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2016 / 09 / 09 ( Fri ) 死とは恐ろしいものだ。 誰に教えられなくとも、人は成長の過程でその観念に辿り着く。死とは境である。 その先に何があるのか、わかっているつもりで生きながらも、真の意味では経験するまで何もわからない。魔物の声を聴くことができても、それは同情(シンパシー)であって共感(エンパシー)ではない。 聖女になる課程で経た臨死体験と、果たして「本番」は似ているのだろうか。 望まぬ形であっても、覚悟をした形であっても、そこに恐怖は等しく待ち受ける。 (お姉さま……貴女はどうやって乗り越えたのですか。どうして、あんなに穏やかな想いを残せたのですか……) 何よりもどかしいのは――己の一切を代償として投げ出しても、大義が果たされないかもしれないという可能性だった。 引き継ぐ者への信頼。それがあったからこそ姉は心を強く保てたのではないかと、思うけれど。 ミスリアは思い浮かべてみる。たとえば教皇猊下、たとえば聖女レティカ、そしてカイル。自分が居なくなった後、彼らが居るこの世界なら、きっとなんとかなると漠然と思う。 最期の瞬間を怖れる必要はない。 けれどその時期は、今ではない。これだけは絶対に譲るわけにはいかなかった。 (諦めない……諦めちゃダメ……!) 全ては現実を直視しない為の思考であった。 薄着姿で椅子に固定され縛り付けられ、両手両足の自由を失ってしまっているという、現実を。 息を幾つか吸い込む度に、左の腰関節に刹那の痛みが走る。それも足が完全に動かせないわけではないようで、もしかしたらヒビが入っているのだろうか。痛みに耐える方法がわからず、その都度変な喘鳴を繰り返す。 暗い部屋の中は寒い。それなのに全身はびっしょりと汗に濡れている。 眠りから覚めたばかりだというのに、早くまた意識を手放したいのが正直なところだった。 『私は弱いですね』 『知ってる』 心が折れそうな時。思い出すのはいつも、青年にかけてもらった言葉。 この激動の一年を送る内に――嵐の中の大木のように――彼はミスリアにとっての揺るぎない支えとなっていた。 今はただ、無事で居て欲しいと祈るしかできないのが辛い。頭痛がするほどに、辛い。 ふいに、新鮮な空気がふわっと身を通り過ぎて行った。 「やあ。お目覚めかな」 「!」 頭の奥でカッと何かが燃え上がる。 噎せ返るようなユリの香りと共に現れた二十歳くらいの女性は、暗がりでもやはり美しかった。しかし美しさは全てへの免罪符ではない。彼女は悪辣だ。決して、許しはしない。 どう答えても毒素を吐いてしまいそうなので、ミスリアはひとまず黙ることにした。 「改めて初めまして、聖女ミスリア。ぼくはプリシェデス・ナフタ、このムラを仕切る者だよ」 肩から足首まで、もこもことした毛皮のワンピースを纏ったしなやかな肉体を捻って、彼女は腰に手を当てる。 「さて、あれから数時間経ってるよ。きみのお仲間はとっくに窒息してるね」 「……私の仲間を見くびらないでください。雪に溺れようと絶望に溺れようと、あの人たちなら絶対に起き上がってみせます」 黙ることにしたはずの矢先、思わず言い返していた。 「うん、そうだね。そうだといいね」 プリシェデスは嫌らしい笑い方をした――かと思えば、ポケットから何かを取り出して顔の前にかざした。見慣れた仕草である。そう、手鏡に映る自分の像を見つめているような。 手鏡は部屋の外から漏れる僅かな光を反射した。正面ではなく、裏面の黄銅からの反射だ。 ミスリアは目を瞠った。 「それ、は――……! 返して!」 サラッと登場しましたけど、全編中トップクラスの悪人…? |
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