとは思っていなかったのだ。これだけで既に儲けものである。
 ――三十分経った頃。
 ガサガサと、小柄な生き物が草を踏む音がした。目を凝らして待つと、丸っこい鳥がひょこひょこと空き地に進み出た。

 お世辞にもきれいだとは言えない、ざらついた指で弓弦を静かに引く。
 感じるべきは掌に触れる感触、弓の重み。風向き。獣の動きに視線は釘付けになり、僅かに震える草の動きを事細かに追った。

 目標を的確に射止める筋道を茂みの隙間に見定め、呼吸を限界までに遅めて機をうかがった。
 地面を突いていたヤマウズラが、ふいにひょっこりと頭を上げた。鳥類独特の俊敏な首の動きで周囲をひとしきり警戒した後、また餌探しに戻ろうとする――

 セリカは弦を放した。
 草が乱される音、矢が地を打つ音、弓弦が弾ける音などが鼓膜に交差する。
 息を呑んで周囲を見回した。
 数枚の羽根が舞っているだけで、望んだ結果を得られなかった事実を知る。

(狙いはちゃんと付けたのになー)
 逃げられた。落胆するものの、高揚感の方が勝っていた。
 筋肉に走る微かな負担が心地良い。楽しい。こうして弓を手にしている間だけは、余計な感情がまとわりつかない。

(あたしはやっぱり、これが一番「生きてる」って実感できる)
 しかしそれも、弓を手にしている間だけである。腕を下ろせば嫌でも現実を思い出す。異国で誰かの妃になる以上、自分の時間は失われるということ。
 趣味は所詮、趣味に過ぎない。たとえ立場が許したとしても、セリカは男として生きて成功するには力量不足で、公族の女として生きていくには粗雑過ぎた。

 それでもできるだけ長く好きなことをしていたかった。弓の腕を日々磨いた分だけ姫らしさからかけ離れ、縁談が持ち上がる度に片っ端から蹴飛ばしてきた。
 終いには親には「下手に結婚させたら相手の不興を買いかねない」と慎重に扱われる結果となったが、セリカは何も後悔していない。
 思えばどうして、ヌンディークとのこの縁は成り立ったのだろうか。

(なんだかんだで気にしたことなかったわ)
 矢を回収しに行こうと戸を開く。梯子を下りながらも、考え事を続けた。
(十九にもなって結婚してない姫を受けたんだから――)
 下りきって、地に着いた。くしゃり、と旅用の長靴が草を踏む音がする。
(向こうも何か事情が?)
 くるりと踵を返した。何か視界に不自然なものが映っているようだが、意識はすぐにはそこに行かず。

 足元に注意しながら、踏み出そうとしたところで。空中で右脚を止めた。
 一拍の間、身を凍らせる。
 そのまま足を下ろしたら別の誰かの爪先を踏むからである。

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22:39:55 | 小説 | コメント(0) | page top↑
一 - b
2017 / 02 / 18 ( Sat )
(前より窮屈な生活になるでしょうけどね)
 他国の妃の席に収まる以上、宮殿の中ですら好き勝手に過ごせなくなるだろう。聞いたところ、ヌンディーク公国はゼテミアン以上に古くからの慣習を重んじるらしい。
 それがなんとも、皮肉な話である。

 アルシュント大陸で最大の人口と領土を誇る帝国、ディーナジャーヤ。
 過去数度に渡る略奪戦争を経てその属国となったヤシュレ、ヌンディーク、並びにゼテミアン公国は、当然ながら多方面で帝国の影響を受けている。使っている通貨も同じ、四国同士では国境などあってないようなものだ。

 それゆえ、昔ながらの自国の伝統や服装にこだわっているのは大公家と貴族階級くらいのもので、国民の過半数は時代の流れとやらに身を任せている。好きな食べ物を選び、好きな服を着ているはずだ。
 不自由だ。
 そして、どうやっても生まれる家は選べない。

 二十年近い人生を歩み、セリカは未だに己の境遇に甘んじられない自分を、どう思えばいいのかわからなくなっていた。
 幼馴染と将来を共にする約束をしているというバルバが、少なからず羨ましい。彼女が大好きな相手と幸せいっぱいの家庭を築く未来を想像するだけで、自然と胸の奥が温まった。

