63.b.
2016 / 10 / 06 ( Thu )
 直径三十フィート以上の広い空間の中心に、長椅子が置かれている。両端には人の身長と同等の高さの燭台。
 長椅子に座す女が上半身の衣服をはだけさせて、傍の者に包帯を巻いてもらっている。足元に積み重なる布はびっしょりと血に濡れていた。
 女はこちらの姿を認めて、豪快に膝を叩いた。

「これは驚いた! きみたち、あれを生き延びたのかい!? おそるべき執念だ! 正直ぼくは、きみたちと聖女サマの相互依存を甘く見ていたよ!」
「相互依存じゃなくて、絆、ね」
 憎き女の言動を逐一訂正しても埒が明かないと思い、リーデンは母国語でボソッと呟いた。

「そんなきみたちに敬意を表して聖女サマを明け渡してもよかったんだけど。生憎と、かのじょはもうここにはいないんだ」
 ――此処に居ない!?
 世界が急回転を始めたかのような錯覚に陥った。
 その末に、視線はクソ女の足元で山積みになっている布に向かう。まさか、まさかアレは。女が胸に負っているらしい怪我からだけではなく、別の誰かの血をも吸ったと言うのか。

「きみが何を想像したのかは知らないけど、かのじょは逃げたよ。自分からもっと危ない方へ走るなんておばかさんだよね! 今頃は外の魔物に喰い散らかされてるかも。よくて、凍死しただろうね!」
 女は高笑いし始めた。「かわいそうだね。さぞや心細かっただろうね」
 だがもはや、相手になどしていられない。

「撤退するよ!」
 隣のフォルトへの背中を叩く。
「うえっ!? あ、はい」
 二人して脱兎の如く、部屋を辞した。
 即刻逃げる判断は、広い空間のほとんどを埋め尽くしていた異形を警戒してのことだった。長椅子の背後に佇んでいた影は、雪崩を引き起こした個体と同等以上の大きさである。そんな化け物とやり合わねばならない事態は回避したい。

 逃げながらもリーデンは、小さな聖女の身を案じてやまない。
 女が嘘を吐いたようには感じられない。またもや、空振ってしまった。

(ああやばい。外に出たって……やばすぎでしょ)
 走っているというのに、身震いした。
 捜索範囲が広すぎる。そもそも捜しても間に合うのか。
 このことをどうやって兄に伝えればいいのかわからず、リーデンはしばしの間、途方に暮れた。

_______

 ミスリアの行方を突き止めることに失敗したと、リーデンからの通達が届く数分前。
 ゲズゥ・スディル・クレインカティは、ふいに隠れ場所から立ち上がった。茂みの中に身を潜めて待機するようにと、再三言い含められていたのに、だ。
 勝手な真似をするな! と厳しく囁く、女の声を無視する。

 やたら明るい夜の風景を、念入りに見回した。
 薄赤色の空は無情にも、雪という名の困難を地上に落とし続けている。
 稜線沿いには魔物信仰を宿す石造りの砦がそびえ立つ。
 そこから出入りする人間の姿は未だに目撃していないが、今になって思い返すと、魔物だとしか説明のつかないような不細工な影が出て行くのは、数度見送っている。

 間隔が長かったために気が付かなかった。砦から出て来た異形は揃いも揃って、同じ方角に身を運んだのである。 行き着いた先に何があるのか、確かめねばなるまい。

「おい! 何処へ行く気だ!」
 女の呼びかけに振り返りもせず、走り出す。
 険しい道のりだった。辟易するほどに、何度も足を滑らせて転んだ。
 雪山とは末恐ろしい地形である――進んでも進んでも限りが見えず、近付いているつもりでも遠ざかってしまう。いつになれば行きたいところへ辿り着けるのか。胃の奥がキリキリと痛んだ。

 ――ごめん兄さん! 聖女さんの居所が掴めなかった! 外に出たらしいって聞いたけど――
 ――ああ、わかってる。

 弟の呼びかけの必死さに反して不相応に沈着な応答をしてしまったのだろう。次は素っ頓狂な返事が返った。

 ――へ?
 ――心当たりがある。確かめに行く。

 そう告げてやると、リーデンはそれきり黙った。
 ゲズゥが平静さを多少取り戻せたのは、光明が見えてきたからにほかならない。
 一旦閃けばもうそれしか考えられなくなる。狂おしく長い数分をかけて、目先の雪原を目指す。

 そして、見つけた。
 何の変哲もないはずの山肌の中の異物。人間並みの大きさの毛玉が二十ほど、ひしめき合っている。

 よく見ると毛玉は連なっており、中心に一際大きな毛玉があった。それらの周りを、イタチに似た形状の個体が幾つかうろちょろしている。元来のイタチと違って三つ頭で、人間の幼児と同じ大きさだ。
 ゲズゥは大剣を構えてその場に接近した。

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