2-2. e
2018 / 07 / 28 ( Sat )
「よくやった栗皮」
 振ってかかった声に唯美子は「やっぱり」と額を押さえる。ナガメがのんびりと河川敷を下りて来た。
「きみが変化できるなら、きみの仲間もできると考えるべきだったね」
「精度が低いけどな。ほらこの服、本物の布じゃねーぜ」
 ナガメが我が物顔で少女の袖を引っ張ると、それは奇妙な伸縮性を見せて、伸びるほどに色素が薄くなっていった。布というよりは皮膚に見えなくもない。

「あるじ。もっとほめて」
 男の背を膝で抑えつけたまま、かわいらしい声でねだる少女。声がかわいくても片目複眼の恐ろしさは相変わらずである。
(喋ったー!?)
 唯美子は驚愕したが、顔に出さないよう頑張った。

「おー、すごいすごい。よくゆみを守ってくれたな。変化も前よりできてるぜ」
「えへん」
 ナガメに頭を撫でられて、栗皮少女は大変にうれしそうだ。そこでもやはり、黒光りする複眼だけが表情にそぐわない。
「この虫の目は課題だなー。もういいぜ、戻っても」

 主人のひと言が引き金となったのか、栗皮少女の輪郭が瞬時に揺らいで、その場に崩れた。崩れた跡には抜け殻のようなものが残り、やがてそれも解け落ちた。精度と引き換えに、速く変容できるのだろうか。

 一匹の茶色のトンボが飛び上がり、青い方のトンボと合流する。二匹はナガメが差し出した手の甲にそっと降り立った。何故か、さまになる。
 背にのった少女の体重がなくなっても、男性は草に突っ伏して動かない。気絶しているのか、戦意喪失しているのかは不明だ。

「ミズチさん、足はっやっ……!」
 そこに真希が駆けつけた。ずいぶんと息が荒い。
 彼女にはミズチと名乗ったのかと、唯美子はひそかに安堵した。
「おまえが遅いんだろ、じゃなくてその靴が走りにくいからじゃん」

「わかってるわよそんなこと――あら? その人」
 見覚えがあるのか、真希は眉間に皺を刻みながら、地面に伏した男性をどこで見たのか懸命に思い出そうとする。バッグを手首からぶらんとさげてしゃがみ込み、しばらく唸った。
「真希ちゃんの知ってる人なの」

「なんだろね。それなりに頻繁に見てるような、日常的な風景にいるような――あっ」ぱん! と膝を叩き、素早く立ち上がる。「思い出したわ。あなた、自動販売機を補充してる人じゃないの」
 むくり。胡乱な目をした男性が頭を起こす。背筋が凍るようなまなざしだったが、気付いていないのか、なんでもなさそうに真希が話しかける。

「そうよね。たまにすれ違いざまに挨拶したと思うわ。おぼえてるかしら」
「……ぼえ……る」
「え、なに? 聞こえない」
 真希に訊き返されて、男性は言葉をうまく紡げずに赤面し、目を泳がせる。
「はっきり言ってほしいわね。だいたい何でそんな姿勢にされてんの。まさか……この人が『視線』のもとだったワケ? ゆみこ、何かされたの?」
 射貫くような視線を向けられ、今度は唯美子がどもった。

「え、っと……」
 それだけで察したらしい、友人は激怒して怒鳴る。
「サイッテー! なんてことしてくれてんのよ! 軽蔑するし、警察も呼ばせてもらうわね」
 一切の躊躇なくスマホを取り出した。
 刹那、冷徹な煌きが視界に入った。

 ――刃物!?
 男性が腕を振り上げて飛び上がる。
「おまえのせいで嫌われた! おまえが悪い! つまらない日常にやっとみつけた癒しだったのに! 唯一笑いかけてくれた天使と近付けるチャンスだったのに!」

 刃先が下りてくる――!
 その場に凍り付いて動けない。だが唯美子と男性の間に黒いものが割り込んだ。シワ加工の施されたシャツ、すなわちナガメの背中だ。

「いみわかんね。逆恨みってやつじゃねーの」
 ザシュ、っと耳慣れない音がした。赤い飛沫が飛ぶ――
(え、え)
 呆気に取られたこと数秒、その間にナガメはものの見事に男性を捻じ伏せてみせた。そして、首の後ろを強く殴りつけて気絶させた。

(言ったのに)
 視線の先が一点に吸い付いて離れない。
 青年の前腕を滴るそれは、鮮血ではないのか。唯美子はわなわなと震える手を伸ばし、勢いよく腕をひったくった。
「うぉ。なんだなんだ」
「――血は出ないって言ったのに!」

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