35.b.
2014 / 08 / 01 ( Fri )
 おそるおそる素足を伸ばした。母指球に伝わった床の冷たさに吃驚して、反射的に足を引いてしまう。

(大丈夫かしら……)
 食事を経て幾らか力が入るようになったとはいえ、まだ万全の状態からは遠い。ベッドから起き上がって数分も経たないのに、既に上体を支える背筋に鈍い疲れが出ている。まともに歩けなくなっていても仕方ない。

 とりあえず滑り落ちるようにそっと床に両足をついた。ベッドに手をつけたまま、立ち上がる。
 意識が無かった間もちゃんと誰かが定期的に裏返してくれたのだろう。リーデンが「微動だにしなかったよ」と形容するほどに寝返りを打たない眠りでも、血行は想像していたよりも良さそうだ。

 一歩踏み出せたかと思えば、視界が揺れた。踏み出した方の膝が前触れも無く崩れ――かと思えば視界が暗転した。
 鼻腔を満たした革の匂いに噎せかける。両肩を支える手が妙に熱く感じる。
 刹那、抱きしめられた感触がフラッシュバックした。

 ――ありがとう――
 あの時耳元で囁かれた一言が蘇った。

『お前のおかげで、俺は大切なモノを失わずに済んだ』

 どうしてかはわからない、体温が急上昇した。
 実際にあの出来事が二十日前にあったのだとしても、ミスリアにとっては昨日のような、ついさっきのことのような感覚である。

 あれは場の雰囲気に呑まれての行動。特殊な状況下での一度限りのこと。今また行われる可能性は皆無のはず、なのに何故か気持ちは落ち着きを失う。倒れないように支えてくれたのに、お礼を言う余裕も失われていた。

 いけない、近過ぎる。離れなければ。直ちに離れなければ、とただ一つの想いが頭を占める。至近距離に立つ青年を突き飛ばし――実際はミスリアの腕力だと少し押しのけたようなものだけれど――反動でベッドにぽすんと腰を落とす。

(嫌だったわけじゃないの)
 思い出すと胸の奥に温かい波が生じるような気さえする。しかしダメだ、何がどうダメなのかはわからない、ダメなものはダメだ。そう、心の準備だ。心の準備が足りないのだ。

 不審に思われただろうか、今自分はどういう顔をしているのだろうか。ミスリアは茶色の瞳を遠慮がちに上へと彷徨わせた。
 常に無表情な男は変わらず無表情なので、気にしたのかどうかは読めない。次第に居たたまれなくなって、適当に喋り出すことにした。

「え、えーと……それにしても、二十日もお待たせしてしまってすみません。退屈でしたでしょう?」
「別に。建物の中で適当に運動してた」
 何でも無さそうにゲズゥはサラッと答える。

(独房にずっと幽閉されてた間もこんな風に平然としてたのかな)
 だとしたら末恐ろしい精神力である。自分なら発狂するに至らなくても、目が溶けるまで泣いたに違いない。看守が去る度に、寂しさと恐怖に震えたり叫んだりしたかもしれない。
 想像してみたら、ぶるっと寒気がした。これからもそんな状況は絶対に回避して生きよう。

「リーデンさんはどうしていました?」
 気を取り直して訊ねる。
「アレなら、引継ぎだの交渉だのに奔走してた。本気でこれまでの生活を手放すつもりらしい」
「そういえばリーデンさんって何をされてる人なんですか? 商人?」
 そう訊くと、ゲズゥは目を細めた。

「忘れた。麻薬や国宝級の宝を売買してたような気はする」
「え……」
 麻薬も気になるけれど、国宝なんて凄まじい物をどうやって入手しているのか。色々と方法を想像してみて、結局どうやっても違法なやり方にしか思考が辿り着けなかった。
 ここは知らない方が気楽かもしれない、と一人苦笑した。

(あれ? 何かまだ抜けている)
 ミスリアは笑みを作っていた表情筋をはたと止める。眠っていた二十日の間にまだ何か重要なイベントが控えていたような気がしてならない。
 ふと、青銅色の長い髪に白い半透明のヴェールを被った聖女の美しい微笑が脳裏に浮かんだ。

「……そうです! 再討伐の話はどうなりました!?」
 どうして今まで忘れていられたのか、不思議である。
「先週辺りに実行された」

 その返答を聴いて、ミスリアは落胆と安堵の混じった吐息をついた。たとえ誘いの声がかかっていても、意識不明だったのならどうしようもない。都合が合えば参加するとあの時レイにはそう言ったけれど、怖いものは結局怖いのだ。
 そしてミスリアが参加しなかった以上はゲズゥたち兄弟が我関せずの姿勢を貫くのは理解できた。

「それで…………どうなりましたか」
「前回と変わらない結果だったと聞いてる」
 瞬きすらない、即答。
 残酷な内容を告げる青年の低い声はやはり何の感情も含んでいなかった。ミスリアはベッドシーツを右手でぎゅっと握り締めた。

「で、では聖女レティカに関して何か存じませんか。参加したんですよね」
「聖女は生存した」
 その報せにほっとしたのも束の間、別の不安が沸き起こる。不安を紛らわせようと思って、ベッドから枕の一つを取って腕の間に抱き抱えた。

「聖女は、という言い回しに裏があると感じるのは私の考えすぎですか……?」
 いつしか喉がカラカラに渇いていた。搾り出した質問は、か細く響く。
「護衛の二人が死んだ」
「……!」
 潰さぬ勢いでミスリアは枕を抱きしめた。

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