 対してセリカは、顔も知らない男の子供を産まねばならない。顔どころか――歳が近いらしいのは聞いているが、それ以外の情報を一切持っていない。
 そうなるよう仕組んだのは母だった。相手について何も知らない方が不安も少なく済みますからね、楽しみは後に取っておくものです、なんて言っていた気がする。

 知っても知らなくても逃れようが無いのなら知らない方が気楽だろう、とセリカも割り切ることにした。物凄く醜かったり性格が最低最悪なゲス野郎だと予想していれば、いずれにせよ期待を裏切られる心配も無い。
 怖くないと言えば嘘になる。それでも、逃げ出そうなどと企むには、セリカは聡すぎた。

「きゃっ!」
 バルバの小さな悲鳴で、物思いから覚める。いつの間にか道が険しくなったのか、馬車がガタンゴトンと大きな音を立てながら進んでいる。
 興味を惹かれて、窓の外に目を向けた。道路沿いに、いい感じに生い茂った森が見える。

「停めて!」
 セリカは思わずそう叫んでいた。急に呼ばれた御者の男が驚き、言われた通りに手綱を引く。
「どうしました!?」
「ちょっと降りる。二時間もすれば戻るから」
 用を足す為ではないと、念の為にセリカは補足した。荷物の中から、愛用の道具を取り出し、腰を浮かせる。

「二時間? それでは大使さまの馬車と大きく差がついてしまいます」
 御者が前方を指差した。
「構わないわ。あたしが立ち合わなくても、商談はできるでしょう」
 縁談を敢えて商談と称する。

 政略結婚とは、国同士の交流を繋いだり強める為の措置。――交流?
 実際にはそんなにあやふやな言葉で形容できるものではないと、セリカはしっかり理解していた。ゼテミアンはヌンディークから、ヌンディークはゼテミアンから、欲しい「持参金」があるのだ。

 花嫁側(ゼテミアン)からのブライドウェルスは分割で支払われる手筈となっている。先月から少しずつ鉄が運び込まれていて、花婿側(ヌンディーク)からのダウリーがちゃんと支払われたと確認された暁には、契約通りの量まで届けられる。

 双方の大公は既に契約書に署名している。それでもゼテミアン大使がセリカに同伴するのは、再三の言質を取りたいからに他ならない。
 これらの手続きは結婚式などよりもよほど重要視されていた。

 ――セリカラーサ・エイラクスという人間が消えていく。誰も本当の自分を知らないし、今後も知ろうとしないだろう。
 未だに不服そうに抗弁する御者を無視して、馬車を飛び出した。

「ひ、姫さま! 危険です。護衛を連れてください」
 バルバが声を震わせて叫んでいる。
「いらない。何かあったら叫ぶわ、そんなに遠く離れないから」
 この路は人通りも多く危険度が低いからと、セリカの馬車についている護衛は一人しかいない。彼には荷物を守らせた方が得策だ。



日本の慣習だと結納金がダウリーに該当するっぽいですね。文化によってはブライドウェルスだったり両方出したりしていましたけど、旦那側の家族が何かしら出すのが多いのですかね。王族が一般人の嫁を取ると、王族側が嫁の家族に贈り物をすることもあるようで(現代では中東の国とかで例が)。今回はどっちも同ランクに高い家柄で、国同士の関係なのでどっちも寄贈品出します。

まあ、これはファンタジーですww

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00:08:10 | 小説 | コメント(0) | page top↑
一 - a
2017 / 02 / 16 ( Thu )
 ――伝統は呪縛だ。
 そんなことを思いつつ、馬車の小窓の向こうの景色を見やる。悠然と流れる峰々をいくら眺めても、心は少しも晴れなかった。
 まだまだ先が長い。公都ムゥダ=ヴァハナに着くにはあと数時間はかかるそうだ。

 時折、向かいに座す女性と雑談を交わして気を紛らわせたりもした。しかし会話が途切れれば、思考回路はたちまち同じ憂鬱に巻き戻ってしまう。
 なんでも、世間では「時代が移り変わりつつある」などと囁かれているらしい。具体的に何が変わっているのかは諸説あるようだ。たとえば各地で身分の壁が薄くなっているとか、男尊女卑の意識が薄れつつあるとか。

