57.j.
2016 / 06 / 01 ( Wed ) 「一番悲しいのはエザレイさんじゃないですか。これから幸せになるのは難しいでしょうけど……解放されて、いいんですよ」
「――――っ」 視界がぼやけた。胸の奥がぐっと狭くなったのに、息をするのが随分と楽だ。 「話してくださってありがとうございます」 言葉の途中で聖女ミスリア・ノイラートは抱きついてきた。春の太陽を思わせる温もりが重なる。 何かが溶けていく。 自分の中で長年わだかまっていたものが、緩やかに解かれていく。溶けたからと言って消えてなくなるわけではないが、以前のような毒々しさを保たなくなっていた。 エザレイの唇の合間から、微かな笑い声が漏れた。これまでとはまるで違う、穏やかな吐息である。 「カタリアに出逢った頃、俺はあまりに何も持っていなかった。そうして手に入れた居場所に依存し、内心ではいつも失うことに怯えていた。実際に失った後、心をどう保てばいいのかわからなくなった」 春の匂いがする聖女を抱き締め返し、そして彼女の後ろに佇んでいた長身の男に向けて問う。 「あんたらはどうだ。会えなくなったら、耐えられるのか」 青年は何度か瞬き、無表情を崩さずに返答を述べた。 「その時にならないとわからない」 無機質に低い声。これだけでは、将来どちらに転ぶかは見抜けない。先延ばしにした分だけ絆が強まるのか脆くなるのか――。 「まあ、頑張れよ」 どう言ったものかわからないので、エザレイは短い応援の言葉を口にした。 _______ 賑やかな街道の風景だった。 隣には懐かしい人が居る。楽しそうな横顔は、露天商が台に並べた商品を眺めている。 「欲しいのか? それ」 とある台の前で結構な時間を過ごしていた。何かが彼女の目に留まったのかと、声をかけてみた。 「素敵ですよね」 欲しいかどうかの質問には直接触れずに、少女は振り返って笑う。何をそんなに夢中で見ていたのか、一緒になって身を乗り出す。 ここは女性向け装飾品を取り扱っている。服に付けるブローチや髪留めなど、さまざまな小物が置いてあった。青年にはどれもとても可愛らしいように見えるが、彼女はとりわけ地味な品物を見ていた。 「渋い色だな。リボンを付けるならもっとこう――ほら。ピンクとか赤とか、そうだな、あんたの栗色の髪にはこの水色とか似合うんじゃないか」 「でも私はこれがいいです」 何故か意味深に笑って、少女は首を傾げた。 かといって買うわけでもなく、彼女は背を向けて歩き出そうとする。見失ってしまう前に青年は紙幣と品物を露天商と交換した。 駆け足で彼女に追いつくと、茶色の瞳が丸く見開かれた。 「欲しかったんだろ。別に聖女だからって、何でもかんでも我慢することないと思うぞ」 そう言って一組のリボンを差し出すと、少女はぱあっと顔を輝かせた。 「ありがとうございます!」ぺこりとお辞儀をしてから、少し離れたところで買い物をしている兄妹の方へ走った。「イリュサ、つけてください」 「可愛らしいリボンですわね。三つ編みの結び目につければいいですか?」 「はい。お願いします」 器用なイリュサの手にかかれば数秒と要らなかった。そうして新しい装飾品を身につけた少女は、嬉しそうにくるくる回る。 「さすがは聖女さま。何をお召しになってもさまになりますね」 ディアクラが歯の浮くような台詞を真顔で言い放った。イリュサもそれに倣って、「いい物を選びましたね」「素敵ですわ」などと賞賛する。 たかがリボンでそこまで喜んでもらえるとは思わなかった青年は、一人輪の中に入れずに居た。 けれどしばらくして、少女が軽やかなステップで駆け寄ってきた。 「エザレイ! どうですか」 つい気圧されて仰け反る。 「な、なんだよ。たった今、さんざんあいつらに褒めてもらっただろ」 まだ意見を求めたいのかと暗に言ってみたが、彼女は引き下がらない。 「それはそうですけど」 私はエザレイに見て欲しいんですー、と拗ねたようにぷっくりと頬を膨らませた。 「わかったって。へんな顔するなよ。よく似合ってる」 「ほんとですか!?」 「ああ、可愛い」 半ば投げやりに言っただけだったのだが。 その後に続いた満面の笑みを前にして、俺もまんざらでもないな、と内心では思っていた。 _______ 次のkで終わりです! |
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