50.a.
2015 / 11 / 03 ( Tue )
 季節の巡りを幾十と遡った夜。カルロンギィ渓谷がまだ濁りない平和に恵まれていた頃――民は伝統通りに大地と共に命を繋ぎ、自由に野を駆けて生きていた。
 山羊や穀物の世話も狩りも、その他の作業が全て終わって、住民が次々と灯りを消していく時刻のことだった。

「かかさま、あのおはなしして! せいちのおはなし!」
 里の一つの家の中では、母親は子が眠りにつくのを 見守っていた。
「またですか。本当に好きなのね」
「うん!」

「仕方ない子ですね」
 彼女は寝床の上で丸まった息子の頭を撫で、三枚重ねの毛布を丁寧に掛け直してあげた。
 少し隙間風の強い夜だった。窓にかけられた幕が少しだけ捲れあがるのを尻目に、彼女はせがまれたままに神話を語り始めた。子供には理解しがたい言葉が多く出てくるが、利発な息子には問題ない。


 ――かつてこの谷で、一匹の化け物が大暴れしました。
 それは強靭な後ろ足を持った翼の生えたトカゲ、つまり竜と呼ばれる姿をしていたのです。神話か魔の中にしか見られない不自然な形をしたその化け物は、毎晩のように谷に住む人々を襲い、食い荒らしました。

 ある日、谷に神に仕える神官さまが訪れました。あと少しの辛抱です、救い主が現れるまで共にお祈りしましょう、と言って彼は竜が現れる岩壁の前で膝を付きました。
 民は神々に祈りました。どうかどうか、化け物を撃ち落としてください、と。
 夜になると大雨になり、竜は壁の中から出てきました。その夜も民を飲み込もうと大きな口を開いたけれど、竜は誰も食べることができませんでした。

 もう一匹の大きな竜が現れたのです。
 黄金に輝く巨体を魔竜にぶつけて、二匹目の竜は人々を守りました。それが神々の使い、聖獣だったのです。
 雨は朝になっても止みませんでした。聖獣と魔竜は三日三晩、太陽の上がらない谷で、激しい戦いを続けました。

 人々は家の中からずっと、その戦いを見ていました。二匹の竜は力尽きる寸前までにぶつかり合いました。聖獣は清浄化の力で少しずつ竜を削りましたけど、魔竜はあまりにも大きく強く、もう聖獣の限界が近いのではないかと誰もが思いました。
 しかし聖獣は、空に向かって咆哮したのです。神々に助けを求めていたのでしょう。応えたのは風の女神、サルサラナさまでした。突風によって体勢を崩した魔竜、その首に噛み付く聖獣。

 ようやく致命傷を受けて、魔竜は銀色の粒子となって天に昇りました。
 谷の人々は救われたのです。
 それから、谷の人々はその伝説の岩壁に近付かなくなりました。遠い未来、教団がその場所を聖地と認定するまでは――。


「もっかい! もっかいききたい!」
「もういいでしょう。興奮しすぎて眠れませんよ。そんなに聖獣の話が好きですか?」
「ちがうよ、かかさま。せいじゅうじゃないよ、ばけもののおはなしがもっとききたいんだ」
「化け物の……? 聖獣に成敗された悪しき魔物が、なんだと言うのです」
 母は訝しげに訊ねる。

「みっかもたたかえるなんてすごいよ! きっと、すっごくつよかったんだよね。こわがられるって、いいなあ。かっこいいなぁ。ぼくも、ばけものになりたい」
 彼女は戦慄した。息子は化け物みたいになりたい、ではなく、化け物になりたい、と言ったのだ。
 化け物がどれほど非道で悪であったのか、人が食われるという事態の深刻さを彼女はそれから幾度となく言い聞かせたが、無邪気な少年は聞き入れなかった。

 彼の渇望がどれほど血生臭くて末恐ろしい未来を生み出すことになるのかを、ヤン・ナラッサナが実感するのは――まだずっと先のことである。

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