57.e.
2016 / 05 / 25 ( Wed )
 耳が声を聴き、脳が文脈を理解してから数秒。自分ではわかりようがないが、眼球を支える筋肉が収縮し、大きく目を開いたかのように感じた。
(糸の、色)
 同じ色の瞳。それらの関連性、意味がわかった時には、笑っていた。
「なんだ、それ。何言ってんだ。俺を励ます為の妄言だってんなら、気を遣わなくていいから」
「妄言ではありません! ファイヌィの言葉で、確かにそのように刺繍されているんです。祈りの言葉が半分ずつに分けられて――」
「もういい、何も言うな! 聞きたくない!」
 少女の必死な抗議を遮る。
 衝動的に髪の毛をガシガシと掻き乱した。頭蓋骨を擦る爪先の音がやけに大きく反響して、周りの音を覆い隠す。勿論、聖女ミスリアの声もだ。

「しあわせ」
 唇の間から漏れた声は、ひどく掠れていた。
「幸せになんて、なれるわけ、ない」
 はらり、白髪が十本と抜け落ちたことには構わず。エザレイは笑った。

 ――あの娘はどこまで脳内お花畑なんだ。俺の中にまで花を浸食させる気だったのか?
 声に出していることにも気付かず。笑った。
 ――無理だ。償わなければ生きている価値が無い。

 カタリアの妹が涙目で震えている様子を目にも留めず。走った。湿った土を踏む度に泥が派手に弾けるのも気にせず、夢中で駆けた。
 あんなにも歩が重くなっていたのに、心境は変化していた。合わせる顔が無いと思っていたが、今となっては、早く会って笑い飛ばしてやりたい。お前の願いは叶いそうに無いぞと。

「なれるわけない! 駆除して、根絶やしにして、それをやる以外に生きる術の無い俺に! 祝福は降らない!」
 迷路の終わりは突如としてやってきた。
 進むことばかりに気を取られた所為か、出口への秒読みを怠っていたらしい。視界が開けて、空気も軽くなる。靴の裏が踏みしめた感触は、これまでの泥土と違い、柔らかいながらも弾力があった。

 草。
 それが此処に生えていたことに虚を突かれ、エザレイは半歩踏み出しかけた不自然な姿勢となって立ち止まった。
(なんだってこんなものがあるんだ。それに明るい)
 脳の奥から引き出した映像と噛み合わない。数年前を想起すると、生命の気配が希薄な、薄暗くて息苦しい場所しか浮かんで来ない。

 濃紺の背景に銀色の輪郭を輝かせる上弦の月は、その恵みを眼下の美しい池に惜しみなく降らせている。まるで巨大な石がめり込んでできたかのような窪地、幅は四百ヤード(約366m)程度。中央の池の中は蓮華のピンク色が彩っていた。

 池を背に庇うかのように、人一人ほどと同じ身長の岩がそびえる。岩の表面には瑞々しい蔦が巻き付いて花を付けている。
 遠くから眺めているだけで花の甘い香りに抱きしめられたように錯覚する――
 脱力し、その場に膝をついた。次いで両手もつき、草に額をつけそうなまでに項垂れる。

「すごい! 夜に咲く蓮の花ですか」
 他の四人の気配が追いついた。
 泣き顔を見られたくなくて、顔を上げることはしなかった。絞り出すように囁く。

「……カタリアの妹――いや。ミスリア、と言ったな。お前の姉ちゃんはあの石の下だ」

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