10.j.
2012 / 03 / 27 ( Tue )
核の魔物につられてか、他の魍魎も一斉に浄化した。銀色の粒が周囲に満ち、黒い柳の樹がそれらに照らされる。摩訶不思議だった。
全身から力が抜けて、ミスリアは濡れた地面にへたり込んだ。長いため息をつく。
少し離れた場所で、ゲズゥは直立不動で、空を見上げている。
ミスリアも空を見上げた。すると灰色の雲がぐにゃりと歪み、渦巻いた――ように見えた。渦は一点に集結し、その一点がミスリアの足元にポトッと落ちる。拾い上げた。
それは、手のひらにちょうど収まる大きさの透き通った石だった。心地良い重さと冷たさが手のひらから伝わる。ミスリアにとっては覚えのある物だ。
「この青水晶を使って封印していたのですね……。核の魔物がいなくなれば、自動的に解けるような仕掛けにして」
ミスリアが呟くと、ゲズゥは振り返った。決して急がない足取りで、彼は近づいてくる。
「こんな高等な術を扱える人間は、教団の中でも限られています」
ゲズゥは何も言わずにただ水晶に視線を注いだ。やがて飽きたように視線を外し、褪せた野原に仰向けになって寝転がった。
「つかれた」
彼は短く吐き出した。きっとその一言に、多くの感想が凝縮されている。色々なことに対しての「疲れた」であろう。
「はい。お疲れ様です」
ミスリアは水晶を懐へと大切にしまった。それが終わるとゲズゥの方へ這って近寄る。
怪我をしていない方の自分の右手をかざして、ミスリアは聖気を展開した。全部の傷を治すほどの気力は残っていないが、治さないと絶対に悪化しそうな箇所をせめて集中的に治癒したい。
ゲズゥは空を眺めるだけで大人しくしている。治癒が終わるまでの数分の間、二人は言葉を交わさなかった。
(この人は……)
彼のふくらはぎの傷を治しながら、ミスリアは物思いに耽る。
(恐ろしい罪をたくさん重ねてきたけど……でも私には一つだけ、わかったことがある)
チラッと、一瞬だけ彼の顔を盗み見た。涙の乾いた跡が薄っすらある。
(ゲズゥ・スディルこと「天下の大罪人」には、人の心が、紛れもなく有るわ)
たとえその心が他人に向けられない種のものだとしても、少なくとも家族に対して、親愛の情を抱いている。それを発見できただけでも、どうしてか、ミスリアは安心できた。
治癒を終えて、聖気を閉じた。その時を待っていたかのように、ゲズゥが起き上がる。ミスリアの真正面で胡坐をかいた。
彼はミスリアの左腕をじっと見ている。先ほど噛まれたので、牙の痕から血が出ていた。皮膚も酸に焼かれて赤い。
痛みは麻痺してきたので気にならないけれど、失血で頭がくらくらする。
「お前は治さないのか」
「それが、実は自分で自分を治せないんです。後でカイルに頼みます」
腕を裏返したりして傷口をよく見てみたら、予想以上にグロテスクで、顔をしかめる。変な臭いもする。応急処置ぐらいするべきだと思った。
指の腹に、ふいに温もりが触れた。吃驚して、反応が遅れる。
ゲズゥはミスリアの手を握り、引き寄せては、前腕辺りを凝視した。勿論、その間も無表情でいる。
「放っておけば化膿する」
「は、はい、わかっています」
ミスリアがそう返事をすると、ゲズゥはポケットから包帯を取り出した。剣に巻いていた包帯だ。手際よく、彼はミスリアの腕の手当てをし始めた。
「お上手ですね」
「慣れているだけだ」
自分の傷の手当てで慣れているのだろうか。そういえば最初に会った時、傷跡だらけだったのを覚えている。
包帯の感触が、なんだかくすぐったい。ミスリアはなんとなく気恥ずかしくなり、空の方へ視線を投げた。
雲間からのぞく六色の弧に、思わず感嘆した。
「綺麗な虹です」
ゲズゥにも見てもらいたくて、そう口にした。彼は顔を上げた。
