36.c.
2014 / 09 / 18 ( Thu ) くすりと漏れる笑いを飲み込んだ。 (それにしても、そういう事情だったの)一人の夫と二人の妻は互いを愛し敬い、三人の子宝に恵まれた。 いずれ崩壊する運命だったとしても、きっと幸せな家庭だったのだろうと想像する―― 「そういえば」 あることに思い至ってミスリアは銀髪の青年を真っ直ぐ見つめた。 「ん? なぁに聖女さん」 「ゲズゥはまだ話していないようですけど……」 話の流れのついでにミスリアは村の跡地での出来事を話した。ゲズゥの母が魔物に成れ果てた姿と消滅した際の優しく穏やかな気配を思い起こしながら。 静聴しつつリーデンは唇を引き結んで表情を翳らせ、聞き終えると小さくため息をついた。 「そんなコトになってたなんて知らなかったな。とりあえずありがとうと言っておくよ」 「いいえ。他にどうすることもできませんでしたから」 ミスリアは頭を振った。 「実際に死んだ人が魔物になるもんなんだねぇ」 「驚かれないんですか」 思えば仇討ち少年の騒ぎの時も彼は何も反応していなかったかもしれない。 「そういう疑惑があるってことくらい小耳に挟んでるよ。でもだからって僕には関係ないし」 「関係……ないとは言えませんけど」 罪や穢れを背負った人間も魔物に転じやすいのだから、リーデンも無縁ではないはずだ。それを伝えるべきか迷う。 「もう一つ訊いてもいいですか」 「どうぞ?」 美青年は僅かに首を傾げて微笑んだ。 「例の……『五人目の仇』を討つのは、お二人は諦めるつもり……なんですよね」 兄弟を順に見やって訊ねた。二人はすぐに表情を強張らせた。 燭台の炎が一瞬、揺らいだ気がした。なんとなくミスリアは足を組み替える。 十秒ほどの沈黙を経て弟が答えた。 「ん。自分の手で始末するのは諦めるよ」 「ではもう殺しの類からは手を引いていただけます――」 「殺しはしないけど妥協案なら動かしたから」 ミスリアの言葉は遮られた。 妥協案って具体的に何を、と訊ね返そうとしてもできなかった。絶世の美青年の微笑の向こう側に、不気味な迫力を感じ取ったからだ。おそるおそるゲズゥの方に目を向けても、彼は瞼を下ろして口を挟まない。リーデンの「妥協案」を了承しているという意味合いだろうか。 結局これも知らない方が幸せなのだろう、内心そう自分に言い聞かせた。この日を最後に、ミスリアは二度とこの件を話題に上らせることはしなくなった。 _______ 齢六十はゆうに超えているであろう尼僧の陽気な声を、ゲズゥ・スディル・クレインカティは話半分に聴き流していた。 どうやらクシェイヌ城は聖地として教団からの支援を受けている身ながら、観光客を招くことで多少の維持費を自力で稼いでも居るらしい。入場料はティーナジャーヤ帝国で最も小さい硬貨を三枚、と安価である。 「右手に見えます別棟へ続く連絡通路は、かつてこのクシェイヌ城をめぐって争った武将たちの最期の決闘が繰り広げられた場と言い伝えられております。軍隊を壊滅に追いやられ、城内に逃げ込み、ついに闘いに敗れた武将は十五ヤード以上のこの高さから転落し丘陵を転げ落ちたと――……」 古城の歴史の中に役立つ情報があるとは考えられない。熱心に聞き入る聖女ミスリアを尻目に、ゲズゥは三十人の観光客の群れの中に警戒を巡らせた。 城の屋上庭園は見晴らしが良く、不審な動きをする人間はすぐに識別できる。 |
36.b.
2014 / 09 / 16 ( Tue ) 落ち着いた眼差しが見つめ返す。 現在、ゲズゥ・スディルの両目は揃って黒だ。リーデンの提案と手回しによって、ガラス玉を薄く伸ばして色を付けた、「カラーコンタクト」と呼ばれる代物を取り付けているからである。それによって彼らの血筋を表す「呪いの眼」が見事に隠されている。「前にも言ったかな。実はある手段を通して僕は子供の頃の記憶を鮮明に呼び起こせたんだ。催眠術って知ってる?」 ふとリーデンが補足するように語り出した。 「はい。使われるのを見たことはありませんけど」 どういうものなのかは聞き知っているので、ミスリアは首肯した。 「催眠状態は、何らかの理由で思い出せなくなってる記憶を辿るのに役立つよ。だけど最初から記憶に無い事柄はどんな術をもってしても思い出せない。僕にとって家族は『母親』『父親』の他にも『兄』と『兄の母親』が居て、気が付けばそれが当たり前だったから、それ以上の情報は得られない」 そう言って彼はゲズゥを一瞥した。 「てなわけで兄さん、バトンタッチ」 「ああ」 とゲズゥは答え、ブランケットを持ったまま船内に降りた。ミスリアたちも後に続く。 乗客よりも貨物を運ぶことを目的とした船なので、客室の数は少なく、部屋そのものも狭かった。風や水飛沫が当たらない分だけ甲板に立つよりは暖かい。 四人が寝る部屋の中ではイマリナが荷物を整理していた。ミスリアたちに気付くと彼女は燭台をもう一つ灯してリーデンに渡した。 長方形の居室のそれぞれ長い方の壁に二段ベッドが釘で打ちつけられている。ベッドと言っても台は藁の上にシーツを敷いただけの質素なものだ。大人が一人なんとか寝れる広さで、寝返りを打つ幅は無いかもしれない。 ミスリアとリーデンは各々ベッドの下段に腰をかけ、間の狭い通路に木箱(クレート)を並べて座るゲズゥを左右から眺める形に落ち着いた。 ゲズゥは膝の上にブランケットを広げた。そこに肘を乗せて前かがみになり、開口一番にこう言った。 「俺は逆子の難産だった」 「あー、うーん? そうだったんだ」 リーデンは考えるように緑色の両目をさ迷わせた。 (突拍子の無い一言に聴こえて、実は質問の答えになってるかも) 納得しかけるも、ミスリアは大人しく続きを待った。 「母は或いは二度と子供が産めないかもしれないと産婆に言われ……それだと族長――父に後継者が一人だけなのは甘受できないと、自ら二人目の妻を娶るよう提案したらしい」 「へえ、あの人らしいね。さっすが」 「そんな事情があったんですね」 彼女が目星をつけた相手が、リーデンの母だったと言う。 リーデンの母親はやや病弱な上に引っ込み思案で、自分にあまり自信が無い人だったらしい。妻や母としてうまくやっていけるはずが無いと思い込んでいたため、誰に求愛されても受け入れないまま歳を重ねていた。 そんな彼女は仲の良いしっかり者の友人に「一緒に一つの家庭を支えて行きましょう」と強く薦められ、二人一緒なら自分でも大丈夫かな、とやがて折れた。 (リーデンさんは、外見はともかく性格はお母さまに似なかったのね) |
36.a.
