65.j.
2016 / 12 / 30 ( Fri )
 幻にしては受け答えがはっきりとし過ぎている。
 顔が見たい。
 首を後ろに折り曲げんとするも、その試みを制する手があった。
 頬骨に触れる指の感触は間違いなく生身――生きた人間の皮膚だ。雷に打たれたかのような衝撃が、全身を駆け巡った。息のし方が思い出せない。

「…………ミスリア」
 他にどうすればいいかわからず、名を呼んだ。
「はい」
 返ってきたのは、絞り出されたような、苦しげな返事。逆光の所為か顔が翳っていて見えない。
「おかえり……と言うべきだろうな」
「――っ、はい。ただいま、かえりました」
 熱い涙が数滴、顔に降りかかった。左手で拭ってみる。次には手を伸ばした。掌にすっぽりと収まる、少女の柔らかく弾力のある頬の質感は、幻でなければ夢でもない。
 そういえば別れ際では逆の状況だったのを唐突に思い出し、可笑しくなる。

「何で笑ってるんですか?」
 少女が心底不思議そうに訊ねてくる。
「……いや」
 今の心境を表す言葉を、ゲズゥは持っていない。何から訊けばいいのか、何から話せばいいのかも、わからなかった。

「大変だったな」
 だから、労わる言葉を選んだ。
「ありがとうございます。でもゲズゥほどじゃないと思いますよ」
 苦笑が返る。
 ミスリアはそれからゆっくりと話をした。肉体と魂を聖獣に取り込まれた先にあった陶酔感や、自分が元々霊的なものに同調しやすかったこと、聖地を巡ったことにより聖獣との繋がりが不動的な濃さになっていたことなど。

 最初は肉体を残したまま、聖気だけを抜き取られるらしい。そうして魂が融合して、終いには肉体も分解されていく。あまりに時間が経てば戻れなくなる。今のミスリアは、肉体と魂を取り戻せたものの蓄積した聖気を根こそぎ失った、ただの一般人だという。

「聖獣とひとつになると、全知全能になれるんです。物凄い高揚感で……でも私は人間に戻りましたから、真理を手放してしまいました」
「ならどうやってお前は戻って来れた」
 ミスリアはすぐには答えなかった。緩く握った拳を差し出している。そしてくるりとその手を翻し、大事そうに持っていたものを提示した。

「お返しします」
 ギョロリと睨み返す白い眼球。目が合うとそれはバッと跳んで、あるべき場所に収まった。
「……危うく存在を忘れるところだった」
 左の眼窩の前にそっと手をかざす。異物感は、あまりない。
「ご、ご自分の眼なのに。視界を共有してたのでは」
「さあ。言われてみれば、前触れもなく古い記憶の再現を強いられてはいたな」
 あの不可解な行程は、全知全能の存在の中に在ったからなのか。
「というより、いつの間に私にくっつけたんですか?」
「服を返却された時」
 そう答えた途端、そういえば前よりも肌寒い気がして、重ねていた衣類が一段減っていることに気付く。

「すみません。また拝借してます」
 ミスリアはバツが悪そうに舌を小さく出す。上着を借りる為には防寒コートと併せて脱がせる必要があっただろうに。過程を思い出して気恥ずかしくなったのか、早口で話題を変えた。
「えっと、それも、『正解』だったみたいです。元々は魔に通じるものでも、今では根本でゲズゥと深く結び付いているから、聖獣に取り込まれても浄化されずに済んで……ふわふわと漂ってる中、どれくらいかかったのかはわかりませんけど……見つけたんです」
 左の眉骨辺りに、少女の指先の温もりが掠った。

「きれいな眼だなって思ったら――私は、私という『個』を思い出せました」
 涙がまたぱたぱたと落ちてきた。頬を度々打つ優しい圧力が、愛おしいと思った。
「あの化け物は……結果を左右する術が無いと言っていたのも、嘘か……」
「尊き聖獣は、意地が悪いですよね。あのお方にはそういう概念は無いみたいですけど。あそこで貴方が踏ん張らなければ、何も教えず、私を内包したまま飛び立ってましたよ」
 そしてミスリア・ノイラートはこの世から自然と消滅していたことだろう――

「なら俺のしたことは無駄じゃなかった、か」
 ミスリアがふるふると頭を振っているのが、微かな空気の流れから伝わる。
「無駄じゃないです。全然、無駄じゃ、なかったですよ」
 腹の底で渦巻いていた毒の残りが、融けていくのを感じる。

「――逢いたかった」
 はい、と小さな返事があった。鼻を啜る音が続く。
「はい。私も、逢いたかった、です」
 少女の頬に触れたままの掌が、涙の洪水に巻き込まれた。そこにもやはり、愛おしさを覚える。
「聖獣とこの広い大陸を回った。けど結局何処よりも俺は、お前の傍でないと、まともに息ができないらしい」
「私も、貴方の傍でないと、私ではないみたいです」

「この先も離れることがあっても。何処に消えようと、俺はまた、お前を捜し出す」
 ミスリアが強く頷くのを感じた。
「お待ちしてます」
 花のような香りと共に温かな髪が顔にかかり――

 ――額に、そして左の瞼に、柔らかな口付けが落ちた。



呪いの眼、裏で大活躍の巻でした。
甲はガチムチなので太ももかったいんですけど、ミスリアの膝枕はきっと真綿のように柔らかいのだと信じてます。

次で最終話ですよ!! ですよ!? (書こう

聖獣の性格がおかしいのはかなり初期から定まってた事項です。こうして振り返ると、滝神さまは随分と良心的だったなぁ…w

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