三 - b.
2017 / 03 / 16 ( Thu ) (ルシャンフ領って、どんなとこだろ)
街道も通らないような未開の地と父が説明した気がする。聞いた時は鵜呑みにしたが、今になって考えてみれば、どうにも想像が付かない。未開の地に領主が任じられるだろうか。 ぐるりと展望台を回って塔の逆側からの景色を眺めに行くと、そこには強固そうな防壁があった。 背後では山が続く。月明かりに照らされる稜線は壮大で、異なる世界のように美しい。美しくて、どこか恐ろしい。 肌寒さと畏怖に身震いした。 (檻の形が変わっただけよ) 生まれ育った都と、本質は一緒だ。そしてきっと、これから暮らさなければならないルシャンフ領だってそうだ。 姫とは国の象徴。着飾られ愛でられ、果てには結婚して次世代の愛でられるべき対象を生み出す一生を、全うするだけ。 (あたしはどこに行けば馴染めるかな) 振り仰いだ夜空が哀愁を漂わせているように見えるのは果たして気のせいか。やるせなさに浸る自分を情けないとも思うが、浸りたい気分なのだから仕方がない。 そんな時だった。この情動に同調したかのように、細やかな旋律が夜空に放たれた。 透き通った、管楽器の音。 近い。 セリカは踵を返し、都の見える北東側へと戻った。そこでは、エラン公子が手摺りに背を預けて胡坐をかいていた。典雅さにこだわらないリラックスした姿勢で、細長い横笛を唇に当てて、ゆったりとした曲を奏でている。 奏者のこれまでの言動や態度と結び付かないような、情緒に溢れた演奏だった。緩急や強弱、個々の音の震え方にまで気を遣われているのがわかる。 聴く者を夢心地へ誘う音色――セリカは手摺りに指先を滑らせ、見えない糸に手繰り寄せられるように歩を進めた。あと一歩というところで、足を止める。 近くで聴くと益々神秘的な響きだ。目を瞑り、聴覚と触覚のみに身を委ねる。振動が肌に伝わり、毛先を撫でる。 呑み込まれそうだ。 首筋がぞくりとしたのは、気温のせいではない。胸になんと呼べばいいのかわからない波が広がった。それは指にまで伝わり、震えと変わる。震えを抑え込もうと拳を握ったがあまり効果は無かった。 やがて曲を吹き終わると、青年は静かな眼差しでこちらを見上げる。夜の暗さだと灰色ばかりが際立つ瞳だ。 ――なにこれ。 相変わらずよくわからない気持ちが胸に渦巻いた。訊きたいことが色々あった気がするのに、うまく言い出せなくて、一呼吸した。 「それって、鉄の笛?」 人ひとり分の隙間を空けてセリカも床に座る――顔が見える側に。 エラン公子は手に握った鉄の筒を見下ろして、淡々と応じた。 「お前の実家から送られてきた鉄の一部は個人で使うようにと大公家に分けられた。私は宝剣やナイフは間に合っていたから……」 職人には、楽器を作ってくれと頼んだらしい。出来上がったものは全長1フット半(約46cm)と程よい大きさなため、なんとなく懐に持ち歩いているそうだ。 「結構かっこいいじゃない」 素直に称賛した。笛の表面は艶の無い黒色に塗られていて、強かそうな存在感を讃えていた。 森で遭遇した時も薄っすらと感じたが、この男とは美的感覚或いは嗜好が合うのかもしれない。会ったその日に何がわかるのかという話だし、認めるのも癪だが。 「木製の笛しか触ったことないわ」 「吹いてみるか?」 青年がスッと掌を返したのに伴い、笛の吹き口がこちらに向けられる。 「いいの? じゃあちょっとだけ失礼――って」 セリカは手を伸ばしかけて、硬直した。無意識に吹き口に視線を落とす。 彼はめざとくそれに気付いた。 「ああ、唾液が気になるのか」 「だっ……仮にも公子さまでしょ、唾液とか言わないでよ」 そこまで具体的に考えていたわけではない。家族か同性ならいざ知らず、血の繋がらない異性とスプーンやコップは共用しないものだから、同じ笛に口をつけるのにも違和感を覚えただけだ。 「唾液は唾液でしかないだろう。ツバと言いかえたところで何も変わらん」 「なんか汚い感じがするのよ! 黙って拭いてくれればいいのに!」 「わかったから大声を出すな。地上の者が不審がる」 眉をしかめた後、エラン公子は服の裾でゴシゴシと吹き口を念入りに拭った。そんな高価そうな衣を雑巾のように扱っていいのかと突っ込みたいのを、セリカは我慢する。 このプリンスとプリンセスは結構唾液ネタを引っ張るぞ…w |
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