34.f.
2014 / 07 / 15 ( Tue )
「君の泣き顔なんて初めて見るよ」
 と朗らかに言ってみると、ゲズゥは顔を逸らした。左頬を伝う水分の跡がはっきり見て取れる。
「お前の泣き顔なら見飽きてるがな」
「一体いつの話してるんだか。まあ、確かに子供の頃は飽きられるぐらいビービー泣いたけど」

 肩や手を支える力が緩んだのを良いことに、リーデンは試しに手足を動かしてみた。異常が感じられないので、今度は膝を折り曲げてみた。拳を握ってみた。屋根裏空間の天井は意外に高くて少し頭だけ屈めば立てるので、立ち上がってみた。

 本物の奇跡だ。服や髪の汚れは残っているが、身体の状態は万全と言えよう。リーデンは唖然とした。前にもミスリアやレティカにちょっとしたかすり傷などを治してもらったことはある。聖女の力はああいうレベルの物としか思っていなかったから、今回の件が余計に非常識に思えた。死にかけた人間を、遠い場所から救えるなどと。

「なんか屋敷に入る前に戻ったみたい。こんなぶっ飛んだことできるんじゃ、もっと世間に騒がれるんじゃないの」
「おそらく、誰しもできるわけじゃない」
「へえ。後で本人にもっと詳しく聞こうっと」
 しゃがんだ体勢から動かない兄が、じっと観察する眼差しで見上げてくる。乾いた血痕が額から膝までにかかっていることにリーデンは遅れて注意した。

(どんだけ返り血浴びてんの、この人)
 せっかく貸してやったコートも今やボロ雑巾だ。つつけば多分、怪我が出てくるだろう。
 そんな姿を見下ろしていると――痛々しいと思いつつも、嬉しい。

「迎えに来てくれてありがとう。心配かけたね」
「……お前が礼を言うのか。気色悪い」
「ひっどーい。つめたーい。さっき取り乱してくれたのは夢だったのかなー?」
「黙れ、クソ弟」

 リーデンはブフッと噴き出した。かなり久しぶりにその呼称で呼ばれた気がする。加えて過去に呼ばれた際の侮蔑ではなく、不機嫌しか込められていないのだから、これは笑うしかない。
 逆にこっちは機嫌が良い。

「一回しか言わないからよーく聴いてね、クソ兄」鼻で笑って腕を組んだ。そしてまた破顔した。「めんどくさい弟でゴメン。見捨てないでくれてありがとう。なんだかんだでやっぱり、大好きだよ」
 それが今の本心だった。

 つまらない意地を張っていた。この広い世界で一人でも自分の為に泣いてくれる人が居る、ならば他に何を望むことがあろうか。しかもよく考えたら、一人だけでなく少なくとも後二人は居る。

「平穏な生活は相変わらず目指してあげられないけど、これからのことは、ちゃんと話し合って一緒に決めよう」
 我侭も押し付けないよ、と左右非対称の両目を見据えて言い放った。
 数秒の間の無反応の後、無表情だった端正な顔が奇妙に歪む。五角形の太陽でも見たような顔である。リーデンはまた噴き出した。

「あははははは! 泣き顔以上に面白いね! 普通に喜んでもいいんだよ」
「…………………………」
 呆れて返す言葉も無いようだった。でも、言葉にされなくても伝わる想いがある。言葉にされたからこそ得られる安心もある。

『死ぬな、リーデン』

(わかってるよ。まだまだ、独りにはできないね)
 ちょうどその時、ずっと下の方が騒がしくなった。
(ああそっか、屋根裏に至るまでに突っ切った敵を、兄さんは殺さなかったんだ)
 聖女ミスリアとそういう誓約の一つでも保っているのだと仮定すれば不思議はない。殺さなくても十分に痛手を負わせただろうけれど。

「それじゃあ、適当に残党を蹴散らして戻ろっか。僕らの可愛い聖女さまの元へ」
 二度目の油断はありえない。リーデンは不敵に目を光らせた。
 次いで兄へと手を差し伸べた。自然とそんな気分だった。僅かな逡巡も無く、ゲズゥはリーデンの手を取ってゆっくりと立ち上がった。

「……そうだな」
 それ以上のやり取りは必要なかった。
 兄弟は互いの温もりを放し――それぞれ冷たい凶器を手にして、笑みを交わす。

_______

 水晶の祭壇へ捧ぐ祈りは、大分前に儀式が終了していた。特別に許可を取って、聖女ミスリア・ノイラートは一人きりで祭壇の前に残っている。跪き、瞑目し、祈る。無心に祈りながらも聖気を展開している。どれくらいの間そうしていたのかは知らないし、知ろうとも思わない。長時間集中し過ぎて頭がクラクラするのも気に留めない。

 祈りは修道女の甲高い悲鳴によって中断された。
 ミスリアは急いで振り返った。祭壇の間の入り口へと視線を飛ばす。

「この神聖なる場所になんて穢れを! 立ち去りなさい!」
 喚き散らす修道女の声が閉まった扉越しにも聴こえる。中庭の方からだろうか。

(穢れ!?)
 ミスリアの心臓が早鐘を打った。考えるよりも早く、足が動く。蝋燭だけに照らされた祭壇の間は薄暗い。既に夜になっているから天窓からは明かりが入らないのである。祭壇に祀られた巨大な水晶が淡い輝きを放っているけれど、ミスリアはそれには背を向けている。長い白装束の裾にうっかり転んでしまわないよう、スカートを両手で持ち上げて身廊を進んだ。

 扉を開け放ち、中庭を見回す。夜空とガゼボの下で、修道女たちが長身の青年を取り囲んでいる。

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