2014 / 09 / 11 ( Thu ) くすんだ青緑色の水面が遠い――。 手摺りに身を乗り出すミスリアは無意識に唾を飲み込んだ。船首によって分かたれる川水は肌に触れたらさぞや冷たいのだろう。落ちたりしたら、数分としないうちに死に至るはずだ。「面白い物でも浮かんでたー?」 背後から呑気な声がした。 ミスリアは手摺りにかけた両手に力を入れてシャキッと姿勢を正し、声の主の方を振り向いた。多くの人間が忙しなく動き回っている甲板の上で、輝かしい銀髪の美青年はかなり目立っている。 「いいえ、何も。高い……と思ってただけです。私、こんな大きな船に乗るの初めてです」 「まあ君は列島出身らしいから平気だと思うけど、念の為、船酔いに気を付けてね」 「今の所は大丈夫そうです」 「それはよかったー」 笑いかけてきた青年は、全身をオレンジ色のブランケットに包んでいて随分と暖かそうである。 ――突如、冷風が甲板を吹き抜けた。上着を羽織っていながらもミスリアは肩をすくめて震えた。 「寒いなら要る?」 「え、でもそうすると貴方が寒いのでは――」 言い終わるより早くリーデン・ユラスはブランケットを脱いでミスリアの肩にかけていた。ウール生地に染み込んだ温もりが大変ありがたい。それに、ほんのりと爽やかな残り香が心地良かった。 「心配しなくてもまだあるよ」 その言葉通り、リーデンは荷物の中からブランケットの束を取り出していた。今度は深紅色のブランケットを自らの肩にかけている。 それが済むと少し離れた位置に佇んでいる長身の青年に声をかけた。 「兄さんは体温高いから要らないよね」 「…………」 黒髪黒瞳の青年は目を細めた。袖も裾も長い漆黒のコートに身を包んでいる。肌色まで濃いため、下手すると夜には姿が背景に溶け込んでしまうかもしれない。 「うそうそ。たくさんあるから二枚でも三枚でもどーぞー」 弟が兄に向けて濃い青のブランケットを投げた。兄は組んでいた腕を解き、片手で受け取った。 「持って来たんですか? 準備が良いですね」 ミスリアは感心交じりに問うた。自分とゲズゥとイマリナを含めた四人の中で荷物が一番多かったとはいえ、これだけの大きさの毛布を何枚も持ってきていたようには見えなかった。 「ううん、港に居たお姉さん方がくれたよ」 「親切な方々にお会いしたのですね」 「んー、親切か。ちょっとお喋りして、別れ際に『私だと思って大切にしてください』ってノリで渡されたけど」 「は、はあ」 面食らって、返事につまずいた。 「いやー、つくづく便利な顔だよねぇ。両親には毎日感謝してるよ」 暗に顔が効して女性たちから貢物を巻き上げられたのだと彼は言うのだが、あまりに自然な笑みからは嫌味っぽさを感じない。 (自覚してる上に有利に働かせてる……いっそ清々しいわ) ミスリアはつられて笑顔を返す。 「ご両親と言えば、ゲズゥとは腹違いなんですよね。どういう事情か、教えてくれませんか? 興味あります」 アルシュント大陸では貴族以下の民が複数の伴侶を持つ事例は極めて珍しい。珍しくはあるけれど、法やご教示で禁止されている訳ではない。一対の男女が添い遂げることの美学は確立されていても、それ以外の形も一応容認されている。 ほとんどの場合は当人たちが嫉妬――から発生する暴力――などを原因に家庭を崩壊させるので、結果的に一夫一妻制が主流になっているだけだ。 「詳しい話は僕よりも兄さんがよく知ってると思うよ」 「なるほど」 そこで二人の視線は同じ一箇所に集中した。 お待たせしました。次のメインイベントに着くまでちょっとだけ呪いの眼兄弟のバックストーリー入ります。 兄:汗・土・森・革・鉄の匂い 弟:香草・香油・松・甘味・革の匂い リーデンからはなかなか汗と鉄の匂いがしない。イケメンマジック。 ミスリアはいつも花みたいな香り? |
35.j.
2014 / 08 / 31 ( Sun ) 「愚かでしたわ。十分な才能もカリスマ性も持たないのに、ひいお祖母様を目指した。聖女の理想像に憑りつかれて、いらぬ犠牲を出してしまいました」
レティカが言うには、かつて聖女アンディアが活躍した時代にはまだ聖獣を蘇らせなければならないという切迫感が少なく、聖女が個人の力で成せる業も限られていたとか。それでも社会を左右する力は持たずとも人の心を照らす力があった。信仰心は民の暮らしに潤いと、不安のはけ口を与えるものだ。 そしてその信仰心の象徴となる為に聖女アンディアは立ち上がった。 聖女レティカは今の時代で同じことをしようとしたのである。 「聖地巡礼は口実、いわばついででした。何もかもが売名行為だったのですわ。本当はわたくし、聖気を扱う力量もそれほど優れてないんですの。もっと修行を積んでから旅立つか、地道に慰安の旅に専念すべきでした」 涙の煌めきが白い頬を伝う。 「わたくしが欲張ったりした所為で二人は……! わたくしに、生きる権利はありません」 「違います。それは、違います」 ミスリアは強く否定した。 (あの二人はもしかしたら、聖女レティカの本心を見抜いていたんじゃないかしら) 知っていたからこそ彼女の人生観が好きだと言ったのではないか。 欲張った所為で死んだのかなんて、断言できない。欲張らなければ死なずに済んだのかなど、誰にもわからない。かつてユリャン山脈付近の集落にて、ゲズゥに似た言葉をかけられた時が脳裏を過ぎった。 高い理想を目指すことそのものが、間違っているはずが無い。誰かが高い壁を超えんと挑み続けなければ、後に続く他の者は挑むことさえ忘れてしまう。ましてや―― 「レイさんとエンリオさんは貴女のひととなりを、使命を! 魂を信じて、それに殉じたんです」 彼らは無理やり連れ回されていたのではない。熟考した果てに、従おうと選んだのだ。 「貴女が自分の価値を信じられなくても、信じて命を賭した誰かが居た事実は変わりません。それをどう受け止めて行くかは貴女の自由です」 去った人間の想いをどう解釈するかは、残された人間が悩み抜いて決めるしか無い。 「そのお言葉がきっとわたくしにとっての真実なのだろうと、なんとなく頭ではわかっていますわ。でもどうしても受け入れられませんの」 レティカは悲しげに目を伏せた。 「お医者様の仰った通り、時間が必要ですわ」 ミスリアは頷く代わりに微かに微笑んだ。 「私、今日はもう帰りますね」 そう告げるとレティカの視線が追ってきた。 「また今度、お話できませんか。聖女ミスリア」 「勿論です」 「ありがとうございます」 いくらか生気を取り戻した顔で、レティカは笑ってみせた。 _______ 戦局が討伐隊にとって不利に傾き始めたといち早く察したのはエンリオだった。 そうとわかれば彼は一切迷わなかった。自分の対となっている同僚と目を合わせ、その方へ愛する主を突き飛ばした。 「エンリオ!? 何を」 「行ってくださいレティカ様」 それ以上言葉を紡ぐ余裕が無い。 女騎士も察しがよく、聖女レティカを担ぎ上げて颯爽と走り出した。 「待って! は、離しなさい、レイ! 貴方たちはどうして普段喧嘩ばかりなのにこういう時は結束が固いんですの!?」 一番の笑顔を向けたつもりだったのに、対するレティカはこの世の終わりを見たような顔になった。 その時、大地が割れた。 死の臭いが瘴気と共に溢れだした。 危惧していたことだ。河から上がる個体ばかり警戒して、誰も土の下から出る魔物に反応し切れていない。魔物狩り師たちは逃げ惑っている。 巨大な舌の形をした異形どもをかわしながらエンリオは攻撃を繰り出した。レティカの去った方向を確認しつつ、ナイフを放つ。一体でも逃がしはしない―― 敵を牽制しつつ距離を取ろうとしたエンリオは、俄かに片足を絡めとられた。 ――化け物の分際で、すばしっこい奴。 実際には問題は速さではなく数だった。いかにエンリオの素早さでも、かわしきれない。 次いで腕も捕まった。鋭い歯が肌に食い込む感触があった。激痛に耐えんと奥歯を噛み合わせる。 ふと目をやると、ずっと先の方でレイが担いだ荷物を思いっきり投げ飛ばしたのが見えた。その乱暴な方法により、主は安全圏に届いた。司教様たちに引かれて聖女レティカは結界の中に入ったのである。 身軽になったレイは踵を返し、エンリオが逃がした追っ手を斬りに戻っている。 その時点でもう、視界がぼやけていた。レティカの身の安全が確認できた途端に気が遠くなったのもある。 ――レティカ様は柔らかいな……。 触れる機会など滅多と無かったから、突き飛ばした一瞬の感触に浸った。 「どう、か……あな、たの――願いを、りそう、を……かなえて――」 つまらない人生に意味を与えてくれた女性に想いを馳せる。何があっても諦めずに頑張ってほしいと、誰よりも応援したいと思えた、本当はとても弱いヒト。 腹を喰い破られ、四肢を引き裂かれ、ついに意識が途絶える最期まで。 エンリオはずっと人知れず笑っていた。 |
35.i.
