2-2. d
2018 / 07 / 22 ( Sun ) 「ゆみ、別れるふりして立ち去ってくれ。最低でもお互いの視界から消えるように、離れてな」
彼はさりげなく近くを飛んでいる大きなトンボを一瞥する。貸してくれるという意図だろうか、栗皮色の雌が進み出た。 「……わかった」 口先では了解を示し、しかしどこか釈然としない思いで踵を返す。またあとでねー、と手を振る真希が妙に楽しそうに見えた。 歩道橋を下りて遊歩道を歩く道中、何度かさりげなく振り返ってみた。橋の上の二人は、「初対面」とは思えないほどに、朗らかに談笑している。 (何話してるんだろ) ふりだとわかってても変な気分だ。まずナガメが他の人間と関わっているところを滅多に見ない。手すりに背を預けて大笑いしているさまは、いつもの彼の、人類へ無関心そうにしているイメージとは結びつかなかった。 羨ましいと思った。あそこにいる方が、自分はよかった。ストーカーをおびき寄せる作戦なら真希がひとりで立ち去っても効果があったのでは? (ううん、だめ。真希ちゃんを危ない目に遭わせちゃ本末転倒だ) 束の間の負の感情を振り払う。ナガメが人間との交友関係をひろげても、それは彼の勝手であって、唯美子には口出すいわれも独占する権利も当然ながらない。 足し合わせてたった数ヶ月、構ってもらっただけの仲だ。彼がこれまでに過ごしてきたらしい数百年に関して、自分は何も知らない。 元祖「善意を向けたくれた人間」についても―― 自転車に乗ったジャージ姿の男子高生数人とすれ違ったところで、我に返る。唯美子は現在地を確認した。 (失敗した。逆側に渡った方が建物の死角に入れたのに) こちらは河川敷に連なり、遮蔽物などちょうどいい隠れ場所がない。中途で方向転換するのは不自然だ、いっそのこと川辺まで降りようと歩を速める。小川は浅く、流れも遅々としているため、唯美子は問題なく近付くことができた。 「これだけ離れてればいいのかな、栗皮ちゃん」 傍らを飛んでいたはずの茶色のトンボに問いかける。ところがナガメの僕《しもべ》だという虫の番《つがい》の片割れはそこにいなかった。 羽音が聴こえなくなったのはいつからだったか、明確に思い起こせない。 「栗皮ちゃん?」 周りを見回してもそれらしい影がみつからない。空中にも、草の上にも、水面の上にも。ナガメのところに戻ったのだろうか。 とりあえず、ここからでは歩道橋が視界の中に入らないことを確かめた。二人の方からももう唯美子の姿は見えないだろう。後はナガメに任せて待つのみだ。 (ひまだなぁ。どこかに座って、電子書籍でも読もうかな) 急いで家を出たため、じっくりと持ち物を整える余裕がなかった。小型リュックに入っている文庫本は、この前読み終わったきり未だに取り出していないものだ。 草に覆われた斜面に腰を下ろす。吹き抜ける風が涼しい。 (そうだ、更新されてるかも) スマホを取り出し、漫画雑誌の公式サイトへアクセスしてみた。最新話が公開されたばかりの作品群の中に、いくつか追っている物語があった。可愛い動物が主役の日常系には、特に癒される。 サムネイル画像にタップして、数ページほど夢中で読み進めたところで。 画面に影がかかった。 顔を上げると、見知らぬ人が立っていた。 五十やそこらの小柄な男性、猫背で、表情もどこか卑屈そうな印象だ。何かの業者なのか青い制服を着ている。こんにちは、と唯美子は通常の挨拶をした。 男性は応じなかった。細長い三角型の両目をこちらに合わせようともしない。 「あの、わたしに何かご用ですか?」 努めて明るく問う。胃の底では、不吉な予感が渦巻きつつあった。男性の瞳が翳っていたからかもしれない。 「ず、ずるいぞ。おまえさえ来なければ、おれが……、おれだったのに」 「すみません。何を言ってるのかちょっと」 わかりません、と続けられる前に飛びかかられた。 「はな、して! 誰か!」 無我夢中で抵抗するも、男性はまったく怯まなかった。 「あの男は誰だあの男もじゃまだ。でもまずはおまえだおまえのせいだ」 衝撃で頭がくらくらする。息苦しい。重い。こうしている間にも男性の呪詛のような言葉はどんどんうわずって速くなる。 「さびしそうにしてるかのじょをおれが慰めるはずだったおまえが来たからおまえが悪いおれのチャンスをせっかくのチャンスを」 目が合った。戦慄した。 日本人にありがちな、一見普通の茶色の双眸であった。怪しげな光を放つわけでも瞳孔がおかしいわけでもない、けれどもどうしてか狂気的な色を感じる。 大声を出せば通行人が来るはずだ。声さえ出せば。頭ではわかっているのに、喉から音を出すことが叶わない。 視界がぼやけていく―― のしかかっていた重圧がフッと消えた。と同時に、鈍い衝突音がした。なんとかして起き上がると、小さな人影が男性を翻弄しているようだった。 飛び蹴り、回し蹴り、肘落とし。さきほどまで唯美子を支配していた恐怖心も吹き飛ぶほどの鮮やかさだ。 (カンフーかな? かっこいい) ぐったりとなった男性の腕を背後に締め上げて、人影は満足そうに鼻を鳴らした。 取り押さえたのはおかっぱ頭の少女のようだった。通りすがりの子供が格闘技の有段者(推定)とは、末恐ろしい世の中になったものだ。 「誰だか知りませんけどありがとうございま――うっ!?」 振り返った少女の片目が複眼だったことに驚いて、お礼を最後まで言い切れなかった。よく見れば、顔や首の肌が不自然に滑らかそうで、白い蝋を彷彿させる。 (うう、わたしの子供の頃に似てる。なのにお人形さんみたいにきれい……ホラー感……) 極めつけに服装は、膝丈の浴衣ときた。もしかしなくても、ナガメとの関係性を疑ってかかるべきであろう。 |
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