10.i.
2012 / 03 / 26 ( Mon )
 蜘蛛の魔物は腕一本を使って聖女の白くて小さい手を引き剥がそうとするが、よほど強く抱きついているのか、聖女の手はびくともしない。
 
「――彼こそ、貴女がずっと探していた人です! 帰ってきたんですよ! もう待たなくていいんです……!」
 聖女が泣き叫んだ。無駄なあがきに思えたが、あろうことか、魔物はまるで聞き入るように直立した。おかげで組み伏せられていたゲズゥは少しだけ息がしやすくなる。
 
「昨日は、懐かしいにおいがするって、そう言ったじゃないですか。思い出して下さい」
 ゆっくりと、そしてはっきりと聖女は言葉を紡いだ。魔物は首を回転させて、視線の先を聖女の顔に定めた。
「彼の左目を見て、仲間と呼んだのでしょう?」
 
 聖女にそう言われて、魔物は再び首の向きを変えた。首を不自然に伸ばし、ゲズゥに顔を近づける。気味悪く変形していた魔物の顔が元の美しく若い娘の顔に戻っている。
 魔物はこちらをまじまじと見つめてはにおいを嗅いだ。考え込むように眉根を寄せている。
 
「思い出しましたか?」
 魔物は返事をしたがっているかのように血に塗れた唇を動かした。
 が、声を出すことは無かった。
 
 唐突に、魔物が聖女の手首を引き寄せた。気を緩めてしまったのか、今度はあっさりと聖女の手が魔物の腰付近から離れた。
 少女の柔らかそうな肉付きの前腕に、異形のモノの牙が食い込む。
 
 聖女が悲鳴を上げた一瞬のうちに、ゲズゥは上体を起こしてすっと立ち上がり、腕を魔物の首に絡めた。片手を後頭部に当て、片手をうなじに当てる。第三者からすれば、愛しい者を抱き寄せる動作に見えたことだろう。手に触れた肌には何の熱も通っていなかった。
 
「……許せ」
 ゲズゥの静かな声に、魔物はぴくっと痙攣した。
「もっと早く戻っていれば気づいてやれた」
 魔物が顎の力を抜いて、聖女の手を解放する。
 
「弱かったから、二度と手に入らないものを求めたら、自分が壊れると思ったから、長い間逃げていた」
 奥に封じ込んでいた本心を吐露するのは、非常に疲れる。一言漏らす度に、ゲズゥは息を吸い込んだ。
 母の黒い両目が潤んだので、通じていることを知った。
 
「あの時一緒に居なくて、自分だけ運良く逃れて……罪悪感もある」
 ごめん、と小声で謝罪した。
 緑色の涙を流す母の瞳はいつしか正気を取り戻していた。

「待っててくれて――ありがとう」
 指でその涙を拭ってあげた時に初めて、自分の頬をも伝う温かさに気付いた。
 涙を流すなどあまりに久しくて、どういう感覚だったか忘れていた。
 
「もう十分だ。もう、楽になって、眠ればいい」
「ア……」
 魔物は何か言おうとして、急に呻いた。苦しげな表情になる。
「いけません! お母様の自我がまた埋もれます!」
 聖女が再度魔物の腹にきつく抱きついた。
 
 ゲズゥは一度目を閉じた。
 所詮は魔物は死人でしかないのに、何故話し合おうなどと聖女が考えるのか、今ならわかる気がした。
 せめて無に帰す前に何かしてやれたのだと、心だけでも救ってあげられたのだと、生きる側が感じたいからだ。そうしなければ、残された方がいたたまれない。
 
 死した者は地に還るべきであり、魔物という存在は異形でしかない。
 頭では、その事実を冷静に理解していた。後は、別れを受け入れるだけだった。
 目を開け、ゲズゥは魔物の首に両手を添え、力を込めた。
 
「――――やれ!」
 聖女に向けてたった一言を叫んだ。
 魔物が苦しそうにもがくが、ゲズゥは更に強くその首を絞めた。
 ゲズゥを見上げて聖女は頷き、聖気を展開した。
 
 音はしなかった。むしろ、静寂が広がったような感覚があった。周囲に漂っていた瘴気まで清まったようだった。
 魔物の青白いゆらめきと聖女の発する金色の光が交じり合う。
 
 象牙色の腕や脚、次に白髪が、順に銀色の粒子と化した。肌の表面中に浮かんでいた人面が安らかそうな表情に変わると、ひとつずつが鎮まり、消える。
 気付けば魔物は微笑みを浮かべていた。
 ゲズゥを真っ直ぐ見つめる黒曜石に似た瞳は、穏やかだった。
 
 ――大きく、なったのね――
 
 
 驚いて、手を放した。
 彼女は口を動かしていなかった。声は直接頭の中に響いているようだ。背後の聖女にも一度微笑みかけてから、ゲズゥを見上げた。
 
 ――逢えて嬉しいわ。生きててくれてありがとう。あんたはちゃんと長生きしなさいね――
 
 
 至福の喜びを見つけたみたいな顔をして、母は天へと消えていった。

拍手[2回]

テーマ:<%topentry_thread_title> - ジャンル:<%topentry_community_janrename>

01:11:26 | 小説 | コメント(0) | page top↑
<<10.j. | ホーム | 10.h.>>
コメント
コメントの投稿













トラックバック
トラックバックURL

前ページ| ホーム |次ページ