29.b.
2014 / 02 / 04 ( Tue )
 無我夢中に綱にしがみついていたミスリア・ノイラートは、足場が崩れていよいよ自分まで河に落ちそうになった所までは覚えている。その次の瞬間からの記憶があやふやだった。
 とりあえずは濡れた草の上に座り込んで目を瞑り、荒い息遣いが落ち着くのを待った。

「何も訊くな」
 頭の上で疲労に彩られた声が静かに呟く。
「……はい」
 その一声から何が起きたのかを思い出したミスリアは、ゆっくり目を開けた。

 落ちそうになったのをゲズゥが片腕で抱き止めてくれて、そのまま彼はどうにかして岸を上がったのだった。どうやったのかは見えなかったし、訊かないで欲しいと言うのなら別に知らなくてもいいと思う。
 未だ抱き抱えられた形のままのミスリアは、自分が知らずしがみついていた腕が寒さに震えていることにハッとした。

「……助けようとしたのに、結局また私が助けられてしまいましたね。いつも無茶をお願いしてすみません」――言ってから、呂律の回りにくい舌とガチガチ鳴る歯に気付き、自分も寒さに震えているのだと知る。
 ふいに、ミスリアはすぐ傍に濃い瘴気を感じた。

(まだ魔物が居る……?)
 ミスリアはゲズゥを仰ぎ見て――そして目を瞠った。
 彼の左眼から瘴気が漏れているように見えたのである。しかもミスリアには聖女レティカのような人を囲む空気を視覚化する能力は無い。目に見える程の瘴気となれば相当に濃いことになる。

(でも訊かない、今は何も訊かないわ)
 ミスリアは小さく頭を振る。

 ゲズゥが何か答えようと唇を開きかけて、途端に後ろを振り向いた。視線の先には彼が助けたばかりの少年が佇んでいた。
 汚れた衣服の下には骨と皮しかなさそうな細すぎる少年は、虚ろな眼差しでゲズゥを凝視している。

「危ない!」
 またしてもエンリオの警告の叫びが響き、立ち上がりかけていたミスリアは身を硬くした。少年の頭部めがけて小さなエイの魔物が急降下している。
 すぐに魔物は横合いから飛んできたナイフに撃たれ、軌道を逸れた。

「聖女ミスリア! 大丈夫ですか!?」
 レティカ一行の内、エンリオが一足先に駆け付けたらしい。彼は暴れるエイを踵で何度も踏みつけ、その動きが完全に止まったのを確認してからナイフを引き抜いた。

「遅れて申し訳ないです。レティカ様はああいうとこ頑固でしてね、手間取ってしまってすいません」
「いいえ、彼女の言い分もわからなくはありませんから」
「ボクは気負い過ぎだと思うんですよね……」
 エンリオが白いため息を吐く。

 彼の手を借りてミスリアは立ち上がった。
 隣のゲズゥは自力で立って服をはたいては着直している。と言ってもシャツなどは命綱に使われたので、素肌にコートを羽織っているだけになる。

「兄ちゃんたち、この町のひと?」
 少年が唐突に口を開いたので、一同の注目がそちらに集中した。少年の長い髪から雨水がしきりに滴っている。
「どーなんだよ」
 虚ろな目にして虚ろな声だと、ミスリアはふと感じた。

「いえ、旅人ですけど――」
「あんたじゃない、でかい方の兄ちゃん」
「んなっ! 小さくて悪かったな!」
 興奮のあまりか、エンリオの丁寧な口調が崩れかける。

「エンリオ、度が過ぎた卑屈も流石に見苦しいぞ。しかも子供相手に声を上げるなど」
 やっと到着したレイが仏頂面でそう言うと、対するエンリオは口元をひくつかせた。
「レイ……貴女には小さい人の苦労なんて一生わかりませんよ」

「わからないし、わかりたくもない」
「ぎいいいっ! レイなんて来世はナメクジにでも生まれ変わればいいですよ!」
「よく吠える子犬の言は聴き取りづらくてかなわないな。元より私は転生など信じていない」

 強面で寡黙だと思っていた彼女は何故か、エンリオの相手をする時だけ毒舌が発揮されるようだった。表情筋は固定されたままではあるけれど。

(あれだけ動き回った後なのになんて元気な人たちなの……)
 などと、ミスリアは呆れ交じりにこっそり感心していた。


この人たちこんなにうるさくするつもりはなかったのだよ……勝手にこうなったのだよ……

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