60.i.
2016 / 08 / 13 ( Sat ) ミスリアは目を伏せて頷いた。 蓮の咲く池の傍でエザレイ・ロゥンと一緒に明け方を待った夜に、悟ってしまった。「自ら答えを紐解き、それでも使命を果たす気持ちが萎まない者のみ、先へ進む資格があるのかもしれませんね」 「ええ。完全に同調できた果てには……至上の聖なる存在と語らい、ゆくゆくは教団を導く尊き大聖者になれる。などと、夢見ていた頃がわたくしにもありました」 レティカの整った顔立ちに翳りが浮かんだ。白い手袋に覆われた細い指が、首から提げられた薄いナイフへと伸びる。す、と革の鞘をなぞる仕草が、哀愁を帯びている。 「わたくしは、一度は心が折れた者。二人の葬式の間、ずっと、ずっと考えていましたの。もう一度立ち上がるべきではないかと……けれどいくら悩んでも、この先新しい護衛を見つけて旅を続ける決意は、わたくしの中には見つけられませんでした」 突如として彼女はナイフの鞘を握り締めた。手袋の絹と鞘の革が擦れ合う嫌な効果音が耳に響く。 反射的にミスリアは身を乗り出し、己の掌をレティカの震える手に重ねた。 「その選択は……聖女レティカ、貴女だけのものです。どのような結論を出したところで誰も貴女を責められません」 「そう、そうですわね」 レティカの手から力が抜けたのがわかって、こちらも手を放して椅子に腰を掛け直した。 「私だってどこかで切り離せたらなって思うんです。護衛が私たちと運命を――末路を、共にするのは――」 いやです、と言い終わることはできなかった。 途端に息苦しくなり、心臓辺りに右手の爪先を食い込ませた。 ――嫌だ、嫌だ。耐えられない。置きざりにするのも―― 「無理ですわね。魔物信仰を是とする輩が潜む以上、一人で旅をすることは、危険すぎますわ」 レティカが諭すように柔らかく言う。 「でも切り離さないと、私は……」 考えたくなのに、望まないのに、想像してしまう。 別れの際にあの無表情の青年は、それこそどんな顔をするのか。いつも通りに動じないだろうか、それともずっと言えずに居た自分を軽蔑するだろうか。 『それがお前の願いなら、俺は手伝おう』 『お前の時間を少し貰えれば、それでいい』 髪を引っ張られた時の痛みが鮮明に頭皮に蘇る。 (言わなきゃ。でもこのまま避け続けて、嫌われた方が正しいのかも) たとえそれが最善だとしても、どうしようもなく寂しい。既に何日も、まともに話していないのだ。 (せっかく心を開いてもらえたのに、今度は私の手でその戸を閉じなければならないなんて) 嫌われるのは辛い。傷付けるのも辛い。傷付けることで自分が傷付くのも、泣き出しそうなほどに嫌だった。 「お辛いでしょう。せめて、かつて呆然自失としていたわたくしに貴女がそうしてくださったように、お力になれそうなことがあれば何でもお申しつけください。本当に、お話を聞くことしかできないかもしれませんけれど」 「いいえ、十分ですよ」 心遣いが胸の内に染み渡る。 レティカの優しさに甘えて、ミスリアはつっかえていたたくさんの想いを明かした。肝心な「先への不安」に関しては多くは語らなかったが、これまでの旅を声に出して振り返るだけで、いくらか気が軽くなる。 果てには姉の話に至り――肩を震わせて大泣きをした自分をそっと包んだ温もりには、深く感謝した。 「わたくしは忘れませんわ、聖女ミスリア。貴女がどのように生きて、どのように戦ったか。わたくし自身、これからどうなろうと、絶対に忘れません」 「ありがとうございます。私も、絶対に忘れません」 いつしか教皇猊下の仰られた通り、人と出会うことは、世界を広げることである。 ――他人との縁は、人生の宝。 レティカと固く抱き合いながら、ミスリアはその事実を噛みしめていた。 _______ 長い間、何故だか息をしていなかった。 天井の中心を占める六角形の窓ガラスから差し込む力強い光が、瞼に「開け」と否応なく命令しているようで、ついでに意識を覚醒させてくれた。 窓から入り込む光は、複雑な形の巨大な角柱(プリズム)を通り、虹の色を余すことなく壁に映し出している。それらに照らされし、壁に描かれた図形や模様もまた美しく、地に生きる物としてのあらゆるしがらみや苦しみを一時でも完全に忘れさせてくれた。 太陽の角度から察するに、時刻はきっと正午だろう。 聖女ミスリア・ノイラートが大聖堂の大理石の床の上で大胆にも仰向けに寝転がっていたのは、この地が大昔に聖獣と聖人が対話したという神聖な場所であるからだ。典礼に使われる聖堂の背後、敷地内の建物の並びで言うなれば中央の一点。 ミスリアはまず、肺が機能を再開してから間もなく、指の関節を動かしてみた。次いで手首や足。 衣越しに背中に触れる硬い床は、まるで血が通っているかのように微かに温かい。それは触れている内に移ってしまったミスリアの体温ではなく、太陽から授かった熱でもなく、聖気が集中しているがゆえの温かさであるのは、意識の奥深くから感じ取れた。 次第にゆっくりと上体を起こす。 「旅立つ為に必要な知識は揃いましたか、聖女ミスリア」 正装姿の教皇猊下が訊ねてきた。特徴的な大きな帽子の所為で、小柄な猊下がますます小さく見える。 「はい。道はちゃんと、頭に叩き込みました」 我ながら覇気の無い声だ。 必要なお導きは確かに得られた。 「予定通りに出発します」 「よろしい。どうかあなたがたに聖獣と神々のご加護がありますように。これからも長らく健やかに過ごせますように」 「ありがたき幸せにございます」 猊下が差し伸べてきた手を取り、立ち上がる。シーダーの香りが鼻孔を掠めた。 穏やかな碧眼からは何の裏も感じられなかった。けれどミスリアには、たった今いただいたばかりの言辞をどう受け取ればいいのかわからなくなっていた。 得られたのは、安眠の地へのお導きだけではなかったからだ。 ――聖なる資質を秘めたものよ、そう怯えるな。 ――我はどのようにして活動しうるのか。汝(なんじ)ら人間どもは、仕組みを理解していない。 ――希望と絶望はそれほど違うか? ――穢れし愚か者を携えた聖女。汝が鍵となろう。 ――さあ、疾く我が元へ来るがいい。永き眠りから、我をヒトの蔓延る大地へと蘇らせてみせよ――! |
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