 まやかしだ。少なくとも自分は、世の変化を実感できていない。
 そんな立場ではないからだ――生まれる前から墓に入るまでの期間、一貫して大きな選択は何ひとつ自分でできない身の上と言えよう。
 ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクス――愛称セリカ――は、十九回目の春を迎えたばかりだった。晩春に予定されていた生誕祝いも待たずに自国を発たされたのには、本人にとって非常に不本意な理由がある。

 今夜、夫となる男と初めて顔を合わせる。明後日、結婚式を挙げる。
 平たく言えば政略結婚だ。
 ――退屈だ。退屈な人生に、これからなりそうだ。

「バルバ」
 肘掛に頬杖をついた姿勢のまま、向かいの席の侍女を呼んだ。セリカより三つほど年下で、耳の下で切り揃えられた髪とそばかすが印象的な女性は、名をバルバティアという。ここ数年ほど仕えてくれていて、今となっては気心の知れた友人だ。

「なんでしょうか、姫さま」
 彼女はどこか緊張した面持ちで応えた。主と話すことに緊張しているのではなく、おそらくは環境が変わることへの不安の表れだろう。
「知ってた? このアルシュント大陸で女が伸びやかに暮らすには、平民くらいがちょうどいいそうよ」

「そうでしたっけ」
 バルバティアは小さく首を傾げた。彼女は中流貴族の家から大公家へ奉仕に来ているのだからセリカよりは平民と関わる機会があるだろうに、どうもピンと来ないらしい。
「ええ。極端に身分が低くても、高くても、好きなように生きられないんだわ」
 そういうセリカは、この話を誰に聞いたかは忘れていた。観劇の際にフィクションから吸収したのかもしれないし、兵士の噂話を盗み聞いたのかもしれなかった。

「姫さま……」
 バルバは所在なさげに両手を握り合わせて俯いた。眉の端が悲しそうに垂れ下がっている。萎れた花のように背を丸める姿に、ちくりとセリカの胸が痛んだ。
「ごめんなさい、独り言よ」
 いたずらに心配させないように微笑みで誤魔化し、話題を打ち切る。
 視線を再び外の景色に向けてみた。四方八方が山に囲まれているというのは、新鮮と言えば新鮮である。このヌンディーク公国と違って、祖国ゼテミアンの公都は平地にあった。

 これより以前、最後にゼテミアンを出たのがいつだったのか、思い出せない。
 公族に於いての女の政治的価値及び発言権は一貫して夫の地位に依存しており、十六歳でディーナジャーヤ帝王の後宮に入った姉や十四歳でヤシュレ公国の貴族の家に嫁いだ妹に比べれば、嫁ぎ先が長らく定まらなかったセリカにほとんど自由は許されなかった。

 妙齢の未婚の姫である内は公の場に顔を出すこともできず、旅行目的でも外交でも国を滅多に出なかった。
 ようやく長旅に出られるかと思えば、隣国への片道行路。

(なんて、憂えてみるけど)
 これまでの生活の中に涙して惜しむほどの何かがあったのかと言うと、そうでもない。故郷は恋しいが、家族に関してはそれほどでもない。姉妹とは既に一緒に暮らさなくなって久しいので、別れて寂しかったのは兄くらいだ。親に至っては、むしろやっと解放された気分である。

 一番仲の良い侍女を連れてきているので、心細さも薄まっている。勿論、新しい生活や侍女に慣れた後には彼女はいずれ実家へ帰すつもりだ。バルバには他に居場所が、帰るべき家があるのだから。
 いっそ心機一転しよう。
 新しい人生に挑戦する機会だと思えば、いくらか前向きな気持ちになれそうだった。

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零 - b
2017 / 02 / 15 ( Wed )
(でも待って。入り口だけでもこんなに足が竦むのに、実際に中にいる人はもっとキツイわよね)
 想像を絶するような想いをしているのではないか。
 そう考えると、萎みかけていた闘志がまた燃え上がった。兵士を睨み付けて、返事を吐き捨てる。

