10.g.
2012 / 03 / 21 ( Wed )
 魔物が四つん這いになり、倒れた聖女に近づいている。この展開はまずい。
 
 とりあえず駆け寄った。魔物の娘に斬りかかろうと構える。
 振り上げた腕が、空中で止まった。己の意思からではない。剣も合わせて茨に巻き取られ、身動きが取れないからだ。
 
 娘が、こっちのことはお構いなしに聖女の片手を持ち上げている。かじりつく気だろう。
 ゲズゥは舌打ちした。剣を離し、強引に腕を前へ引いて奪い返す。無数の棘が腕に刺さっているので、あっという間に右腕は赤い線だらけになった。
 
 そのままの勢いで、魔物の娘に体当たりした。
 
_______
 
 ゆっくりと目を開けた。
 視界も頭もぼんやりして、どこにいるのか感覚があやふやだ。もう一度目を瞑り、開けなおした。雨の止みかけた空には、白に近い灰色の、薄い雲がいくつも浮かんでいた。
 
 自分が誰なのか見失いかけて、焦りを覚える。とにかく急いで起き上がった。
 
「いたっ」
 何か重くて硬いものが胸元にぶつかってきた。それを視線で辿ると、銀色のチェーンで首にかかっているものだと知る。ペンダントに、そっと触れる。ひんやりとしていた。十字にも似た独特の形を指先でなぞると、自分が何者なのか徐々に思い出せてきた。
 
(そう、私は「彼女」の記憶に触れようとして――)
 ミスリアはこれまでの経緯を、順を追って脳内で再生した。救うために、対話しようと試みたことを。
 
 獣の怒声のような音に思考を遮られた。ミスリアは素早く顔を上げた。目の前で誰かが激しく取っ組み合っている。転がり、殴り合い、引っかきあい……。
 違う。よくみれば殴っているのは一方で、引っかいたり噛み付いたりしているのがまた別の一方だ。
 
 冷や水を浴びたかのような衝撃で、何が起こっているのか飲み込めた。
 
 ゲズゥが白髪の魔物に頭突きを喰らわせる。魔物は仰け反り、例の強烈に酸性な痰を吐いた。ゲズゥはそれを避けると、肘で娘の頭を殴った。二人はそうやって何度も攻撃の応酬を繰り返す。
 何か手助けはできないかと思ったはいいが、出たのは質問だった。
 
「……ゲズゥ! 黒髪黒目で、右目に泣き黒子がある女性に心当たりはありますか!?」
 意識が遠のいていた間に垣間見えた記憶を思った。
 返事は無かったが、彼は呪いの左目でミスリアを一瞥した。
 
「おそらくはその人の正体です! 彼女は長く存在し続けたのでいろんな人を取り込んでいますが、たくさんの記憶の中で一番強い想いは、子供に会いたいという願いでした! 祭の日に出かけて、いつまでも待っても帰ってこない子を!」
 取っ組み合いは尚も続いた。二人は見る見るうちに傷が増える。ミスリアは無力な自分が悔しくなった。
 
 魂を繋ぐ歌の効果はまだ残っている。しかし、魔物の方の意識が混濁しすぎているため、これ以上記憶を覗けないし、呼びかけても届きそうにない。
 
(祭の日に……村が襲撃されて……燃え上がって……)
 断片的に拾えた記憶は、人一人を発狂させるには十分なものだった。実際には、複数の人間の記憶を合わせて視たようなものだが。
 
 それが過去の出来事で、自分の身に起きたことではないのだと、幾度となく自分に言い聞かせて、ミスリアは震えを制御した。悪夢から覚めたような後味の悪さは残る。背中を丸めて、自分で自分を抱きしめた。
 
 ――彼女は絶望に沈みながらも、死ぬ間際までただただ子を想い続けたのだ。
 
 娘の横腹をゲズゥが蹴り飛ばした。娘は数ヤード吹っ飛び、地面に転がる。
 彼は片膝つくと、父親の形見である大剣を振り返り、次に無表情にミスリアを見上げた。
 
「………………母だ」
 驚きのあまり、ミスリアは声が出なかった。
 
「それは、俺の母親の、特徴だ」

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