60.d.
2016 / 07 / 26 ( Tue )
「ありがとうございます」
 まとまったところで、皆で寄宿舎に向かう。三階廊下の突き当たりの部屋の戸を開くと、フリージアの爽やかな香りが迎えてくれた。
「どうぞ好きにくつろいで。すぐにお茶を淹れるからね、マリちゃんが」

 リーデンがそう言って掌を翻すと、足音も立てずに彼女は現れた。まるでひらひらと宙を舞った手の背後から現れたかのような錯覚を覚える。
 まるで手品みたいですわね、とレティカが楽しそうに称賛した。
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
 腰を落ち着ける場所を求めて視線をあちこちに巡らせる。

 客用の部屋はミスリアが見習いだった頃に寝起きしていた寮に比べて、かなり広くて快適そうだ。寝室のみならず台所と食卓、そして小さな居間まで付いている。低く丸いテーブルの上には、読みかけの本が無造作に開かれている。
 いかにも古そうな本をそっと手に取りつつ、ミスリアはテーブル横の椅子に座った。テーブル横のもう一つの席にレティカが座る。

「どんな本ですか?」
 問われてカバーを確認した。開かれたページの場所をうっかり失くさないように、親指を挟んで。やはりよほど古いのか、ぱりっ、と紙の軋む音がする。
「南の共通語ですね。『征圧された人民の歴史』……ですか」
 思わず二人して、近くの青年を見上げた。本棚に肩肘をのせて優雅な立ち姿を演出している彼は、とろけるような笑みを浮かべる。

「それはマリちゃんの私物だからね。読み書きの練習に欲しいからって、ずっと前に僕が買ってあげたんだよ」
「……この本を教材にしてその方は字を学ばれたのですか?」
 胡乱げな目で訊ねる聖女レティカ。
「他のお気に入りは、『奴隷無き世の実現性』とか『王制の存在意義を問う』辺りかな。どれもお役人さんに見つかるとその場で燃やされるようなヤバい作品で、元々の生産数も二十冊と無いよ」

「そんな危険な物を此処に持ち込んだのですか――いいえ、やっぱり見なかったことにしますわ」
「あははは、気にしちゃ負けだよ」
「……」
 沈黙に割って入るように、お茶とお菓子を運ぶ盆がすっとテーブルに降りてきた。その後、開けっ放しの本をイマリナに返すと、彼女は無邪気な笑みで愛読書を受け取った。

(無邪気、なんだよね?)
 なんとも言えない気分でミスリアは微笑みを返した。
 お茶に濡らして食べるタイプの硬いクッキーを、黙々と口に運ぶことに専念する。渋めのお茶を吸った甘いクッキーが、ちょうどいい口どけになっていて美味しい。

 やがて世間話が一通り終わる頃に、戸が開いた。
 思わず肩が跳ね上がりそうになるのを堪えた。視線をやらずとも、入って来たのが誰であるのかは察しが付いた。僅かばかり息が上がっているらしいことにも耳ざとく気付いて、何故か自分も呼吸が速くなった。

 入室したゲズゥの姿を認めて、開口一番にリーデンが「で、ユリって結局なんだったの」と問い詰めたのは、どういう意味だろうか。

「ユリ?」
「兄さん、ユリ科がどうとか言ってたじゃん」
「言ったか……?」
「えー、何で忘れてんのー」
 この旨の問答がしばらく続いたものの、結局要領を得ることなく終わった。何だったのだろう。

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