2014 / 08 / 31 ( Sun ) 「……私は甘いですね」
唇を噛んだ。護衛になると決めてからまだ日が浅いリーデンの方が、既に先の先まで考えていたのだと意識すると、自分が情けなくなる。 「あははは! そんな泣きそうな顔しないでよ。僕も兄さんも油虫並のしぶとさを備えてるから、『その時』なんて簡単には来ないって。十四歳からそんなんだと将来がヤバイね、もっと気楽にしたら?」 「善処します」 ミスリアは苦笑を返し、話はそこで終わった。 しばらくして二人は診療所に着いた。 あの医者は何処かへ出払っているらしく、従業員の一人である看護婦が迎え入れてくれた。 「奥の聖女様の件ですが、実家から迎えを出すと連絡が入りましたよ」 暗い廊下を進みながら看護婦が事務的に告げた。 「それなら一安心です」 「…………そうですわね」 眼鏡の向こうの看護婦の瞳には何か含みのある光が過ぎったが、すぐに彼女は顔を逸らして戸に二回ノックした。 どうぞ、と静かな声が返事をした。 部屋の中は薄明るかった。カーテンが全開にされていても、外の日光が少ないだからだ。 この前と違ってレティカは背中に枕を重ねて起き上がっていた。加えて、頭に巻かれていた包帯などが無くなっている。 拘束具もめっきり減って、現在は前腕を押さえるベルト一本だけだ。動きは制限されているが、本のページを捲るだけの自由はあるらしい。 手元の本から顔を上げ、聖女レティカは長い睫毛を何度か上下させた。 「先日は失礼しました」 開口一番に彼女は謝罪した。「貴女に非はありませんのに」 「いいえ、お気になさらず。具合はいかがですか?」 ミスリアは自力で車輪を回してベッドに近付いた。背後では気を遣った看護婦とリーデンが廊下に留まり、戸をそっと閉めている。 「少し落ち着きました。落ち着きはしても、気分が良くなりませんけれど……お医者様は、わたくしが最も必要としているのは時間と休養と仰いましたわ」 そう答えたレティカの表情は疲労に彩られていた。医者にかけられた言葉を、まるで遠い場所での出来事みたいに語っている。 「私で良ければ話を聞きます。あ、でも、私よりも迎えに来る方の方が話しやすいと言うのなら――」 他に相談相手が居ないと勝手に決めつけたみたいな申し出だったと気付いて、ミスリアは弁明しかけた。 「いいえ。あの家に、わたくしの話し相手などいませんわ」 レティカは弱々しく頭を振った。 「思えばわたくしが一番肩の力を抜いて接していられたのが、エンリオとレイでした」 ふっ、と痩せこけた面貌に自嘲的な笑みが浮かぶ。 「二人はわたくしの為に死ぬ覚悟を決めていたのに、わたくしには彼らの命を背負う覚悟が無かった。なのに誤った判断の道連れに…………」 彼女は両手の拳を睨んだ。手首には切り傷の痕が幾つか残っているのが窺える。 握り締められた拳の上に自分の手を重ねようか逡巡して、ミスリアは思い止まった。懐の中に腕を滑らせ、小包を取り出す。 「実は預かっている物があります」 包み紙を開いてみせた。直ちに聖女レティカは息を鋭く吸った。 「エンリオのナイフですか」 いつしか碧眼が濡れていた。 彼女はレイの剣を物置に仕舞ったことをぽつぽつと話した。落ちぶれても騎士の家――その家に伝わる剣を、目に入れるのが辛くても捨てることはできなかった、と。 |
35.h.
2014 / 08 / 30 ( Sat ) 「そうなんですか」
少し落胆して言う。 「聖女さんは雪が見たい? 好きなの?」 リーデンはのんびりとした口調で問い返した。 ミスリアは目を閉じ、瞼の裏に見慣れていた冬の景色を思い浮かべる。 春夏秋冬、どの季節が好きかと問われても答えられないだろう。どの季節にも楽しみがあれば苦労もある。冬は他よりも苦労が重い分、より一層頑張って楽しみを追い求めたい季節だ。 「そうですね。心が洗われる気持ちになります。私の故郷は降らなかったんですが、教団に住み込んで修行をしていた頃は、朝一番に眺める純白の一面がとても好きでした」 「へえ、いいねぇ。教団の拠点って山の上かなんかにあったりする?」 「人里離れた高原にあります。生活は不便も多かったんですが……それはそれで、充実していました」 他の見習いたちと共に雪かきに費やした長い時間を想って、くすりと笑う。 「僕も雪は結構好きだよ。どんな色にも染まる感じとか――」 言いかけたままリーデンの声が途絶えた。 どうしたのかと思ってミスリアは振り返り、彼の視線が斜め左を向いていることに気付く。 「アレって魔物狩り師連合の連中だよね」 広い街道の反対側、ミスリアらとは逆方向に歩いて来る六人ほどの武装集団を指差している。着込んでいる装備に統一性が無いため、街の自警団とは違うだろう。何人かは怪我しているのか、所々包帯を巻いている。 見知った顔は居ないかな、と考えてミスリアは集団をじっと見渡した。視線に気付いた彼らの方が手を振る。 「聖女ミスリア! それから、護衛の方」六人は通行人を避けつつ街道を横切る。「……えーと、ユラス氏でしたか」 「別に『護衛の人』でいいよー」 にこやかにリーデンが応じた。ミスリアは座ったまま一礼する。知らない顔ばかりだけれど、向こうが覚えていても不思議はない。 軽い挨拶と世間話を交わしてから数分、魔物狩り師の一人が前に出た。髪を短く剃った、首筋の大きな傷跡が特徴的な女性だ。 「聖女様、ちょうど良かった。貴女に預かって欲しい物があるのです」 「何でしょうか」 「これを」 女性は懐から小包を取り出し、掌の上で包み紙を解いて見せた。 現れたのは三本のナイフ。空気抵抗を最小限に抑える為の薄くてスリムなデザイン、ハンドルに覆われていない剥き出しの柄部分。見覚えのある投げナイフだった。 「レイ殿のロングソードは回収してすぐに聖女レティカに渡せたのですが、こちらのナイフは後になって見つけましたので。もしもお会いする予定なら、返してあげて下さい。家紋が刻まれていたあのロングソードと比べると価値の無いな物かもしれませんが、きっと持っていたいのではないかと」 女性の表情は真剣そのものだった。元の持ち主がもう居ない以上「返す」という表現は少し違うが、意図は伝わった。 「……わかりました」 ミスリアは壊れ物を扱うような慎重な手つきで小包を受け取る。 「では、我々はこれで」 魔物狩り師たちは大聖堂の方に向かって雑踏の中に再び紛れた。 直後、リーデンが車椅子を再び押し出した。 (遺品の受け渡し……本当にレイさんとエンリオさんは戻らないのね) 寂しさと喪失感を胸に、ミスリアは手の中の小包を見下ろした。 「レイさんたちは、聖女レティカが新しい護衛を雇って前に進むことを望むでしょうか」 呟きは街の音に消えそうなほど小さかった。が、リーデンはしっかりと拾って答えた。 「それは彼らの間の問題だから部外者の意見なんて無意味だけど。僕だったら、自分の犠牲を無駄にして欲しくないと思う」 珍しく真剣な声が背後から降りかかる。かと思えば、くくっと笑う声がした。 「だってさ、この僕が死んでまで護り抜くんだ。やり遂げてくれなきゃ許さないよ」 「なる、ほど……?」 「兄さんも多分同じ考えだよ。いっぺん派手に泣いてくれればそれで充分。心おきなく、僕らの屍を踏み越えなよ」 「そ、そんなこと軽く言わないでください」 困惑気味に振り返る。 「君の盾になる上での覚悟は決めてるよ」 美青年の慈しむような微笑みは、頼もしいと同時にどこか恐ろしかった。 彼の命を背負うからにはこの場はあしらってはいけないと感じた。 |
35.g.