雨上がりの空から雲が次第に身を引き、それによって出来た隙間から見事な虹が伸びる。太陽が地平に潜りそうで潜らない、そんな時刻だからか、空は若干赤みがかっている。空はいつ見ても美しく、飽きないものなのだと改めて得心した。
衝動的に、ミスリアは語りだした。
「……朝、最初に外に出た時に、冷えた空気を一息吸い込むでしょう? その瞬間、肺を通して体中に、たとえようのない感覚が広がるんです」
ゲズゥは左右非対称の目を静かにミスリアに向けた。こう近距離で見つめられると何故だか緊張する。ミスリアは早口にならないように注意した。
「命を吹き込まれたような……とても言いようのない大切な何かを与えられたような……」
巧い言葉が思いつかなくて、口ごもった。
「どうしてでしょう」
独り言のように話し続ける。ゲズゥはというと包帯を巻き終わって、端と端を結んでいる。
「何だか、生きてて良かったって思うんです。この世界を経験できて、良かったって。自分を取り巻く何もかもに、ただただ感謝したくなるんです――」
風が音を立てて吹き抜けたので、最後の方は多分かき消された。後に残った沈黙に、はっとなって、ミスリアは頬を赤らめた。
おかしなことを言ってしまったと後悔する。咄嗟に俯いた。
「だからこそ、生きているっていうのは、それだけで手放しがたいんだろう」
低い声で彼は意外な言葉を返してきた。あたかもミスリアの言い分に共感を持ったようである。
どんな生き物だって、生きていれば死にたくないと願うのは当然だと、そう言っている風に聞こえた。
ミスリアは相槌を打とうとして、結局黙り込んだ。
食事をし、己が生き延びる選択をする限り、別の何かが犠牲になっているということで、それでも皆生きたいと切望するのは間違っていないのだ。ならば相克の末に残るものが、正しいのか。よくわからない。
摂理は単純なものではなく、また別の機会に熟考したい問題だった。
ふとミスリアは、手当てが終わったのに手がまだ掴まれたままだと気付いた。
ゲズゥの無骨な手は温かくて力強くて、包まれている自分の指先からふわふわとした落ち着かなさが全身を伝う。
(そろそろ放して下さいって言ったら変かな……どうなの……?)
「なるほど、生身だな」
「はい??」
何を言われたのかわからなくて、ミスリアは返答に困った。
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人間かどうか疑うこともあれど、少女はたった今、普通の一般人と同じに怪我をして血を流したのである。
ゲズゥは触れた手からその事実を確かめ、また、聖女の質量や熱をも確かめていた。自分が強く握るだけで、小さな白い手の中の骨は残らず潰れるだろう。少女の見た目通りの脆さを感じ取れる。
それにしても、まったくどうでもいいことだが、滑らかな肌だと思った。自分のが厚くて硬くてザラついているから、余計にそう感じる。
「――――好きか嫌いかと問われれば、どちらかというと俺はお前が嫌いだが」
ゲズゥはそのように発話した。
「うっ……それは、なんか、今まですみません……?」
切り出し方からして決別を言い渡されると思ったのか、聖女は暗い声と表情で応じた。目を伏せ、長い栗色の睫毛を瞬かせる。
別にこちらとしてはそんな予定は無かった。
あまり深く考えずに、聖女の手を握り締めた。聖女は茶色の瞳を一層大きく見開いた。
「聖女、………………ミスリア。お前が母の魂を解放した恩を、今後忘れたりしない」
その名を呼ぶのが初めてだったからか、音の羅列は舌に馴染まず、妙な感じがした。
聖女ミスリアはまずきょとんとした。
ゲズゥの言葉の意味を飲み込むまでの間が過ぎると、今度は会釈した。弾みで栗色のポニーテールが揺れる。
「どういたしまして」
ミスリアはふわっと柔らかく微笑んだ。
強く、手を握り返しながら。
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