56.h.
2016 / 05 / 14 ( Sat ) 唖然としていても時間は止まってくれない。 予期せぬ変化に対処できる迅速さは、いつだってゲズゥたちの方が上だ。天秤がこちらに傾き始めたことを感じ取った護衛らは、突風が如く敵を薙ぎ倒している男を援護した。イマリナに放された後、ミスリアのすべきことは避難だった。這い上がって、走った。 雨滴(あましただり)が降りしきる。 乱戦に振動していた丘は、徐々に落ち着きを取り戻してゆく。 ふいに、稲妻が天上を駆けた。地上に広がる惨状に目を向けようとして――木陰からはみ出る平べったく長い物に気付いた。まさしく、白髪の男性が常に武器の柄に結び付けているリボンの片割れである。 (あんなに大事にしてるのに) これが外れて落ちてしまったことに気付かないほどに我を忘れている。 (どうして。やめて、酷いことしないで) 呼びかける声を形にできずに、空しく口を開閉させる。喉がカラカラに渇いていた。 何度も何度も繰り返される短い「死ね」の一言が、聞くに堪えない。顔は見えないけれど、この日までに見せてきたどの変貌よりも今の彼は恐ろしい。地に倒れた敵の息の根を止めに戻る入念さに、ミスリアは慄いた。 どうすればいいのかわからず、リボンに向かって手を伸ばす。濡れた土からそっとそれをかき上げた。 今回は、突然意識が遠くに飛ぶなんてことは起こらなかった。 (お姉さま……貴女がここに居たなら、どうしたかな……) 左の掌にリボンをのせ、右手の指でそっと表面をなぞり。すぐに指を止めた。 微かな凹凸を感じる。 (本体と同じ色の糸で刺繍が施されてる?) そのように連想して、先端から撫でてみた。 形状はまるで、文字。しかし何かが違う。逆さなのだと思い至り、翻して、確認し直す。これは元々筆記システムを持たなかった言語を、南の共通語の文字に半ば無理やり当てはめたもの。 故郷のファイヌィ列島の母語だ。 ミスリアは逸(はや)る気持ちを必死に抑えつつ、刺繍に込められた想いを指先で読み取った。 ――尊き聖獣と天上におわします神々よ 出だしだけで、すぐにわかった。祈りの言辞だ。 その先を急いで読み解く―― 「止めてくださいっ!」 気が付けばゲズゥの上着にしがみ付いていた。夢中で動いたため、間の意識が瞬きのように通り過ぎていた。「ゲズゥ、お願いです。あの人を止めてください」 珍しく、ぎょっとした表情で彼は振り返る。何を頼まれているのか理解し、目を細めた。 「………………それが最優先事項か」 カラーコンタクトを落としてしまったのか、不揃いの双眸がじっと見つめ返してきた。 「はい。手荒くても構いません。絶対に止めてください」 「わかった」 前を向き直っての返事だった。湾曲した大剣を、両手に構え直している。 思えばゲズゥが父親の形見である剣を人相手に振るう頻度は、段々と減っているように感じる。 その理由は、剣そのものが重く、薙ぐに必要な予備動作や遅れがあるため「扱いにくい」からかもしれない。或いは「対象を一刀両断できる」道具であるからかもしれない。 魔物であれば願ったりな結果でも、生き物を殺傷してしまうのは避けたいはずだ。他ならぬミスリア自身が、そうして欲しいと嘆願したのだ。 心が痛んだ。左胸の上に手を置いても、ちっとも気分は晴れない。 あまり時間が無い。町民の追っ手はすぐそこまで来ている。彼らこそ、殺さずに凌ぐのが難しい相手ではないか。かろうじて生き延びた馬たちが、坂下に向かって逃げ惑っている。それが多少の時間稼ぎになるだろう。 逃げそびれた三頭ほどを、リーデンとイマリナが確保していた。ミスリアは彼らの隣に駆け寄った。 まだ倒れない森の民はたったの三人。いずれも、狂戦士と化したエザレイに応戦している。 グレイヴの先端が閃いた。それを軌道の途中で食い止めたのは、横合いから割り込んだ大剣。 火花が散った。 隙を得た三人は、迷わずにその機会を掴んだ。灰銀色の瞳は恨みがましそうに逃げる者たちを一瞥し、すぐにゲズゥの方に注目した。 邪魔をされて気が立っている風だ。エザレイはグレイヴを引き戻して、無言で再び攻撃に出た。 グレイヴが次に振り下ろされた時、ゲズゥは刃を下向きに構えて受け流し――切れずに、たたらを踏む。それほどまでにエザレイの一撃は重い。心なしか、先ほどの魔物と押し合った際よりもゲズゥは苦戦しているように見えた。 何合か刃はぶつかり合い、ゲズゥは最初こそは間合いを詰めようとしていたが、やがて何かを思いついたように足を止めた。 切り付けんとするグレイヴを見上げ――刃先ではなく、柄部分に向けて剣をしならせる。 木がひび割れるような音。切られることがなくても、柄は目に見えて折れ曲がった。 「聖女さん、提案」 「なんでしょうかリーデンさん」 「オニーサンが最初に人格っていうか正気を取り戻したのってさ、君が怪我を治癒してあげた直後じゃない? もしかしたら君の力が一番、有効、なのかも」 あ、とミスリアは唇を驚きの形に開いた。 「やってみます」 「オーケー、マリちゃんの後ろに乗って。兄さんたち拾い上げに行くから、さっさと進もう」 「はい」 頷き、言われた通りにイマリナと同じ馬に騎乗する。 リーデンも馬上の人となりながら、鞍の空いた三頭目を引いて走り出す。 (……伝えなきゃ) ミスリアは急速に近付く男性の後ろ姿を見据え、聖気を展開する。 (手遅れになる前に……ううん、もう手遅れでもいいから、伝えなきゃ) 黄金色の光の帯が、熱望を代弁した。 |
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