2014 / 08 / 26 ( Tue ) 完全な沈黙の中で澄んだ碧い瞳だけが動いている。その様子を医者は鋭い眼差しで観察した。そして何かに納得したのか、手を伸ばして猿ぐつわを解いた。 「最後に飲ませた薬がいくらか効いたようですな。錯乱していないようだ」彼の言う通り、認識の色が濃いように見えた。拘束されている状況を理解しているのだろう。 「聖女レティカ、ご気分はいかがですか? 私がわかりますか?」 試しに呼びかける。静かに、ゆっくりと。碧眼はすぐに声のした方を探し求め、唐突に瞳孔が焦点を合わせた。次いで掠れた声が発せられる。 「……め…………て」 「はい? 何でしょう」 何と言われたのかもっとよく聴きたくて身を乗り出す。対するレティカの瞳は大きく見開かれた。 映し出された感情に驚く。――拒絶? 「や、めて。貴女の清浄な気は見たくありません……わたくしの前から、消えて下さいませ」 「消え――……」 冷や水を浴びせられた錯覚を覚える。思わず固まった。 (どうして) 拒絶された理由がわからない。清浄な気とは前に言っていた、人の周りの空気に色がついて見えるという話だろうか。でもそれならば尚更わからない。引っ込めようと思ってどうにかできる代物ではないのに。 「あの、私」 「聴こえませんでしたの!? 出て行って!」 ――バンッ! 「きゃっ!」 ミスリアは素早く身を引いた。ベルトを千切りそうな勢いでレティカが身体を浮かせかけたのだ。目玉が飛び出さんばかりの険しい表情にゾッとした。 一瞬後には車椅子がひとりでに下がっていた。困惑して振り返ると、ゲズゥが威圧的な視線で見下ろしてきた。 今日はもう諦めるしかないのだとミスリアは察した。 医者に向けて会釈し、目配せを交わす。それが終わるのを見計らって車椅子がくるりと半回転した。 「また来ます」 部屋から出る際に、振り返らずに言い残した。 聖女レティカは一言も返さなかった。 完全なる静寂の中で彼女がさめざめと泣いている気がした。 _______ 己が歩けるようになるまでならと、ミスリアは何度でもレティカの元に通いつめるつもりでいた。護衛たちは異を唱えなかった。どうせ歩けない間は船に乗らない方がいいだろうと二人とも付き合ってくれている。 最初に訪問してから三日、今度はリーデンを伴い、車椅子を押してもらっている。 (今日はちゃんと聖女レティカと話せるかしら) 前回の結果がまだ記憶に新しいため不安が大きい。流石に「消えて」には深く傷付いた。 (だからと言ってあっさり引き下がってはいけないと思うけど……) ため息交じりに白い息を吐く。街道は相変わらず寒さも忘れられそうなくらい賑わっている。 ふと思い立って見上げると、空は薄い灰色の膜に覆われていた。 「イマリナ=タユスでは冬は雪が降ったりするのでしょうか」 「ん~? この辺りはあんまり降らないよ。せいぜい年始に通算二~五回程度かな。それも積もるような雪じゃなくて午後にはすぐ溶けて水っぽくなる感じの」 |
35.f.
2014 / 08 / 23 ( Sat ) 室内にはひとつだけぼんやりと明るい輪郭があった。四角い窓だ。 医者は窓まで歩み寄り、音を立てないように静かにカーテンを横に引いてどけた。暖かい日差しが眠り姫を淡く照らす。外の天気は曇っているようで、部屋の中の明るさが雲の運びに応じて明るくなったり暗くなったりしている。ミスリアは自ら車椅子の輪に手をかけた。 少し薄暗いが、ベッドまでの道のりに障害物は無いと見たので問題なく進められる。 病室に入った瞬間にとある香りが鼻についた。それもそのはず、診療所中の至る所に備えられている底の浅い皿の中には、乾かされた花びらや樹皮が重なっているのだ。とりわけこの部屋の中は他の臭いを紛らわして隠そうとしているのか、ポプリのツンと醒める香りがやけに強かった。 ベッドのすぐ傍まで車椅子を寄せると、ほどなくして、雲が太陽を妨げるのをやめた。 「――――」 思わず唇から漏れそうになる声を両手で封じた。 見知った人間のあまりの変貌に目を瞠る。 医者や従業員の努力か、話に聞いたような汚れは目につかなかった。 一方で顔や身体はすっかりやつれてしまっている。蒼白な肌は乾き、目の周りには真っ黒な隈ができていた。あるべき艶を失い、白髪の混じってしまった長い髪。元より細腕だったのにますます肉が落ちて骨ばってしまっている二の腕。指や手首、頭や首に巻かれている包帯に至るまで、全てが痛々しい。 それでいて最も異様だったのは―― 「先生、これは一体…………?」 震える人差し指を指して問う。 横たわる聖女レティカは猿ぐつわを噛まされていた。拘束具は他にもあった。ベッドに縫い付けるように何本もの分厚いベルトが、ほっそりとした体躯を横切っている。 「それなら」特に動じない様子で医者は顎鬚を撫でる。「保護して何日か経ってからですかな。目を覚ます度に自害しようとするんで、仕方なく。従業員と私の総勢三人で押さえつけましたさ」 「じ、がい……自害」 何度もその単語を口の中で反復した。曰く、隙あらば舌を噛み切ろうとしたり手首を掻き切ろうとしたり、あまつさえ頭を壁に叩きつけたりしたのだとか。正気の沙汰とは思えない。 レティカが負ってしまった闇の深さを、自分は果たして理解できるつもりでいたのだろうか。どんな言葉をかけるつもりでいたのだろうか。同じ絶望を知らない人間との会話は、かえって不快にさせてしまうかもしれないというのに。 愚かだった。胸の奥に針が刺すかのような後悔が芽生える。 「考え直せと説得はしたんですがね。うわ言ばっかりで会話になりやせんで。精神を落ち着かせる薬も処方してみたんですが、なぁんにも届きそうにない。こりゃあ、早いとこ身内に引き取らせるか……」 「引き取らせるか……?」 ミスリアは先を促すように囁いた。 「望むままにさせてやるしか無いと思いますな」 医者はこうも続けた。此処には生きる気力を欠いた人間をいつまでも置くだけの余裕が無い、と。そもそも生きたいと願う理由が無いのなら、無理に生かす方が残酷だ、とも。 「残酷だと言うのには賛同します。けれどそれでも自殺はダメです」 この世に生を受けた奇跡を自らの手によって絶つ行為――それがいかに道徳を踏み外しているか、を論じるつもりは無い。 ミスリアは項垂れ、膝の上で拳を握った。 「彼女は混乱しているだけで、生きる理由を一時的に見落としている、とそう考えられませんか? 己をしっかり見つめ直せるまでに回復しない内に、自害を選ぶのは早計です。そうならないように周りが手を尽くすべきです」 強く言い切って顔を上げると、医者は何故かニヤニヤと笑っていた。嫌な印象は不思議と受けなかった。 「ならば本人にも言ってみなされ」 ベッドを見下ろすと、ちょうど聖女レティカの睫毛が震えた。 やがて碧い双眸が億劫そうに瞬く。 |
35.e.
