50.g.
2015 / 11 / 21 ( Sat ) 「あるまじき生の形か。その理論通りなら、研究室ってトコもさっぱり浄化されてそうだね」
兄が見たというおぞましい生命体――と呼んでいいのかは不明だ――が無に帰したのなら、一安心である。 「そうだな。ヤン・ナラッサナが手を回して、生存した女たちを帰路につかせている。後は首謀者と側近を始末すれば、事件は終息する」 背後を気にするように、王子は肩から振り返った。 (この谷に来てまだ一日も経ってないはずなのに、物凄く長い時間が過ぎた気がするよ) やっと一件落着か、とリーデンは内心気を緩めた。それから王子の向いた方向に視線を合わせた。 「おいでなすったね」 全身の肌という肌をよく隠した女が群れから毅然と前へ進み出た。 いかに外見的特徴がほとんど隠れていようと、眼差しの深みは彼女が人の上に立つ者であることを明かしている。 ヤン・ナラッサナの緋色の瞳は、洞窟の中を一通り眺めまわした後、真っ直ぐにナヴィを見据えた。 「やっと会いましたね」 静かにかけられた声には、感情を抑制したような響きがあった。 『おれは別に会わずともよかった』 ヤン・ナヴィはあさっての方向を向いていて、母親を避けているようにも見えた。 「使うか?」 「お借りします。ありがとうございます、お客人。これはわたくしが果たすべき責任ですから」 王子が差し出した剣を、ナラッサナは繊細そうな手で受け取る。 「終わりにしましょう」 断罪を言い渡す一声が、空間にこだました。 その余韻がまだ反響し終わらない内に、人の群れの奥から小さな物音がしたのを、リーデンは確かに聴いた。 _______ 「駆け付けてくれてありがとうございます」 聖気の流れを閉じた後、小さき聖女はいつも通りに礼を言った。それを受けたゲズゥは、思わず両目を細めた。 「もっと急ぐべきだった」 爪が割れ、乾いた血の痕が目立つ細い指を、そっと手に取る。少女は痛がる素振りを見せた。 「だ、大丈夫ですよ、このくらい。処置しなくても治る怪我です。他のみなさんの方がよっぽど大変な目に遭ってますよ」 ミスリアは無理に笑ったようだったが、ぐしゃぐしゃに乱れた栗色の髪が、表情をほとんど覆ってしまっている。 手を伸ばした。顔が見えないのは勿体ないからと、髪をどけて耳にかけてやる。 「あの?」 茶色の双眸に疑問符が浮かんだ。 「これでいい」 満足気に答えると、ミスリアは大きく目を見開いた。 「……貴方は、笑うようになりましたね」 次いで心底嬉しそうに言う。 ――なるほど、自分が笑顔を作ったから彼女は驚き、喜んだのか。以前なら他人の表情に心動かされるなど理解しがたい現象に思えたものだが、今はそれほどでもなかった。 「お前が面白いから」 「わ、私、そんなに可笑しいことばかりしてますか?」 少女は慌てふためいて、恥ずかしそうに身を硬くする。 「そうだな」 一挙一動が、見ていておかしい。だがそれ以上に的確に形容できる言葉をゲズゥは知っていた。 ――かわいい。 そう教えてやろうと口を開いた途端、弟の左眼から映像が共有された。 |
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