57.i.
2016 / 05 / 31 ( Tue )
 乱心して、護ると誓った人の柔肌を喰いちぎる――
 その場面を数え切れないほどに悪夢に見た。
 しかし現実のエザレイはそこまで堕ちずに済んだ。人の道を修正不可能な位置にまで大幅に踏み外したのは覆せない事実でも、その一点だけが救いだった。

 カタリアに襲い掛かろうとはした。すんでのところで飢餓を上回る激情にさらわれたのだ。
 この世のものとは思えぬ苦痛に耐えながらも、逃げて、と何かのひとつ覚えみたいに唱える彼女を視界に認めた瞬間。
 敵を引き裂きたい。それしか考えられなくなった。

 手応えを感じられれば感じられるほどに良かった。ミスリアたちには口頭で説明できないような――さまざまな非道を行い、ついでに敵の血肉で腹も満たした頃には、辺り一面がひどい色に染まっていた。草原は凝固した血液の重みで萎れ、二度と生命が立ち上がれそうにない有り様だった。
(あの頃を境にメイスを使うようになったのか、そうか)
 敵を殺害した実感と手応えをより濃密に欲するようになったのは、人としての自分の心が望んだのか、魔となった自分が望んだのか。無意味な問答である。

「俺が記憶を失くしたのって、きっとカタリアの優しさだったんだろうな」
 周りにも聴こえるようにひとりごちた。
 忘れていなければ、魂を燃やし尽くすまで復讐に明け暮れたことだろう。それか、殺す相手が誰も居なくなるまでに現世を彷徨ったはずだ。
 仲間を喪ったショックも、彼らを自ら埋めた苦行も、背負わねばならなかった。何より人を喰ったという重き業を記憶したまま、普通の生活なんて送れたはずが無い。
 では全てを思い出してしまったからにはこれからどうするのか。それはまだ考えたくなかった。

「彼女は死ぬ間際に、最期の力で幾つかのことを成し遂げた。魔に転じた俺を人間側に引き戻し、この地を封印し、いつか生命がまた芽吹くようになるまで守り抜いた」
 次に目が覚めた時にはエザレイは何もかもを忘れていた。魔物狩り師としての習慣と、「償え」という想いだけが残った。手探りで藪の迷路を抜けて――これには多分半日かけた――そこからはもう、霧の満ちた頭でなんとか生き続けた。

「ほんの少しだけ、期待してたんです」
 埋めていた顔を上げて、ミスリアがぽつりと言った。
「期待?」
「ほんの少しだけですよ。封印の永続性を支える人身御供となったお姉さまが、封印さえ解いてしまえば、元気な姿で戻ってきてくださると」
 目に見えて意気消沈しているカタリアの妹を見て、エザレイはやるせない気持ちになった。

「……ごめんな。俺は霊的な話はよくわからないが、魂が封印と同化したとしても、肉体は確かに死を迎えた。そればかりは、ごめん」
 言いながらもカタリアを横抱きにして運んだ時の感触が蘇り、息苦しくなって思わず目を逸らした。
「いいえ。心を壊すまでにお姉さまを大切に想ってくださった貴方に、それ以上の何かを望めません。あと、人を喰らってしまったことも……貴方が人ではなかった間の出来事です。責められるはずがありません」

「相変わらず優しいな。お前は人を許すのが己の使命だとでも思ってるのか」
 月明りに浮かぶ少女の微笑みが眩しすぎて、つい皮肉を言ってしまう。
「え?」
「詰(なじ)ってもいいんだよ。俺はお前になら刺されてもいいと思ってる」
「刺しません。なじる……えっと」
 ミスリアが歩み寄ってきた。かと思えば手を挙げている。
 ぺちん、とちょっとした衝撃が頬を打つ。

「お姉さまからの便りが途絶えてから、お父さまとお母さまはほとんど抜け殻のように生活しています。私の居場所が無くなったのではないかと、時々感じてしまうほどに。これは二人に代わって」
 ぺちん、とさっきとは逆側の頬を打たれる。やや目が覚めるような衝撃だ。
「お前だって悲しいだろ。思いっきり殴れば」
 その提案は受け入れられなかった。ゆっくりと、目の前の小さな聖女は頭を横に振る。

「いいんです。心の奥底ではわかっていました。ずっと前から」
 両目に溜まった涙を袖口で拭っている。この仕草はカタリアにはあっただろうか? なんとなく気になるも、思い出せない。
 そしてミスリアはまた笑った。表情筋が無理しているような、ぎこちない微笑だった。

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