2014 / 08 / 22 ( Fri ) (ひどく意気消沈しているようだったとは聞いたけれど……)
このような話を聞かされた後では、廊下を突き当たった先にあるはずの戸が、やたらと遠く感じる。気を紛らわせる為にもミスリアはこれまでの経緯を思い返した。 まず聖女レティカに会うと決めた後、真っ先に訪れたのがイマリナ=タユスが誇る蒼穹の大聖堂だった。 するとそこは常ならぬ状態にあった。本来の穏やかで神々しい雰囲気は失われ、修道女たちは一般の参拝者を門前払いにしていた。 何事かと思って中に入れてもらうと、中庭では司教が一心不乱に魔物狩り師たちの穢れと無念を清めていた。その場に集まっていた僅かな生存者たちと、もう肉体から永遠に乖離してしまっていた魂たちの安寧の為に。 彼らは疲弊しきっていた。後はもう教団へ応援要請を出し、周辺には避難勧告を出して、それ以上どうこうしないつもりだと誰かが告げた。 ミスリアは首振り人形の如く何度も頷くだけだった。自分が惨劇に巻き込まれずに済んだ幸運に心底感謝しながらも、そんな風に安堵してしまう己を恥じた。 そして思う。人を導く「聖女」の在り様を目指すならば、正解は果たして何であろうか。 共に逝きたかった、失われた命の盾となり代わりとなるべきだった、と嘆きながら生存者を慰めるのか。それとも、街中の演壇に立って大々的に復讐を誓えば良いのか? 「聖女」たる清らかな魂の輝きを、未来への希望として町民の心に焼き付けられるならばそれも良いだろう。ミスリア自身はそんな大衆を魅せられる崇高な人間になるつもりは無いし、なれるとも思わない。 (私の優先すべき目的は、聖獣を蘇らせる旅を進めること。その一点に集中している限り、道を見失ったりしない) いつの間にか問題点から逸れてしまったけれど、そういえば聖女レティカこそが人を導く生き方を目指していたはずだ。 (結局、彼女は大聖堂には居なかった……) 修道女たちに問い合わせてみたら、町医者が身元を預かっていると教えられた。どうやら聖女レティカは魔物狩り師たちと一緒に居たはずが、何故かふと居なくなったのだとか。何人かが捜しに行ったものの見つからず、諦めそうになった時点で医者からの連絡があったと言う。 消息が知れても迎えに行くと名乗り出る者は居なかった。皆、大聖堂での祓いごとで手一杯だったし、同時に、レティカが断りなく飛び出て行くくらいに一人になって落ち着きたかったのならそれも仕方ない、と気遣う声があった―― 「先生、お伺いしてもよろしいでしょうか」 ミスリアは先をゆっくり歩く医者を呼び止めた。 「なんなりと」 「大聖堂に連絡してから、お見舞いに来られた方はいましたか?」 「うむ、一度だけ修道女の方が。追い返しましたがねぇ」 医者は歩みを再開し、一同は数秒としない内についに戸の前まで来た。戸の向こう側は、寝息すら漏れないほどに静かだった。 「それは何故ですか?」 「彼女らの瞳を見れば一目瞭然でしたさ。きっと、今の聖女様の姿を前にして怯えるだけで終わるだろうと。それは見舞う方見舞われる方にとっても何の足しになりゃせん。時間の無駄だ」 医者は顎鬚を一撫でして答えた。 「…………そうですか」 「そうさね。そんじゃまあ、小さい聖女様よ、開けますぞ」 ミスリアがしっかりと「はい」と答えるのを聞き届けてから、医者は取っ手に手をかけた。 ――ギッ。 戸は短い音一つだけ立てると、呆気なく開いた。 廊下の闇と部屋の中の闇が、混ざり合って繋がる。 |
35.d.
2014 / 08 / 20 ( Wed ) _______
猛禽類を思わせる濃い顔立ちの医者と、意外な形で再会していた。 成り行きのままにまた世話になっているが――今度は診察されているのはミスリアである。医者は車椅子を一目見て、ミスリアの体調不良を知ると、すかさず診療所の一室に案内したのだった。 「つまるところは、過労から昏睡状態に陥ったと」 医者は黒い顎鬚を一撫でし、自分が書き綴っているメモから顔を上げた。 「はい。おそらくそういうことになると思います」 ミスリアは姿勢を正して頷いた。 「よくあるんですかな? 聖人聖女の患者を診るのは珍しいもので」 「どうでしょう……他の方はわかりませんけど、私は以前にも似たようなことがありました」 「ふむ。まあ異常は無さそうだ。徐々にまた歩行に身体を慣らせばいいでしょうな。最初は数歩ずつ、必ず何かを支えにしながら試してみなされ」 「わかりました。ありがとうございます」 彼のアドバイスに、ミスリアは素直に返事をした。その反応を満足そうに見届けた医者は、書類や器具の片付けをし始める。車椅子の後ろではゲズゥが無言で佇んでいる。 決して居心地の悪くない沈黙が診察室に満ちる。もうしばらく静かに休んでも良かったけれども、ミスリアにはそれを破る必要があった。 「それで、先生」 「む?」 「あの、元々の用件ですけど……」 躊躇いがちに切り出す。 この診療所を訪れた当初の目的は、自らの治療を求めていたからではない。大聖堂で聞き知った情報を辿った結果だ。医者は振り返りざまに点頭した。 「うむ、もう一人の聖女様のことですな。奥の部屋におりますが……」 医者は眉根をぐっと寄せた。益々獲物に迫る猛禽類を彷彿とさせて、ミスリアは生唾を飲み込んだ。 「会いますか? 私ゃ勧めはしませんがね」 「え……どうしてですか……?」 彼女に会う為にわざわざ足を――正確には足を使ったのはゲズゥでミスリアは車椅子を押されていただけだが――運んだというのに。 医者は口元を掌で覆い、その手の中に深いため息をついた。或いは覆っていたのは欠伸だったかもしれない。 「まあよいでしょう。それはまず会ってみた方が話が早い」 そう言って医者は白衣を脱ぎ捨て、襟を立てた深紫色のワイシャツ姿を露にした。ついて来るようにと手で合図する。それに呼応して車椅子が動き出した。背後の青年に「すみません」と声をかけるも、特に応答は無い。 暗い廊下を、三人で進んだ。医者の足取りは緩慢としていた。 「近辺をうろついているのを私めが保護しましてね。こう言っちゃなんですが、路地裏の住人と間違えましたぞ」 「路地裏!? そんな――」 あの気高く清廉な聖女レティカがまさか、と耳を疑う。 「悲惨なもんでしたさ。髪まで汚物に塗れて服は破け。這うようにふらふら歩き。ブツブツと低い声でしきりに何かを呟いていた姿は、そりゃあ気が触れた人間にしか思えなんだ」 医師が白衣を着るようになったのは19世紀以降らしいですね。が、この物語は100%フィクションなので関係ありません。 |
35.c.
