九 - g.
2017 / 09 / 10 ( Sun ) 強く押し付けられたのは刹那のことで、唇は間もなく離れた。 「必ず、帰る。私は果たせない約束はしない」「うん」 それきり、幸せはするりと腕の中から抜けていった。もう少し、と望んでも、冷たい風が吹き抜けるだけだ。 去り行く者はやがて馬上の人となり、兵と共に一列に防壁の門に向かって降りていく。 (あは。これか、恋愛感情) この局面で自覚してしまうとは、何と悲しく切ないことだろう。セリカは掌で額を押さえた。 (世の中の皆さんは、どうやってこれを抱えて生きていけるの) 女の一生は忍耐――母が昔そう言っていたのは、こういう意味だったのだろうか。よくわからない。 袖で目元を擦ると、セリカは顎を引き上げた。今は感傷に浸るべき時ではない。 「あの塔で間違いないのね」 未だ陰に潜む女性に向かって問いかける。女性は音も立てずにセリカの傍に来ると、頭を下げて答えた。 「はい。表向き、アダレム公子はご気分の優れない母君に付き添って部屋から出ていないという話になっておりますが、我が同胞が調べましたところ、塔にて幽閉されていると判明いたしました」 密使の彼女が革手袋に覆われた指を指す。塔は防壁の角に位置しており、門からもそう遠くないように見える。 「わかった、行きましょう。段取りはあなたに任せるわ」 御意にございます、と密使は小声になり、潜入する為の作戦を綴った。 ――兄弟を嫌うのに深い理由は要らない。 自分よりもよくできた姉妹を少なからず妬みながら育ってきたセリカには、その言葉の意味が身に染みてよくわかっていた。しかし嫌う感情だけでは、相手を死に至らしめるまでに行動するには至らない。 その二つの事項は容易に結びつかないはずである。いわば、憎しみの進展が必要なのだと思われる。 ではハティル公子の、弟を害したいという感情のふり幅はどこにあるのか。少なくともアダレムが生きている限り、それが希望になる。 しかもアダレムはまだ柔軟な年頃だ、命まで奪わずとも如何様にも誘導・洗脳できうる。ハティルは、ただ一人の弟を飼い殺しにするつもりかもしれない。 (本人を誘導できても、背後にいるはずの母親や親族はどうだろ。アダレムとハティルは母親が同じだから、いざとなったら母親はどっちに味方するかしら) 人望がどうと言うには二人の公子はまだ幼い。逆に、傀儡化できそうな公子を担ぎ上げるのが妥当と考えられる。 (まあいいわ。誰が立ちはだかっても、あたしはやるべきことをやるだけよ) セリカは密使の方を向き直った。互いに、一分の隙も無い黒衣に身を包んでいる。 「殿下が門を通る隙を狙って、潜入します。私に続いてくださいませ」 彼女の手にある道具はゼテミアンでは見たことのない類の物だ。武具、なのだろうか。腕にはめる何かのからくりのようで、先端に大きな三つ又のフックが付いている。 その道具と長い縄を持って彼女はすたすたと急勾配の方へ歩いた。大木に縄の端を縛り付け、残りを空いた腕で抱える。これらで防壁に至るまでの「橋」を架けるのだそうな。 後はエランが門番と話し込む頃合いを見計らうだけだ。その間に密使の横に立って、セリカは口を開いた。 「ところで、呼び名が無いとやりづらいわ」 「では私のことは、ハリャ、と。あとこちらをお持ちください」 無機質に言ってハリャは腕の仕掛けを解放した。フックが空を切り、遥か遠くの壁の縁に引っかかる。 かしゃん、とからくりが大きな音を立てた。かと思えば、ハリャは地を蹴っていた。 振り子の要領で彼女は山と防壁の間を見事に超えて見せた。 だが油断はできない。 セリカは視力が良い方だ。運悪く屋上通路を通りがかった兵士が気付いて駆け寄り、ぶら下がる彼女を蹴り落とそうとしているのが見える。 弓に矢を番えつつ、自分に射抜ける最長距離を思い浮かべる。正直ちゃんと届くのか、ちゃんと狙えるのか、ここからでは怪しい。 弓弦の張力を全身で感じる。手が微かに震えている――当然だ、人を狙うのだから。 束の間、瞑目した。 再びハリャの危機を視界に入れ時には、セリカは賭けに出る為の覚悟を決めていた。 狙い、放つ。矢が僅かな風切り音を背負って飛ぶ。 余韻に震えながら息を止めていた。警備兵が仰け反り、倒れるのを見届けるまで。 次に、人を殺したかもしれないという事実に怯え、狼狽した。 そんなセリカの葛藤などお構いなしにハリャは壁をサッサと登りきる。手頃な突起を見つけて縄を縛り付けると、こちらに向かって手招きしてきた。 戦々恐々と例の縄を見下ろした。 太くて頑丈そうだった。セリカ一人の体重くらい、支えるに足るかもしれない。 そして先ほど「お持ちください」と渡されたのは曲がった小さな鉄塊。両腕に嵌めて使うものだと、ハリャに教えられた。 心の中で神々と聖獣に短い祈りを捧げ、大きく息を吸い込む。 (こんなこと! 絶対! 二度としないからね!) 風が衣服を激しくはためかせる。手足がひどく重い。 落ちる。落ちる、そのことを意識したくなくて目を閉じたら余計に気分が悪くなり、空を仰ぐことにした。疎らに煌き始めている星々の輝きが慰めだった。 ――味わった恐怖は度を越えすぎていて、状況を楽しむ余裕も無くて、後に思い出したり語ったりしたくないようなものだった。 転がり込むようにして着地した。打った後ろ首をさすりながら、セリカはなんとか起き上がった。 ハリャがひとりで数人倒したのだろう、そこには既に戦闘の痕跡があった。セリカが射た者含め、皆ぼそぼそと呻いている。誰も殺していなかったことに、こっそりと胸を撫で下ろした。 「こちらです!」 彼女が先導する方へ続く。二人でしばらく通路を進み、塔へ入り、階段を駆け上がった。カビの臭いがどんどん濃くなる。 (生きていてよ。無事でいて、お願い!) 果たして、最悪の結末を撥ね退けられるかは知れないが。 アダレムはエランが怖いと言った。だから彼を迎えに行く役目は、セリカが請け負うことになった。 息も切れ切れに、セリカは思い浮かべる――リスを追いかけていた天真爛漫な幼子のことを。 ただ一心に、あの元気な在り様が保たれていることを願った。 Ziplineを嗜む系プリンセスw 鉄塊は手首っていうか腕を支える良心的な仕掛けなので脱臼しません(ファンタジー)でもしょせん次の日は全身筋肉痛。 ついに恋愛らしい恋愛に踏み出しました二人ですが、そこですかさず水を差すのが作者です。 九話は一応ここで終わりのつもりです。いきなり気が変わって構成いじりたくならない限りw 十話からは多分視点がくるくるします。乗り物酔いにご注意ください。 |
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