58.e.
2016 / 06 / 14 ( Tue )
『適当に、合わせて』
 首を傾げてこちらを見つめているイマリナに手話で指示を出した。
『わかったー』
 それだけで意図は伝わり、彼女は素直に承諾する。兄もこれといって文句を言わずに荷物の方へ向かった。
 こうしてできた隙を利用し、リーデンはぽつんと立ち尽くしている少女の傍へと歩み寄る。

「聖女さん聖女さん。放心しちゃって、どうしたの」
 耳元に口を寄せて囁き声で問いかけたのは勿論、悪戯心からであった。吐息は大袈裟に、多めに。
 期待通り「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げてミスリアは跳び退った。
「ど、どう……も、しません、よ……?」
 言葉とは裏腹に目がこの上なく泳いでいる。誤魔化すのも嘘を吐くのも苦手な、愛すべき正直者だ。

「ふうん。僕はてっきり兄さんが、ついに手を出したのかと思ったよ」
「てっ、手を――出すって、どういう!? い、いえ、何も……ナニモアリマセンデシタヨ……」
 なんとわかりやすい挙動不審か。リーデンは漏れそうになる笑いを堪えて、じっくりと少女を観察した。
 波打つ栗色の髪は、うなじ辺りが多少乱れている。白い頬に赤みが差しているのは日差しの所為だけじゃないだろう。

 ひとしきり手を振り回した後は、中指で下唇をそっと押している。
 おそらくは無意識での動作だろうに、たったそれだけの仕草が事の顛末を物語っていた。

「敢えて想像するなら――口付けされたってトコかな」
「ふっ、ぐ、う」
 しゃっくりのような悲鳴のような呻きのような。不可解な音を立てて身を縮み込ませるミスリアがひたすらに面白い。

「どうやら核心をついたようだね?」
 泣き出しそうなほど動転しているところ少々哀れだが、こちらはまだ攻めの手を緩めるつもりは無い。
「……ずっと考えてるんですけど。よくわからないんです」
 潤んだ大きな茶色の双眸が、チラチラとこの問答の発端を作った人物を瞥見する。

「何が?」
 笑顔で訊き返した。相手があの兄では「わからない」点の方が多いに違いない。目の前のこの少女が真剣に何を悩んでいるのか、是非とも詳細に聞きたかった。
「うんと小さい頃は家族と挨拶で唇を重ねることはあったんですが……あれとは違うような」

「そりゃあまあ、違うねぇ」
 段階的に思考はまだそこで詰まっているのか、と内心では苦笑する。
 このお年頃の娘は一般的に、接吻されたらそこに恋愛感情が絡んでいることを真っ先に疑うはずだ。いかに彼女がそういったものとかけ離れた生活を送ってきたのかが窺い知れた。

「ではどういうつもりで……」
「んー。あの人のことだから、柔らかそうなかわいい唇だな触ってみるかー、くらいしか考えてなかったんじゃないかな」
「かわっ――……そんな突拍子の無い理由で……」
「異性に触りたい衝動というものは、えてして突然なんだよ」
 と、リーデンは断言する。

「でも幼女には、よ、よくじょう? しないって……前に言ってました、よ」
「あははは、最近鏡見てる? そう言われた時がどうだったかは知らないけど、少なくとも今は、幼女とは呼べないんじゃないかな」

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