10.a.
2012 / 03 / 07 ( Wed )
 姿を認識する前に咽び泣きを聴いた。
 しかし周囲に霧がかかっていて、視界がはっきりしない。
 淀んだ空気に混じって仄かに甘い香りが漂う。花の香り――これは、薔薇?

 一歩踏み進んでから、耳を澄ました。咽び泣きが続く中、他には虫や鳥やリスの鳴き声一つしない。曇った空から時折、水滴が零れ落ちる。雨粒は音を立てないほどに小さい。
 十秒待って、また一歩踏み出す。
 泣き声は止まない。この分なら、気づかれていない。

 また一歩踏み出そうとした途端、突風が通り抜けた。
 霧が少し晴れかける。
 己の視界が改善されたのと同時に相手に見つかるのではないかと危惧して、咄嗟に身をかがめる。すぐに杞憂とわかった。

 白髪の娘は両手で顔を覆い、丸まって横になっている。傍らには黒い柳の木が娘を守るようにそびえ立つ。
 一直線に近づかず、ゆるりと遠回りに輪を描いて背後に回る。

 娘はむくりと起き上がった。
 応じて、足を止める。身構えた。
 が、娘は妙な動きを見せずに、座り込んだままだ。肩にかかった真っ直ぐな白い髪が、はらり、と首筋を伝う。

 小さな背を丸めて、娘は更に嗚咽を漏らした。それは次第に号泣に変わる。
 聴く者の胸をすら引き裂きそうな悲痛な声だった。一体何がそんなに悲しいのか、真面目に考えてしまう。 

 娘はこちらに聴き取れるような言葉を発していない。それでも確かに何かを訴えようと一糸纏わぬ身体を激しく揺らしている。ちらっと見えた横顔からは、運命を恨むような、何かを切望するような、悔しげな表情が窺えた。

 何を、誰に、訴える? 
 無意識に想像してみた。

 瞬間、脳裏を過ぎった責める声には覚えがあるようでなかった―― 

「……どうして貴方だけいなかったの! どうして一緒に苦しんでくれなかったのよ! どうして、どうして私たちばかりこんな目に遭ったの――」


 袖が引っ張られる感覚によって引き戻された。現実を認識しなおすために二、三度瞬く。
 そう、ただの幻聴である。おかしな超能力を微塵も持たない自分に、人語をはっきり喋れない魔物の心の声など聞き取れやしないのだ。

 ゲズゥ・スディルは、傍らの少女を見下ろした。聖女ミスリアは水色のワンピースを身に纏い、栗色の髪をポニーテールにまとめている。茶色の瞳は戸惑いに見開かれ、ゲズゥの袖を握る小さな手が微かに震えている。 

_______ 

 今より三十分前。

 ミスリア・ノイラートはここ数日お世話になり続けている教会の主を、玄関から送り出していた。 

「用事が済めばすぐ戻ってまいります。私も甥も空けてばかりですみません」
 神父アーヴォスが頭を下げる。この歳で頭髪が耳近くしか残ってないのは遺伝、それとも外的要因があるのかしら、などと失礼なことをミスリアは思った。 

「いいえ。お気になさらず、気をつけていってらっしゃいませ」
 微笑んで一礼した。
 ちょっとした手荷物だけを持って、神父アーヴォスは町へ出かける。教会にとっての正式な休みの日は一週間のはじめの赤期日であり、それゆえにカイルも買出しに行ったのだろう。

 ミスリアが玄関の短い階段に立って後姿を見送っていたら、背後から声がした。

「聖女」
 振り返るとゲズゥが腕を組んで廊下の壁に寄りかかっていた。
 教会の中に戻り、はい、と返事をしかけてやめた。ミスリアは表情を曇らせた。 

「あの、できればミスリアって名前で呼んでいただきたいのですが……」 
「…………」 
 いくら待っても反応が無い。

(いいもん言ってみただけだもん。くだらない提案ですみませんね)
 すねたのを隠す為に背を向ける。扉を引いて閉じた。
 再び廊下を向き直ると、驚くことにゲズゥは微動だにせずにまだそこにいた。 

「もしかして、私に何かご用があったのですか?」
 今更ながらその可能性に思い至る。何となく思い返せば、いつも用事があってゲズゥを探しに行くのはミスリアばかりで、その逆はあまりなかった気がする。

 ゲズゥは一度息を吸い込み、漆黒の髪の毛を乱暴にかき乱した。
 彼の初めて見る仕草だったので、ミスリアは三秒ぐらい唖然とした。開いた口を閉じて、次の言葉が紡がれるのを待った。

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