64.b.
2016 / 11 / 11 ( Fri ) 複雑に曲がりくねった谷が、眼下に果てしなく広がっている。谷の奥では氷の浮かぶ湖が至る所で陽の光を反射し、極北の地の異様さを訴えかけてくる。 「あの湖のどれかに、聖獣が眠っているはずです」「なるほど」 正直、あまり気の利いた返事が思いつかない。この瞬間に於いて最も苦悩しているのは間違いなくミスリアだと言うのに、なんと声をかければいいのか、自分には見当も付かないのである。 湖と谷のうねりに見入る。どれをとっても深く、近くまで降りるのに時間がかかりそうだった。 ――随分と遠くに来たものだ。 遠くに来たと言うのに、いざ終わりを目の前にすると、呆気なく感じてしまう。 始まりは処刑台だった。南東地方の茹だるような暑さと大気の乾き、鬱陶しいまでに密集した人口を背景に、この小さな聖女に出逢ったのだ。 ――これが、終わり。 語り継ぐ者の一人も居ないこの広大な地で、間もなく彼女の一生は幕を閉じる。 呼吸が浅くなるのを感じた。血流を巡る焦燥感には、恐怖に近いものがあった。 「神々を摂理とするなら……世界の摂理を守るもの、摂理に守られているもの。この下にあるのは、そういった大いなる存在です」 極めて穏やかな声で。罪も心も洗い流せる壮大な風景だと、彼女は称賛する。 ゲズゥはそう感じていなかった。むしろ心に開いた風穴に冷たい風が突き刺すような、物寂しい景色に見える。馬鹿げた感傷だが、実際にそう感じるものは仕方ない。 「プリシェデス・ナフタは問いました。どうして神々は、魔物が生じる世界を創ったのかと」 「…………」 どうしてと考えるものだったのか。ゲズゥにとっては魔物は遭遇したら斬るもの――物心付いた頃から、その程度の認識でしかなかった。 「神々からの課題ではないでしょうか。穢れがあって瘴気があって、魔物が蔓延る。それらとどう向き合っていくかで、『人』の在り様は変わり続けます」 「……どう向き合ったところで、摂理そのものは変わるのか」 「摂理は変わらなくても、正しさの形には挑戦する余地はあると思います」 そろそろ話題はゲズゥの理解の範疇を越えていた。相槌を打つのを止めて、静聴の姿勢に移る。 「四百年も、大陸が聖獣に浄化されない時代が続きました。その間、コヨネ・ナフタや魔物を信仰する集団が現れ、ゲズゥたちの先祖含める『混じり物』が現れました。下手すると本当に、魔物になることを人類の最終目的とした――そんな世界が来るかもしれない」 ひと思案するように。ミスリアは一歩前に踏み出て、俯いた。 「でも逆に……いつか、聖獣が必要とされない時代も来るかもしれませんね」 ――それこそ甘い夢想ではないか。 思わず応援してやりたくなるような目標でもある。 「聖女ミスリア・ノイラートの肉体と魂が貯めてきた聖気を、此処に残らず捧げます。運命を動かすには足りるかもしれませんし、足りないかもしれません。私はその結末を知ることはできないでしょうけど」 くるりと少女は身を翻す。己が終わる場所を――果てしない大自然の景色を背に、切なげに笑う。 それを見せつけられた側は、肺を抉られたような気分になった。息など、ここ数分まともにできていない。 「どうか、見届けて下さい」 「…………」 泣きそうな顔で懇願されては断れるわけがなかった。だがこのまま最後まで黙っていられるほどに、ゲズゥは思いやり深い人間でもない。 「……もしも、聖獣を動かす為に複数人が必要なら、お前がその一人じゃなくてもいいだろう」 僅かばかりミスリアの瞳が迷いに揺れたのを、ゲズゥは見逃さなかった。 「引き返したいか」 そう提案すると、茶色の瞳が更に見開かれた。そして次には眉間に皺が寄り、半眼になる。 ゲズゥは極めつけの一言を放った。 「お前の気が変わって……世界の命運を左右しうる聖女から、ただの女に戻りたいと思ったなら――俺は加担する」 |
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