2014 / 08 / 06 ( Wed ) 「エンリオさんと、レイさんが……死んだ、んですか」オウム返しにする自分の声をミスリアはどこか他人事のように聴いていた。「確かですか?」と訊き返すと、ゲズゥは「さあ」と答えた。
「リーデンが人づてに聞いた。確認したければ聖女に会うんだな」 「はい……」 ミスリアは腕の中の枕に視線を落とした。美味しそうなプラム色の布地に金糸の刺繍。丁寧に作り込まれたこの枕はリーデンがどこかで買ったのだろうか。それともイマリナの手作りなのだろうか。見つめても見つめても答えはわからないし、心にのしかかる重石は動かない。 ――別れはいつだって突然訪れる。 あまりよく知らなかった人が自分の与り知らない所で亡くなったと聞けば、特にそう感じる。 最初のショックが引き潮のように薄れた後、ミスリアは二人に最後に会った日を思い出そうとした。強面の女騎士と最後にあった時のことはまだ鮮明に思い出せる。ミスリアが討伐に参加するつもりだと聞いて、彼女はぶっきらぼうに「ありがたい」と言ったのだった。 (守れない約束になってしまったわ。不可抗力だったとはいえ、情けない) しゅんと気持ちが萎れる。 今度は童顔で小柄な男のことを思い浮かべた。いつしか、馬車から降りる際に手を貸してくれたのを覚えている。 彼は最後までよくわからない人だった。親しみやすそうなのに、コートの下に隠されていたたくさんのナイフを見た時は、思わず寒気がしたものである。 関わった時間は短かったけれど、命を懸けた局面に共に立ったのだ。なのに驚くほどミスリアは二人について何も知らなかった。これまでどんな旅をしてきたのか、趣味嗜好、出自や歳でさえも。 もっとたくさん話をすればよかった、なんて後悔しても仕方ない。いつ別れが来るのか知っていて人と接していられた方が楽かもしれないが――現実には、この人はもうすぐ会えなくなるから今の内にもっと時間を共有しろ、などと誰も教えてはくれない。 彼らはどんな最期を迎えたのか、どんな無念を抱いたのか、何を遺したのか。ミスリアは想いを馳せる。そういえば色々と対照的な二人はよくつまらない言い合いをしていたけれど、あれはああ見えて仲が良かったのかな、出会い頭ではどうだったのかな、など。 激しい悲しみは感じない。喪失に、ただ静かに気持ちが沈んだ。 死地に立つ覚悟を決めていた彼らのことだ、訃報そのものに意外性は無かった。 それでも残念だ。二度と会えない事実が、終着点を見ることなく旅が唐突に終わってしまった彼らの一生が。 (聖女レティカは後任の護衛を雇うのかな……ううん、それより大丈夫かしら) 自分はエンリオたちの死を人づてに聞いたからには悼むが、深い関わりを持っていた人間の場合はそれだけでは済まない。ましてやその場に居た人間ともなれば―― 「やっぱり、聖女レティカに会います」 エンリオとレイの生死の真相も気にかかるが、その上で純粋にレティカが心配だった。 彼女とは同じ立場であり、同じ目に遭う可能性は高い。どうしても他人事とは思えない。護衛を――供を、いつ失ってもおかしくないのはミスリアだって同じだ。 (もし私たちも参加していたら……?) 想像することさえ恐ろしかった。ゲズゥは自分が死んでも気にするなと言ったけれど、「わかりました」と割り切れるものではない。 今やリーデンが加わって護衛が二人になった分、ミスリアは三人分の人生を――命運を背負っていることになる。 死ぬのは怖い。死なせるのも怖い。自分の為に誰かが死んで一人取り残されたらと想像すると、怖いなんて単語だけでは表せない心持ちになる。 気が付けば抱きしめていた枕がはち切れそうになっていた。ため息をつくに合わせて、腕の力を抜いた。 ミスリアの発言に対し、正面に立つゲズゥの面貌に微かな不満のような色が浮かんだ。 「起き掛けに歩き回る気か。まだ立ち上がれないだろう」 「そ……そうですね。でも街中では貴方に運んでもらうのは無理がありますし……」 人目のつかない場所だといくらでも担いでくれて構わないのだが、街の中はどうしても目立って不審がられてしまう。背負われても抱えられても然り。 ゲズゥは無言で首をコキコキと鳴らす。 「車椅子」 と言い捨てて、彼は瞬く間に姿を消した。 |
35.b.
2014 / 08 / 01 ( Fri ) おそるおそる素足を伸ばした。母指球に伝わった床の冷たさに吃驚して、反射的に足を引いてしまう。 (大丈夫かしら……) 食事を経て幾らか力が入るようになったとはいえ、まだ万全の状態からは遠い。ベッドから起き上がって数分も経たないのに、既に上体を支える背筋に鈍い疲れが出ている。まともに歩けなくなっていても仕方ない。 とりあえず滑り落ちるようにそっと床に両足をついた。ベッドに手をつけたまま、立ち上がる。 意識が無かった間もちゃんと誰かが定期的に裏返してくれたのだろう。リーデンが「微動だにしなかったよ」と形容するほどに寝返りを打たない眠りでも、血行は想像していたよりも良さそうだ。 一歩踏み出せたかと思えば、視界が揺れた。踏み出した方の膝が前触れも無く崩れ――かと思えば視界が暗転した。 鼻腔を満たした革の匂いに噎せかける。両肩を支える手が妙に熱く感じる。 刹那、抱きしめられた感触がフラッシュバックした。 ――ありがとう―― あの時耳元で囁かれた一言が蘇った。 『お前のおかげで、俺は大切なモノを失わずに済んだ』 どうしてかはわからない、体温が急上昇した。 実際にあの出来事が二十日前にあったのだとしても、ミスリアにとっては昨日のような、ついさっきのことのような感覚である。 あれは場の雰囲気に呑まれての行動。特殊な状況下での一度限りのこと。今また行われる可能性は皆無のはず、なのに何故か気持ちは落ち着きを失う。倒れないように支えてくれたのに、お礼を言う余裕も失われていた。 いけない、近過ぎる。離れなければ。直ちに離れなければ、とただ一つの想いが頭を占める。至近距離に立つ青年を突き飛ばし――実際はミスリアの腕力だと少し押しのけたようなものだけれど――反動でベッドにぽすんと腰を落とす。 (嫌だったわけじゃないの) 思い出すと胸の奥に温かい波が生じるような気さえする。しかしダメだ、何がどうダメなのかはわからない、ダメなものはダメだ。そう、心の準備だ。心の準備が足りないのだ。 不審に思われただろうか、今自分はどういう顔をしているのだろうか。ミスリアは茶色の瞳を遠慮がちに上へと彷徨わせた。 常に無表情な男は変わらず無表情なので、気にしたのかどうかは読めない。次第に居たたまれなくなって、適当に喋り出すことにした。 「え、えーと……それにしても、二十日もお待たせしてしまってすみません。退屈でしたでしょう?」 「別に。建物の中で適当に運動してた」 何でも無さそうにゲズゥはサラッと答える。 (独房にずっと幽閉されてた間もこんな風に平然としてたのかな) だとしたら末恐ろしい精神力である。自分なら発狂するに至らなくても、目が溶けるまで泣いたに違いない。看守が去る度に、寂しさと恐怖に震えたり叫んだりしたかもしれない。 想像してみたら、ぶるっと寒気がした。これからもそんな状況は絶対に回避して生きよう。 「リーデンさんはどうしていました?」 気を取り直して訊ねる。 「アレなら、引継ぎだの交渉だのに奔走してた。本気でこれまでの生活を手放すつもりらしい」 「そういえばリーデンさんって何をされてる人なんですか? 商人?」 そう訊くと、ゲズゥは目を細めた。 「忘れた。麻薬や国宝級の宝を売買してたような気はする」 「え……」 麻薬も気になるけれど、国宝なんて凄まじい物をどうやって入手しているのか。色々と方法を想像してみて、結局どうやっても違法なやり方にしか思考が辿り着けなかった。 ここは知らない方が気楽かもしれない、と一人苦笑した。 (あれ? 何かまだ抜けている) ミスリアは笑みを作っていた表情筋をはたと止める。眠っていた二十日の間にまだ何か重要なイベントが控えていたような気がしてならない。 ふと、青銅色の長い髪に白い半透明のヴェールを被った聖女の美しい微笑が脳裏に浮かんだ。 「……そうです! 再討伐の話はどうなりました!?」 どうして今まで忘れていられたのか、不思議である。 「先週辺りに実行された」 その返答を聴いて、ミスリアは落胆と安堵の混じった吐息をついた。たとえ誘いの声がかかっていても、意識不明だったのならどうしようもない。都合が合えば参加するとあの時レイにはそう言ったけれど、怖いものは結局怖いのだ。 そしてミスリアが参加しなかった以上はゲズゥたち兄弟が我関せずの姿勢を貫くのは理解できた。 「それで…………どうなりましたか」 「前回と変わらない結果だったと聞いてる」 瞬きすらない、即答。 残酷な内容を告げる青年の低い声はやはり何の感情も含んでいなかった。ミスリアはベッドシーツを右手でぎゅっと握り締めた。 「で、では聖女レティカに関して何か存じませんか。参加したんですよね」 「聖女は生存した」 その報せにほっとしたのも束の間、別の不安が沸き起こる。不安を紛らわせようと思って、ベッドから枕の一つを取って腕の間に抱き抱えた。 「聖女は、という言い回しに裏があると感じるのは私の考えすぎですか……?」 いつしか喉がカラカラに渇いていた。搾り出した質問は、か細く響く。 「護衛の二人が死んだ」 「……!」 潰さぬ勢いでミスリアは枕を抱きしめた。 |
35.a.
