八 - a.
2017 / 07 / 29 ( Sat ) 政権争いと無縁な人生であれば良かった――この期に及んで、ヌンディーク公国第五公子はそんな風に考える。 領民が健在で、治める土地が概ね平和であればそれで事足りた。俗世のしがらみから離れて、悠久の空の下、無限の大地をいつまでも駆けていたかった。生き甲斐とは、そういった何気ない欲求の連なりであってもいいのではないかと思う。 そして周りに期待されないというのは空しいと同時に、気楽だった。母が他界してからの数年、誰にも咎められずに都の諍いから抜け出すこともできた。 ――まさかこんな形で追われるとは。 奴らが仕掛けたのがほんの一週間早かったなら。エランディークはもしかすると、もっと従順でいたかもしれない。 今は尊き聖女に進呈した誓いがある。国の行く末を左右できる立場にありながらその権力と義務から目を逸らしたら、きっと彼女が望む「人助けの心」から遠ざかるだろう。 抗わねばならない。エランの決意はいつしか、確固たるものとなっていた。 問題はセリカラーサ公女の身の安全をどうやって確保するか、である。 国が傾ぐような事態となれば、縁談は破談となる。公女は所在を失い、祖国へ帰されるはずだった。 (セリカは私に与する方を選んだ。こうなっては最悪、暗殺者に狙われる) どうやってゼテミアン公国まで無事に帰せるのかを考えあぐねていた。時間はあまりない―― 出し抜けに、服の裾を掴まれた。 エランはついクセで左肩から振り向いた。 通常、自分と接し慣れていない人間であれば、必ずしも左側に控えていてくれるとは限らない。視界に入っていなくとも声は届く。相手にとってはその程度の認識、だったりする。 (そういえばセリカは割といつも左側に居るな) 静かな気遣いに、静かに心打たれる。 そんな彼女の横顔は心なしか青ざめている。衣服を掴まれたと言っても、本人はこちらに目を向けていない。 下町を歩いたことがないからこの人込みと空気感に気圧されているのか、真っ先にそう考えたが、どうやら違うらしい。オレンジヘーゼル色の双眸は空を見上げていた。 遥か上空に鳥影がある。それは、あっという間に過ぎ去った。 猛禽類を見かけるのは、別段珍しいことではない。にも関わらず、何故かセリカは異様に怯えている。そんな姿を眺めていると思い知らされる――自分は彼女について何も知らないのだと。 「あの鳥がどうかしたのか」 「……や、あれってお兄さんのハヤブサ……?」 「隼? 私にはよく見えなかったが、『お兄さんの』というのは」 「な、なんでもないわ。行きましょう」 セリカはぎこちなく笑って誤魔化した。先を急ごうと、エランの長すぎる袖を引っ張って促している。 ――家族を思い出したのだろうか。恋しがっているのだろうか。 この時になってようやく、エランはセリカの意思を聞いていないことに気付いた。道が分かれるのが当然の成り行きだからと、訊かなかった。 (いや、そうじゃない) 帰りたいか、と一言訊けば済むことだ。 (もしも訊いてみたとして……全く別れを惜しまれなかったら) 情けない話だが、少なからず傷付く自信があった。 そんな雑念を振り払わんと、小さく嘆息する。 「行きましょうって、お前、行き先がわかるのか」 エランはフードをより目深に引き下ろした。目立ちすぎるのを避ける為に、町に入ってすぐにフード付きの外套を二着入手したのだ。 「わかんない。どっち?」 例によってセリカの返事はそっけない。一方で、その瞳は右へ左へと忙しなく飛び回りながら輝いていた。市場が、大通りが、山羊を引く人が、物珍しいのだろう。 「あの路地を通ったら右だ」 彼女は言われたままに方向を修正した。そしてここに来て突然思い当たったように、質問を口にした。 「で、どこに行くの」 「タバンヌスの母の家だ。名を、ヤチマという」 そう答えると、ふいにセリカが立ち止まった。次に口を開くまで、かなりの間があった。 「…………置き去りにしたの、申し訳ないと思ってるわ」 躊躇いがちに振り返ったその表情は曇っている。主語が無くとも言わんとしていることは伝わった。 「気にするな。それがその時選べる最善で、本人の希望だった」 「でも……」 「お前が気負うことじゃない。契約だからな」 少しでも元気付けようと思って、笑いかける。するとセリカはぎゅっと眉間を絞った。 「それ、あいつも言ってたわ。何なの、契約って?」 |
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