「口の利き方がなってないわね。あたしは大公陛下の公賓よ」
 しゃがんだ体勢から素早く立ち上がり、セリカは己の胸元を飾る豪華なガーネットとカーネリアンの首飾りを見せびらかした。いかに宝石大国と言えど、これほど多くの宝石をあしらった装飾品は一般人にとってはなかなか目にすることができないだろう。
 案の定、兵士は青褪めながら何度か謝った。
「し、しかし失礼ながら……なにゆえ、やんごとなきご身分のご婦人がこのような場所に、ひとりで……」

「中の人間に用があるから来たに決まってるでしょ。通しなさい」
「なりません! ここは牢です。それに、第二公子から何者も通さぬようにと言い付けられておりますゆえ」
 ――第二公子?
 あの腹黒ロン毛野郎がどう絡んでいるのよ、などと訊き返すことはできない。セリカは呆れたような、わざとらしいため息を吐いた。

「そんなのあたしの知ったことじゃないわ。通して」
 すごみつつ、戸の方に一歩踏み込む。
「な、なりませぬ」
 衛兵が慌てて扉を引こうとしているが、セリカの方が一瞬早かった。

 ――ガン!
 右の踵で強引にこじ開ける。次いで左足で跳び上がり、兵士の顔面を着地点とした。男はぐうと呻きながら崩れた。
 遅れて、扉がけたたましく閉まった。視界が一気に暗くなる。

「何奴!」
 近くに待機していた別の衛兵が、騒ぎを聞きつけて駆け寄ってくる。
 迷わずセリカは壁の松明をもぎ取り、相手に向かって投げた。
「うわあ!?」
 兵士は突然の熱さに慌てふためき、更には地面に落ちた松明に足をひっかけて、盛大に転んで地に伏せた。あまりに鮮やか過ぎる。まるで誰かが脚本に書いたみたいな展開だ。

(ごめんなさい!)
 謝るのは心の中だけにして、セリカは全力で走り去る。邪魔なドレスの裾は、両手で握り締めて捲り上げた。
 しばらくの間、殺風景な廊下が続いた。
 どこまで走ればいいのだろう。

 焦りが段々と強まる。頭がおかしくなりそうだ。一定の間隔で左右交互に現れる壁の灯りを、ついつい数えそうになっている。
 異臭が濃くなり、一息つく為にセリカは足を止めた。向かう先の方に、鉄格子の輪郭が浮かんでいる。

(……もう手遅れだったりしないわよね)
 どうして彼は牢に入れられたのだろう。第二公子の差し金らしいが、この国では今、何が起こっている――?
(朝から何かがおかしいのはわかってたけど)
 こうして考える時間さえもが勿体ない。セリカは再び走り出した。

「ねえちゃーん、きれいなおみ脚だねえ。ちょっと股開いてみなー?」
 闇から、しゃがれた声が響く。
「ありがとう! この脚はあんたの空っぽな脳みそを蹴飛ばすために、長くできてるのよ!」
 最初に通り過ぎた独房のいくつかは、中を確認するまでもなかった。下卑た文句を投げつけてくる者、猫なで声で呼びかけてくる者、不気味な奇声を発する者。それらの中に探し人は居ない。

「エラン! どこなの!?」
 闇が深くなっていく。気分が悪い。
 気のせいだろうか、通路の灯りの間隔が長くなっているようだ。と言っても真相はきっと単純で、奥に入るほどに松明の火が補充されていないだけなのだろう。

 ――ああ、なんてひどい場所だ。
 走りながら時々、サンダルの裏から大きな虫を踏み潰したような気色悪さが伝わる。四方から響く鼠の鳴き声が頭の中で反響している。あと数分この場に留まるだけで、気が狂うのは目に見えていた。
 囚人たちには同情せざるを得ない。

「ねえ! 聞こえてるなら返事しなさいっ!」
 ――はやく、早く助け出そう。こんなところに長く居てはダメだ。むしろあいつが此処に閉じ込められていると想像するのが、辛い。
 つい先日、屋内で眠るのが嫌いだと言っていたのを思い出す。
 最早息も切れ切れだが、急く気持ちに背中を押されて、セリカは必死に叫んだ。

「――エランディーク・ユオン!」



念のため補足しますと地下牢の床はめっちゃ水たまりだらけなので松明落としたくらいでは火事になりません。

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