2014 / 07 / 28 ( Mon ) ベッドの中で食事を取るのも、記憶の限りでは初めての経験だった。花瓶に移された花束を横目に眺め、今日は初めての多い日だ、と聖女ミスリア・ノイラートはぽつりと思った。 イマリナが用意してくれた麦と野菜のスープを食べている間も、護衛の青年たちは部屋に残って母語で話し合っていた。何を言っているのかはこちらにはわからないが話題は何となく察しがついた。 湾曲した大剣の手入れをしているゲズゥに、リーデンが革のベストみたいな代物を見せている。 ゲズゥが頷いた後、リーデンがいきなり南の共通語に切り替わった。「僕も防具の類は動きが鈍るから好きじゃないんだけど、こういう革のヤツを中に着てるだけでも違ってくるから。自分のを新調するついでに兄さんの分も買ってくる。あんまり聖女さんの治癒能力に頼らなくて良いようにね」 最後の方はミスリアに笑顔を向けて言った。 「お気遣いありがとうございます。あの……つかぬことをお訊きします、私どのくらい眠っていました?」 ミスリアはベッド脇のゲズゥに答えを求めるような目を向ける。 黒い右目と、白地に金色の斑点が散らばる左目が、静かに視線を返した。一度瞬いてから左右非対称の目がリーデンへと流れた。意図を受け取り、兄の代わりに弟が答える。 「二十日だよ」 「二十日!? 数え間違いではないのですか!」 「ううん、数字に関することで僕に記憶違いはありえない。君は僕を助けた後に倒れて、そのまま二十日の間、微動だにしなかったよ」 「そんな……」 ミスリアは己の四肢に意識を向けた。やけに長い間筋肉を動かしていない気がしていたのが、そういう理由だったとは。 「心配したよー。前にもこういうことあったって兄さんが言うから大人しく待ち続けたんだけど」 「ご迷惑をおかけしました」 二十日も二人を待たせたのかと思うと申し訳ない気持ちで一杯になる。ミスリアはぺこりと頭を下げた。 それにしても、下手すれば二度と目覚めなかったのかもしれない。胃の底に冷たい石が沈み込んだような感覚を覚えた。 「あははー、違うよ聖女さん。そこは『よく尽くしてくれたな下僕ども』とでも言ってどんと構えてればいいんだよ。ま、そういう控え目な姿勢が可愛いんだよねぇ」 絶世の美青年はさも楽しそうに笑う。 「い、いいえ」 ミスリアは懸命に頭を振った。下僕だなんてとんでもない。どちらかと言えば、誇り高き猛獣たちになんとか認めてもらえている気分だ。 「さてそれじゃ、僕はちょっと行って来るね」 「あ、はい。いってらっしゃい」 リーデンは軽快な足取りで戸まで歩み寄り、流れる動作で戸を開閉した。勿論、戸が閉まったと気付いた時にはもう彼の姿は消えていた。 数分後には入れ替わりにワンピースにエプロンを着けたイマリナが入ってきた。いつも通りに長い髪を三つ編みにまとめている。今日のヘアバンドは薄黄緑色だ。よく考えたらそれはリーデンが着ている衣装と同じ色かもしれない。 イマリナはにこにこ顔で「もういいですか」と唇だけで無音に問いかけた。 「はい、ごちそうさまでした。今日もとても美味しかったです」 と答えると、イマリナは一層嬉しそうにはにかむ。彼女はミスリアの膝の上からトレイや食器を手際よく片付けては去った。 ベッドの上がさっぱりしたので、いざ降りてみようと試みる。 |
34.g.
2014 / 07 / 17 ( Thu ) 「ゲズゥ!」
修道女たちを押しのけるようにして駆け寄った。勢い余って、彼のお腹辺りに手を付く。 服に付着した、乾いた血の感触にゾッとした。 「ど……どうなったんですか!? その血は! リーデンさんはご無事ですか!?」 矢継ぎ早に質問をぶつけた。 星明かりにほんのり照らされた顔を探るように見上げる。青年の無表情ぶりからは、吉報か凶報かを読み取ることはできない。 黒と白の瞳のコントラストにミスリアは一瞬目を奪われ、その間に肩に手が触れたことに気が付き―― ――抱き寄せられた。足が地から浮き上がるのを感じる。 血の臭いすら意識しなくなるような、ただならぬ抱擁だ。息が浅くなる。 耳元で低い声が短い一言を呟いた。 驚愕に駆られ、表情を確認せんと反射的に試みるも、頭の後ろも強い力で押さえつけられていてびくともしない。 「お前のおかげで、俺は大切なモノを失わずに済んだ」 続く言葉にハッとなる。 ミスリアは顔を埋(うず)めたまま一度目を見開き、すうっと瞼をゆっくり下ろした。唇の間からため息が漏れる。 (それじゃあ、なんとかなったんだ) 包み込む温もりに、張り詰めていた神経が緩まった。目頭が熱くなる。 「…………よかった」 腕を伸ばして精一杯の力で抱き締め返した。 (よかった……) ゲズゥがこうして帰って来てくれただけでも嬉しいのに、二人とも無事で、本当に良かった。 心地良い安心感に身を委ねたこと数十秒。 極限までに疲弊していた精神が途切れ、ミスリアは深い眠りについた。 _______ ミスリア・ノイラートはなんとなく見覚えのある天井の下で目が覚めた。少し硬めだが温かいベッドの上に視線を走らせつつ、起き上がろうとする。天井のシャンデリアは全ての蝋燭に火が灯っており、部屋がとても明るい。 まるで長い間筋肉を使っていなかったみたいに身体の動きは緩慢だった。 「大丈夫? だるそうだね」 声がした方を向くと、大きな花束を抱えた絶世の美青年がベッドの脇に立っていた。輝かしいサラサラの銀髪、凛々しくも繊細な顔立ち。宝石を思わせる緑色の瞳に、上品そうな生地の民族衣装。寝起きにこんな浮世離れた人物が目に入ったことに、ミスリアはあんぐりとした。 傾国の美青年という言葉が新たに脳裏を過ぎる。 「確かに気怠く感じますけど……あの、この季節に何処でそんなに鮮やかに瑞々しい花束を手に入れたんですか? リーデンさん」 「温室持ってる知り合いからちょっとね」 リーデンはそこでパチッとウィンクしてみせた。花束の香りをそっと嗅いでから、それをミスリアに差し出す。 「可愛らしい命の恩人さんにお見舞いだよ」 「あ、ありがとうございます」 困惑気味に受け取る。恥ずかしい話、異性に花束をもらったことなんて十四年生きてて初めてである。頬が紅潮するのを止められない。 「礼を言うべきは僕の方だよ。君が命を懸けてくれたことはわかっているつもり」リーデンは姿勢を正して腰を折り曲げた。「ありがとう、聖女さん」 「やめて下さい、そんなに改まられても困ります! 頭を上げて下さい」 手をぶんぶんと振って懇願したら、リーデンは笑いながら元の体勢に戻った。 「あはは。あのね、休ませるなら大聖堂の中の方が良いって修道女連中がしつこかったけど、それじゃあ僕らはずっとついてられないからね。あそこから無理矢理連れ出しちゃったよ……――兄さんが」 リーデンの目線が向かった先を、ミスリアも一緒になって追った。ベッドの隣の床に横になって眠る人物を認めて、ミスリアは本日二度目に愕然とした。 「な、何でそんな所で寝てるんですか!」 「んー、兄さんの身長じゃあソファは窮屈だからでしょ」 「はあ……」 ――寝心地が悪そうなのに。でも傍に居てくれたことには、こっそり喜んでおいた。 「ところで聖女さん。お願いがあるんだけど」 「何でしょうか」 急ににっこりとしたリーデンに気圧されながらも問い返す。 