1-2. e
2018 / 03 / 29 ( Thu )
 唯美子は某表計算ソフトとにらめっこをしながら、昨夜「ごちそうさま」と言ってもらえなかったことに対して、時間差でショックを受けていた。
(きっとあの子の国にその習慣がないだけだよね)

 過ぎたことを気にしてどうするのかという話だが、なんとなく、もう一度会いそうな気がしていた。二度あることは三度ある。次会ったら教えてやろう、そう心に決めた。
 計算式の最終チェックやメール返信を済ませるうち、背後から足音が近寄ってくることに気付いた。振り返らずに己の作業を進めていると、その者が話しかけてきた。

「漆原さん、そろそろあがれそう?」
 肩越しに爽やかな声が届いた。経理課の笛吹秀明である。
 社に残っている周りの人間――主に山本女史や田嶋女史といった彼に興味を抱いている女性――の注目を浴びてしまわないかと内心ヒヤッとしつつも、振り向きざまに返事をする。

「はい、あと少し」
 定時を過ぎてまだ数分といったところだが、今日はこの通り約束がある。そのつもりで仕事をさばいてきたし、幸いと残業の必要もない。
「じゃあ僕は下で待ってるよ」
 そう言って、長身の男性は踵を返した。

「あの人気者とデートだなんて、どうやったの」
 唯美子がパソコンの前から立ち上がるのを見計らって、隣の席から年配の女性がオフィスチェアを転がしてきた。内緒話をするみたいに手の甲を口元に添えて。
「誤解ですよ。この前助けてもらいまして、お礼にコーヒーをおごらせていただくだけです」
「お礼にコーヒーねえ? 後学のためにおぼえておくわ」

「だからそんなんじゃ……」
 困ったように唯美子は笑った。こういう時、もっとうまく返せたらいいのにと常々思う。恋愛方面にからかわれるのはどうも苦手だ。
 お先に失礼しますと挨拶だけして、逃げるようにその場を後にした。


「お待たせしました」
「お疲れ。さっそく行こうか」
 こちらの姿を認めて、笛吹はスマホをコートのポケットにしまった。入れ替わりに同ポケットから車の鍵を取り出している。

「運転するんですか?」
 驚きを隠せずに訊ねる。行き先は余裕で徒歩圏内のはずだった。
「ああ、駅前のチェーン店もいいけど、僕の行きつけの店を紹介しようと思って」
「そうですか……」
 不安そうな表情を浮かべたかもしれない。後退りそうになるのを、なんとかこらえる。

「味は保証するよ。ごめん、さっき思い付いたもので。駅前の方がいいなら無理にとは言わないけど」
「あ、だ、大丈夫です。笛吹さんのおススメの方に行きましょう」
 唯美子は慌てて取り繕った。
「ありがとう。車を回してくるから、ここで待ってて」
 はい、と短く返事をする。
 イケメンが高そうな靴を鳴らしながら駐車場へ向かった様は優雅そのもので、他意は感じられない。

(なのに、この落ち着かなさは何だろう)
 よく知らない男性の車に乗り込むのに、抵抗をおぼえるのは当然だ。だが一度は承諾してしまった以上、途中で「やっぱり気が変わった」と言い出すのは気が引ける。
 ヘッドライトの光が近付く間に最後の迷いを振り払った。観念して、助手席に滑り込む。
 密閉空間で成人男性と二人きり――会話はかろうじて続いたけれど、少しでも沈黙すると、息苦しさを感じた。窓を開けても、代わりに入る空気は夏の夜の淀みに満ちている。

「漆原さんは会社から近いとこに住んでる?」
「近いと言うほどでも……二つ先の駅です」
 ただし、田舎でいう「駅二つ」はそれなりの距離である。

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