58.d.
2016 / 06 / 11 ( Sat ) 握られた手に目が行ったのは自然な流れだった。次いで「あの」や「これは?」や「どうしたんですか」のどれかで応答するつもりで口を開きかける。 その隙に、近かった距離が更に詰められ。頭の後ろにも手が回って。視線を正面に戻す間に、引き寄せられていた。偶然それは息を吸い込むタイミングと被った。 ――リコリスの香りがした。 匂いそのもの、むしろ素材の味ですら、嫌いではない。奇天烈な飴の記憶と以前に教皇猊下と飲んだお茶の思い出、それらの間に板挟みになって揺れる印象――に、気を取られた。 それは瞬きの間に起こった。 柔らかくて温かい感触が触れる。つい、顔面の筋肉を収縮させたのは生理現象と言えよう。 微かな鉄の味がした。 (違う。血の味) 何故そんなものがするのか、理由を考えようとすると頭の中が真っ白になる。 動揺で身体が硬直しかけて、しかしわけもわからない内に力が抜けて瞼が下りた。眠さからではなく心地良さからだ。 なにこれ、と薄ぼんやりとした疑問が己の中で浮かび上がる。 髪を撫でる手も、唇に触れる柔らかさも、右手を握る力も。突飛なのに親しみ深い。 そしてそれらが離れるのも突然だった。 「痣くらい放っておけ。どうせわからない」 ぱちぱちと瞬くとすぐそこにはいつもと変わらない様子のゲズゥの顔があった。深い黒をたたえた右目と、前髪の間から覗く「呪いの眼」。射貫かれている気分だった。 (肌色が濃いから腫れも変色も見た目じゃわからないって意味かな) でも見えなくても痛いのは同じなのに、と言おうとして何も声が出なかった。切れた唇に目が行く。 (――――っ) そわっとした。何がどうしたのか、感想が形に成ることは叶わず。よくわからない心持ちは指先にまで伝わり、視線は定まった一点から外すことができない。 「戻る」 ゲズゥが樽から立ち上がって歩き出した。 「は、はい!」 硬直が解けると共に、急いでその後姿を追う。 (なんだったの……なにこれ……) 右手が熱い。目に見えないだけで、今でも圧迫する力がそこにあるみたいに錯覚した。 動悸が速まりすぎて、寿命まで縮んでしまいそうだった。 _______ (おや? おんやぁ~) リーデン・ユラス・クレインカティは、戻ってきた二人の妙な距離感で直ちに異変に気付く。ミスリアがゲズゥの後ろを歩いているのはいつも通りとして、ずっと足元を見ているのが怪しい。 (ほんのり青春のかほりがするなぁ) 生まれる前からの付き合いなだけに、兄がさらりと淑女に無作法を働いたのだなとリーデンには直感だけで的確に推し当てることができた。 何やら和やかな気分になってしまう。 青春、とは――殺伐とした人生を送ってきた自分たちにはとんと縁が無かった現象である。 遅れてやってきた春に感銘を受ける反面、当人たちをからかいたくて仕方がないのがリーデンの性分であった。 「兄さんー。ちょっとマリちゃんが荷物整理するの、手伝って」 重いものもあるから、ととりあえず適当な理由を付けて二人を引き離すことにした。 |
|