10.h.
2012 / 03 / 23 ( Fri )
「 では帰ってこなかった子供というのは……」
ミスリアはおそるおそる訊いた。
「帰ってくるのが遅れて、戻ったら全部終わった後だった」
ゲズゥはふいっと目を逸らした。
「二、三日留まって……魔物には一匹も出くわさなかったが……?」
問いかけるように語尾が跳ね上がる。
そこから、「再会」する機会はあったはずなのにそうならなかったのは何故か、という問いかけも含まれていたのを読み取った。
「亡くなった方が数日経ってから魔物として蘇るのは……割とよくあることです……」
消え入るような声で答えたら、その後しばらく沈黙が続いた。起き上がろうともがく魔物の娘を、無言で見張っているだけの沈黙。
「あの、お母様のご遺体は……」
確認しましたか、と訊こうとして、ミスリアは両手を握り合わせた。魔物は死んだ人間、つまり肉体から流離した魂をもとにしている。死したことが確実ならば、あの魔物の正体もより確たるものとなる。
残酷な質問であることは重々承知している。けれどもゲズゥは確かに昨日、「自分の手で村人を埋めた」と自ら告白している。それならば、或いは――。
「見てない。村が半分以上焼け崩れて探しようも無かったからな。父親は、確かに死体を見つけたが、母のは、ない」
体の向きを変えず、目だけを動かして、彼は答えた。話しながら次第に言葉が重くなっていくようだ。思い返すだけで相当気力を要するのだろう。
その時、魔物が雄たけびをあげた。怒りが大気を震わせる。
娘の腹部が歪に膨らんだ。横腹から更に腕を二本、脚を二本ずつ生やし、蜘蛛のような形になって身を起こした。無数の人面が体中に浮かび上がっている。
「さがれ!」
ゲズゥがそう叫んだので、ミスリアは安全な場所を求めて後退った。
彼は跳躍してきた蜘蛛を一度かわし、再び取っ組み合いになった。
(お母様があんなになってしまうなんて)
残念ながら、話し合うことは難しい。言語能力の崩壊は勿論、彼女は己が数時間前に何をしていたのかすら記憶に無いぐらい、意識が混濁している。祭の日から既に十二年経っていることを、理解できるとは到底思えない。
何とか彼女に言葉を届ける術は無いものかと、ミスリアは懸命に模索した。垣間見た記憶を辿って、ヒントを探す。
(あれ? 回想の中の彼女は確か両目とも黒かったよね?)
今の状況に関係のない、別のことを思い出した。
つまりゲズゥの母親は「呪いの眼」を持っていなかったのだ。一方で、薔薇をくれた男性の方はどうだったろうか。よくよく思い返してみれば、あの人の瞳は左右対称ではなかった気がする。更に思い返してみれば目元とかゲズゥに似ていた気がしてきた。
(あの人がお父様なら、ゲズゥの左目は父親譲り?)
気にはなるけど、明らかに問い質している場合ではなかった。
蜘蛛となった魔物が体格で勝り、ゲズゥを地面に組み伏せた。美しかった顔もでこぼこと変形してしまっている。真っ直ぐだった白髪は、一本一本が別の命を吹き込まれたみたいに、うねうね蠢いている。
魔物は赤ん坊の頭を丸呑みできそうなぐらいに口を開けた。
そうしてゲズゥの左肩から一口の肉を食いちぎった。彼は苦痛に耐えるが如く、歯を食いしばった。暴れようにも、両手両足が拘束されている。
口に含んだ肉を飲み込むと、魔物は恍惚にとろけそうな表情になった。口元からよだれが垂れているのに、どういうわけか、あの酸は彼女自身にとっては無害らしい。
よだれと一緒に、赤い液が垂れている。
こんなになっても、彼女の内なる心の悲しい叫びはミスリアに聴こえていた。
いくら食べようとも満たされることの無い虚しさ。空腹の所為じゃないのに、魔物たちはそれを自覚できない。
もう余計なことを一切考えずに、ミスリアは動いた。
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数秒間、頭の中が真っ白になった。
肉を食いちぎられ、傷口に酸が塗り込まれた状態で何かを考えていられたらそれこそ異常かもしれない。
すぐ近くに血塗れ(まみれ)の顔がある。
自分はここで死ぬのだろうか、とゲズゥは麻痺した頭で漠然と思った。生を与えてくれたそもそもの源である母がそう望むのなら致し方ない、とも思う。長い間苦しめてしまったことを深く深く後悔した。
魔物は片手を構えた。そのまま腹を刺されるのに備えて目を閉じたが――
「ダメです!」
少女の声がしたと同時に、魔物の動きが止まった。
目を開けると、聖女が後ろから魔物を抱きすくめているのが見えた。
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