「君に受けた恩があまりに大きすぎて、どうやったら返せるのか自分なりに考えててさ」 「そんな、お構いなく」 「そーゆーワケには行かないでしょ。で、とりあえずはね」 そこで彼の例のとろける笑顔が出て、ミスリアは条件反射でぼーっと見とれた。 「僕も旅について行ってもいい?」 「え?」 突拍子もない質問に瞬きを返した。 「そこの図体のデカい人なら、もう話は付けてあるよ」 「……図体がデカいのはお前もだろう」 もそり、ゲズゥが床から起き上がっている。全くそれらしい気配はしなかったのでミスリアはびくっと震えた。 「おはようございますっ」 「ああ。やっと起きたな」 「?」 一体どれくらい寝てたのかと訊こうか迷っている内に、リーデンが言い返した。 「ちょっと平均より上ってだけで、僕はまだ普通の範囲内だよ。まあそれは置いといて。良いでしょ? 僕が護衛その二でついてきても」 「戦力として申し分ない。しかも飛び道具使いだ」 ゲズゥはどこへともなく視線を彷徨わせて答える。 「情報網とか伝手とかも役に立てると思うよ。例えばさ、クシェイヌ城に行くんだって? 此処からだと水路が一番早いってこと知ってた?」 「いいえ、知りませんでした」 「船の手配ももうしてある。北行きの商船をいくつか押さえてあるから、こっちの支度が整い次第、日時の合う船に乗れるよ」 リーデンは得意げに笑った。その手際の良さに感心せざるを得ない。 「ね、役に立つでしょ? マリちゃんも良ければ連れてくよ」 一度頷き、少し考えを巡らせる為に、ミスリアは口を噤んだ。 (前から人員を増やしたいと思ってたし……ゲズゥとはいつの間にか打ち解けてるみたいだし……) 断る理由があるだろうか、と考え込んでみた。 目の前の彼はまるで憑き物が落ちたようで、以前みたいな狂気を感じさせない。まだ疑問は残るけれど、損よりも得が多そうだとミスリアは判断した。 「貴方の言葉に誠意を感じました。申し出を受けましょう。こちらとしても一緒に来ていただけると助かります。これからよろしくお願いしますね、リーデンさん」 「うん。よろしくね」 初めて出会った時と同じく、リーデンは象牙色の手を差し伸べた。 生温いその手をしっかりと握り、聖女ミスリア・ノイラートは今しがた加わった旅の供に微笑みかけた。 |
34.f.
2014 / 07 / 15 ( Tue ) 「君の泣き顔なんて初めて見るよ」
と朗らかに言ってみると、ゲズゥは顔を逸らした。左頬を伝う水分の跡がはっきり見て取れる。 「お前の泣き顔なら見飽きてるがな」 「一体いつの話してるんだか。まあ、確かに子供の頃は飽きられるぐらいビービー泣いたけど」 肩や手を支える力が緩んだのを良いことに、リーデンは試しに手足を動かしてみた。異常が感じられないので、今度は膝を折り曲げてみた。拳を握ってみた。屋根裏空間の天井は意外に高くて少し頭だけ屈めば立てるので、立ち上がってみた。 本物の奇跡だ。服や髪の汚れは残っているが、身体の状態は万全と言えよう。リーデンは唖然とした。前にもミスリアやレティカにちょっとしたかすり傷などを治してもらったことはある。聖女の力はああいうレベルの物としか思っていなかったから、今回の件が余計に非常識に思えた。死にかけた人間を、遠い場所から救えるなどと。 「なんか屋敷に入る前に戻ったみたい。こんなぶっ飛んだことできるんじゃ、もっと世間に騒がれるんじゃないの」 「おそらく、誰しもできるわけじゃない」 「へえ。後で本人にもっと詳しく聞こうっと」 しゃがんだ体勢から動かない兄が、じっと観察する眼差しで見上げてくる。乾いた血痕が額から膝までにかかっていることにリーデンは遅れて注意した。 (どんだけ返り血浴びてんの、この人) せっかく貸してやったコートも今やボロ雑巾だ。つつけば多分、怪我が出てくるだろう。 そんな姿を見下ろしていると――痛々しいと思いつつも、嬉しい。 「迎えに来てくれてありがとう。心配かけたね」 「……お前が礼を言うのか。気色悪い」 「ひっどーい。つめたーい。さっき取り乱してくれたのは夢だったのかなー?」 「黙れ、クソ弟」 リーデンはブフッと噴き出した。かなり久しぶりにその呼称で呼ばれた気がする。加えて過去に呼ばれた際の侮蔑ではなく、不機嫌しか込められていないのだから、これは笑うしかない。 逆にこっちは機嫌が良い。 「一回しか言わないからよーく聴いてね、クソ兄」鼻で笑って腕を組んだ。そしてまた破顔した。「めんどくさい弟でゴメン。見捨てないでくれてありがとう。なんだかんだでやっぱり、大好きだよ」 それが今の本心だった。 つまらない意地を張っていた。この広い世界で一人でも自分の為に泣いてくれる人が居る、ならば他に何を望むことがあろうか。しかもよく考えたら、一人だけでなく少なくとも後二人は居る。 「平穏な生活は相変わらず目指してあげられないけど、これからのことは、ちゃんと話し合って一緒に決めよう」 我侭も押し付けないよ、と左右非対称の両目を見据えて言い放った。 数秒の間の無反応の後、無表情だった端正な顔が奇妙に歪む。五角形の太陽でも見たような顔である。リーデンはまた噴き出した。 「あははははは! 泣き顔以上に面白いね! 普通に喜んでもいいんだよ」 「…………………………」 呆れて返す言葉も無いようだった。でも、言葉にされなくても伝わる想いがある。言葉にされたからこそ得られる安心もある。 『死ぬな、リーデン』 (わかってるよ。まだまだ、独りにはできないね) ちょうどその時、ずっと下の方が騒がしくなった。 (ああそっか、屋根裏に至るまでに突っ切った敵を、兄さんは殺さなかったんだ) 聖女ミスリアとそういう誓約の一つでも保っているのだと仮定すれば不思議はない。殺さなくても十分に痛手を負わせただろうけれど。 「それじゃあ、適当に残党を蹴散らして戻ろっか。僕らの可愛い聖女さまの元へ」 二度目の油断はありえない。リーデンは不敵に目を光らせた。 次いで兄へと手を差し伸べた。自然とそんな気分だった。僅かな逡巡も無く、ゲズゥはリーデンの手を取ってゆっくりと立ち上がった。 「……そうだな」 それ以上のやり取りは必要なかった。 兄弟は互いの温もりを放し――それぞれ冷たい凶器を手にして、笑みを交わす。 _______ 水晶の祭壇へ捧ぐ祈りは、大分前に儀式が終了していた。特別に許可を取って、聖女ミスリア・ノイラートは一人きりで祭壇の前に残っている。跪き、瞑目し、祈る。無心に祈りながらも聖気を展開している。どれくらいの間そうしていたのかは知らないし、知ろうとも思わない。長時間集中し過ぎて頭がクラクラするのも気に留めない。 祈りは修道女の甲高い悲鳴によって中断された。 ミスリアは急いで振り返った。祭壇の間の入り口へと視線を飛ばす。 「この神聖なる場所になんて穢れを! 立ち去りなさい!」 喚き散らす修道女の声が閉まった扉越しにも聴こえる。中庭の方からだろうか。 (穢れ!?) ミスリアの心臓が早鐘を打った。考えるよりも早く、足が動く。蝋燭だけに照らされた祭壇の間は薄暗い。既に夜になっているから天窓からは明かりが入らないのである。祭壇に祀られた巨大な水晶が淡い輝きを放っているけれど、ミスリアはそれには背を向けている。長い白装束の裾にうっかり転んでしまわないよう、スカートを両手で持ち上げて身廊を進んだ。 扉を開け放ち、中庭を見回す。夜空とガゼボの下で、修道女たちが長身の青年を取り囲んでいる。 |