1-3. a
2018 / 04 / 21 ( Sat ) かつて、雨音を怖いと思っていた。 あの唐突さがいけなかったのだろう。いついきなり激しく窓を叩くとも知れぬ雨粒や風、気まぐれに降りる騒音が、幼い唯美子を度々震え上がらせた。ゆえに、雨の時に外で過ごした思い出は極めて少ない。自身が雨天での外出を頑なに拒んでいたのだ。 そんな数少ない記憶のひとつの中に、いままさにとらわれている―― 乾いた唇に、軽く舌を滑らせた。冷えている。抱いた膝も、腕に直接触れている箇所以外は、ひどく冷たかった。ガチガチと歯を鳴らし、どうしてこんなことになったのかと、自責の念に占められる。 ああ、そうだった。きっかけは近所の子たちだ。 何人かが隣の家の庭で追いかけっこをしているの聞きつけ、勇気を出して、まぜてほしいと願い出たのだった。彼らは渋々ながらも「いいよ」と言ってくれた。 最初のうちは普通に楽しかった。 雲行きが怪しくなったのは、皆の跳び回る影が長くなり始めた頃からだ。頭上の樹から大きな枝が落ちてきたり、一見ただの芝生の上を走った子の足が穴にはまったり、ゆみを捕まえようとした子が何もないところで転んだりした。 ひとつひとつを不幸な事故と受け取れなくもないが、そういった「不幸な事故」と異常な頻度で結び付けられるのが漆原唯美子なのだと、近所では既に評判になっていた。その時も、子供たちの雰囲気が一変するまでが早かった。 『ゆみこのまわりだけいっつもおかしいんだよな』 『あたしやっぱり、いっしょにあそびたくない!』 『もう、うちにこないでほしいんだけど。ごめんね』 気が付けば、脱兎のごとく駆け出していた。 ――誰も悪くない。わかっていたはずだった。 何を言われても気にしちゃだめよと、母はいつも元気付けてくれる。自分のせいではないはずなのに、自分が人として欠陥しているように思えてきて、苦しい。 「どうしてゆみだけ……わたしだけ、いつもこうなの……どうして……」 ぼたぼたと大粒の涙を腕に落とし、鼻水を垂れ流しながら、うわごとのように繰り返す。 今日は、まだよかった方だ。もっと危ない目に遭ったこともあるし、もっとたくさんの人に迷惑をかけたこともある。他人と付き合っていけそうな境目を探りつつなんとか友達を作ろうとしてきたが、どうにもうまくいかない。 七歳の唯美子には、これ以上何をどううまくやればいいのかが、わからなかった。親戚の中にも煙たがる者がいるくらいだ。 死ぬまでひとりで遊ぶしかないのか。早くも悲観して、諦めかけている。 自分と一緒にいるせいで誰かに傷付いてほしくなんてない。でも、ひとりは、嫌だ。 「さみしいよぉ……やだよう」 がむしゃらに山道を走って見つけた洞穴の中――帰り方がわからずに、この上なく心細い思いをしていた。 雨が降りしきるほどに絶望が深まる。 外は宵闇の刻となっていた。あまり遅くなっては誰も捜しに来てくれない。夜の山に分け入るのが危険すぎるからだ。母は、お隣さんの家で遊ぶなら安心ね、と言い残して「パート」というところへ行ってしまった。唯美子がいなくなっていることに、しばらく気付かないかもしれない。 体育座りの形にうずくまって助けを待つのみだ。喉が渇いても、お腹が空いても、我慢しなければならない。 どれだけの間そうしていたかはわからない。涙が渇いて頬が嫌なざらつきを持ち始め、完全に夜のとばりが落ちる前だったように思う。 にわかに気配がした。ぎょっとする。 相当近づかれるまでに、気付かなかった。それもこれも雨音のせいで足音が聴こえなかったからに違いない。 「らっ、だ……」 誰、と問いたかったが震えがひどく、舌を噛みそうになる。怖くてまともに呼びかけることができない。 熊だったらどうしよう。狼でも、野犬でも嫌だ――! 「みぃつけた」「ひゃあ! たべないで、おねがいたすけて」 上機嫌なそれと、怯えきったそれ。重なった二つの声は全く別の方向に向いたものだった。 だが共に、紛れもなく日本語だった。咄嗟に頭を抱えていた唯美子はゆっくりと顔を上げる。 (おとこのこ……?) よっ、と元気いっぱいな声をかけて、雨に濡れた少年は洞穴の低い入り口をくぐった。 同い年くらいの彼はこちらの様子をじろじろと見下ろしては、無遠慮に距離を詰めて来た。呆然としていると、強引に手を掴まれた。 「あのう、きみ、なに」 「ニンゲンはあったかいと安心するんだろ」 少年は欠けた前歯を見せるように、にかっと笑った。 「『善意』を向けてくれたニンゲンは、おまえがふたりめだ。名誉におもえよ。ともだちになってやる。きょうは、それをいいにきた」 (たぶん)ふっかーつ。「ゴミしか出ないな」文章から「やっぱり自分が出すものは好きだ」文章に。 |
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